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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
終章 〜夢幻 錦色〜
58/63

永遠

 どれぐらいそうしていただろうか。

 闇の中で、誰かが己を呼ぶ声が聞こえた。

 鈴のような澄んだ音は耳によく透り、だからこそその声の持ち主が泣いていることに気付いた。無性に胸が締め付けられる。

 ――泣くな。

 言いたいのに、声は出なかった。ならばせめて、と何故自分がこんな状態にあるのか、必死になるのか、それすら疑問に思わず、昴は相手に意志を伝えるべく、目を開けた。この相手になら、視線だけで伝えられると思った。頬を自分のものでない滴が伝った。




 漠然と、自分は夢の中にいるのだと理解した。体がふよふよしていて、景色もぼんやりしている。藍は野を走っていた。

 綺麗な空が続いていて、それが空気が透明になる秋の空だということに気が付いた。けれど地は青々としていて、夏の香りがする。さすが夢だ、と笑って、藍は唐突に足を止めた。

 ふと、強い風になびく草原の遠くに一本の木が立っていることに気付いたのだ。永遠に続く高原だと思っていたせいか、大して大きくもなく、太くもない幹を持っているのに、どこか神秘的に見える。深い緑の地平線に根を下ろし、高く青い空に抱かれるその様は、強く藍の胸を打った。

 藍は再び駆け出した。先程よりも速度があがっていた。頬を撫でる風が気持ち良い。自身が風になったかのようだった。

 ――あと少し……。

 あんなに遠かった木は、既に間近に迫っていた。

 ――え?

 藍は足を止めた。

 一人の青年が木に手を当てて立っていた。端正な顔付きで見上げている。風に揺れる赤みを帯びた透けるような茶の髪が、胸にせまった。白の衣に黒の袴を着ている。至って平生ながらもどこか上品な装いだった。

 少し興味を覚えて――正確にはなぜか惹かれて、藍は近寄った。

 ふと、藍に気付いたのか、青年は振り返り、精悍な顔付きでこちらを見つめた。

 途端藍は、とんでもないことに気が付いた。動きたいのに、言葉を発したいのに、それが出来ない。畏れという見えない大きな手にがっちりと掴まれて、それは身体を動かすことを許してくれなかった。

 そんな藍を見て青年は、笑んだ。その表情は優雅というより、凛々しかった。一つの絵のように美しく、自分が誰であるかを忘れさせるくらいの心地良い空気。彼は何か言うべく口を開いた――。

「こんにちは」

「……」

 透る声で普通の挨拶をされた藍は、硬直してしまった。こんな場所にいて、こんな風に出会ったのだから、何か特別なことを言われるかと思ったのに。

「どうかしたのか?」

「えっ……あっ!」

 ぼーっと、しかし目の前の男を凝視していた藍は、慌てて頭を下げた。

「こ、こんにちは!」

 気を害しただろうか、と恐る恐る様子を伺って顔を上げる。あったのは苦笑だった。

「……すみません」

「いや?」

 思わず謝った藍に、返って来た言葉と表情。藍は思わず眉を潜めた。

 ――この人……どこかで。

「っ!?」

 ズキリッ――と痛みが走って、藍は頭を押さえた。

 何かを――誰かを思い出そうとした瞬間だった。鋭い痛みはそれを拒んでいる。

 ――痛い……。

 忘れてはならない、と強く思う一方で、忘れてしまえば楽だということを知っている自分がいる。

 痛みは熱となって藍を襲っていた。この感覚にも覚えがあった。あの人が――彼が消えてしまったときに己は――。

「う……」

 頭痛がより一層激しくなり、立っていられなくなった藍はその場に座り込んだ。

 影は分かるのに、形も、匂いも、色も、全てが真っ白だった。己の一部が欠けてしまったかのような喪失感だけが確かに理解出来て。

 ふわり、と頭に何かが触れたのはそんな時だった。温かくて優しいその感覚に、藍は面を上げる。瞬間。

「あ……」

 流れ込むように脳裏に写るのは、何よりも大切に想った者の最期の姿だった。

 涙が溢れて頬を滑り落ちる。しかし藍はそれに気付かなかった。視点の定まらない瞳で己の頭を優しく撫でる、目の前の男を見上げる。

「……昴」

 他でもない、彼に似ている。そう思った瞬間、あの時、自分も彼も死んだことを思い出した。己の心臓が最後に奏でた鼓動まで覚えている。

 ――だったらここは……。

 どこなのだろう。目の前にいるのがどうして昴ではなく「昴に似た誰か」なのか。

 自分の世界に入り込んでしまっていた藍の頬に触れるものがあって、藍は慌てて意識を引き戻した。

「思い出したか?」

 目の前の男は、仕方のない、といった様子で藍の涙を拭っていた。

「ここに来る以前のことを」

「……あなたは――」

 不思議に思って呟いた藍に、男は、

「知らなくても良い」

 とだけ答え、立ち上がった。

「お前は、あいつをどうしたい」

 あいつ――それが昴のことだと気付いて、藍は顔を伏せた。

 ――どうしたい?

 最後の最後まで昴は藍を庇い、藍自身の手で殺された。鬼神が消滅したのは、彼の灯が消えるのと同時だったということは理解していた。そして、禍の世を脱し、三千年来の平和が訪れるであろうあの世界で、しかし藍は全てを失ったのだ。

 ――何とか出来るものならば。

「あの世界で……」

 自身を射た幼子の姿が瞼に浮かぶ。

「あの世界で生きてほしい」

 藍は立ち上がり、男を見つめた。

「昴は、私という存在を在るべきものにしてくれた。あの時、世界よりも昴を選んでしまった私が鬼神に殺されていれば、私は永久に責め、憎まれ続ける存在になっていたはずだ。そうならなかったのは、私自身の力じゃない……。だからあの世界が必要としているのは――」

 そこで藍は言葉を止めた。たまらず苦笑する。

「全部屁理屈だ……」

 昴に生きていてほしい。

 理由などあとから付いてくるもので、結局は大した問題じゃない。ただ藍は昴に、幸せを得てほしいだけだ。それは死して掴めるものではない。

「もういいんだ」

 思わず、小さく笑う。

 充分すぎるくらいに昴は藍を思ってくれた。尽くしてくれた。だからこれからは、藍のようなちっぽけな人間の為などではなく、昴は昴の為に生きるべきなのだ。

「聞いてきたということは……何かあるんだろう?」

 無意識に真剣な表情を作りつつ、藍は男を見つめた。可能であるのならばこその問いだった。

「全てを捨てられるか?」

 迷いのない瞳を向ける藍をまた、男も見つめていた。

「現世だけではない。常世も捨てることになる。……それがどういう意味であるかは分かるな?」

 藍は息を飲んだ。

 現世も常世も捨てる。それはすなわち、生きることも死ぬことも叶わないということだ。

「死よりも惨い。魂の再生を待つことも許されず、暗闇の中、永久に孤独で在り続ける。それでも――」

 男は言葉を止め、藍をじっと見た。

「昴を失った時の痛みは……」

 藍は微笑んだ。

「何にも耐え難かった。それは今も変わらない」

 昴が消えた瞬間、藍は生を望まなかった。死んだ方がましだと思った。昴が藍の為に犠牲になったのだと分かっていても、その思いを止めることは出来なかった。

「……魂の再会を待てば――」

「私は、昴じゃなきゃ嫌だ」

 藍の意図するところを悟ったのか、男は深く息を吐いた。

「俺の守りはここまでだ」

 守り――そう聞いて、藍は鬼神の言っていた「強大な庇護」という言葉を思い出した。

「彼を見付けたら、その胸元に在る――」

 男は藍の胸元を指差しながら言う。

「勾玉を使えば良い。お前の色ならば、いかようにも出来る」

 藍は首から下がる紐を辿り、二つの石をぎゅっと握り締めた。

「あなたは……神か何かなのか……?」

「だとしたら、そんなくだけた態度を取るのは懸命ではないぞ」

 くつくつと笑う男に藍は何も返せなくなる。藍より二、三しか歳は変わらないであろうに、その笑みは洗練されつくしたものだった。

「さて」

 ポンッと藍の頭に手を乗せ、悲しみを含んだ――けれど、それを藍に悟られまいとしているのか、優しく言う。

「さよならだ」

 その言葉に、藍は妙な既視感を覚えた。以前にもこの笑顔で、この声を聞いた気がする。遠い昔、まだ自分が何も知らなかった頃、当たり前のように傍にいた――。

「闇の中の灯は」

 唐突に、瞼を閉じて諳んじ始めた男に、藍は瞠目した。


  闇の中の灯は

  木々の宝を胸に秘め

  風の音色を聴かずとも

  秋と夢を供にする


 藍は手をのばした。

「日の――」

 瞬間、目の前は暗闇に包まれた。

 先程までの高原はない。空も大地も窺えない時の止まった空間が、居心地の良かった今までと全く異なるのだと瞬時に判断出来る程、その「無」は、藍に衝撃を叩き付けた。

 ――何も。

 ない。風や光はおろか、真っ黒な空間が闇であるのかどうかさえ疑わしい。

 かろうじて、ある、と判断出来るのは、己の魂と感覚だけだ。もっとも、香も口にするものも何もないから、感覚のほとんどの機能は役に立たない上、視覚を用いて見えるものは自分の身体のみ。外界からはは何の音も拾うことは出来ない。かろうじて耳に入るのは――。

「自分の声だけ……か」

 胸に手を当てても鼓動は分からない。それはきっと、藍自身の身体がここにないからだ。魂だけがこの現世うつつよでも常世とこよでもないこの場所に永久に在り続ける。

 ――日の神子。

 先程の青年はそれだと、藍には分かった。不思議なことは色々あった。懐かしい気もしたし、人にはありえない神秘も見た気がした。だが、彼の存在を思ったところで、今この場所に来てしまった藍には関係なかった。

「……昴」

 暗闇の中で瞼を閉じる。

 彼を見つけたら、と日の神子は言い、藍はここに来た。つまり、昴もこの暗闇の中にいるということだ。

 ――昴。

 胸に手を当て、声に出さずに呼び掛ける。心臓の音がしないこと、血が流れているのを感じないこと、命が実感できないこと――それがこんなに恐ろしいことだとは思わなかった。今この瞬間、何よりも大切な者だけを思っているはずなのに、どこかでそれに対する恐怖を感じている自分がいる。真にこの空間で独りにな ったとき、己はどうなるのか――。

 どれぐらいそうしていたのか、ふと取り巻く闇が歪んだような気がして、藍は目を開けた。

 闇は闇のままだった。何も変わっていない。怠惰ともとれる虚脱感ばかりが藍に残り、しかし次の瞬間、藍は振り返った。

 まるで孤独そのものを表現するためにあるかのような、そんな風だった。

「昴……」

 横たわったままピクリとも動かないのは、眠っているからではない。どうして昴までこんなところにいるのか分からなかったが、このままでは昴は永久に囚われたままだという、それだけは理解出来た。

 側に寄ると、それだけで込み上げるものがあった。傍らに膝をついて、おそるおそるその手に触れてみる。温かい気がした。

 しばらくの間、藍は動くことをしなかった。どれだけ想っただろう。どれだけ求めただろう。思えば、初めて会ったときから彼に対してだけは、藍自身の感情の全てをさらけ出していた気がする。出来ないときは悟ってくれた。藍の思いを理解し、藍を理解してくれた。

「嬉しかった……」

 ポツリと声に出す。そして胸元に揺れる二つの勾玉を引きちぎった。

「これは、昴に返す」

 本来なら燃えるような紅色をしているであろう、しかし今は無色透明な勾玉を、昴の掌に握らせる。

 藍が昴に会えなくなったときには分からなかった思い。今なら分かるその意味。例え世界中の誰もが藍の存在を忘れたとしても、昴にだけは覚えていてほしいから――。

 出会ったときに藍が昴につけた頬の傷にそっと触れながら、藍は笑んだ。

「きっともう会えないけれど――」

 もう片方の掌では、紺碧の勾玉を握りしめていた。きっとこれで勾玉は完全に形をなくすだろう。使い方はどうしてか、最初から知っていた。

「最後に……言わせてください」

 手を重ねる。

 命を失うことなどもはや出来るはずがないのに、死を感じるのはきっと、昴の存在そのものが己の生きている意味そのものとなってしまったからだ。昴を感じられなくなったとき、藍は死ぬ。

 それでも、昴が生きていてくれるのであれば。

「愛しています」

 ずっと。永遠に。

 最期に触れた唇は、温かく、優しく、愛しかった。


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