消滅
沈黙が辺りを包んでいた。
城外で響いているはずの音も、奥深いこの場までは響いてこない。変わることない薄暗がりの中、二つの影は微動だしなかった。
重力に沿ったはずの藍の腕はしかし、剣先を相手の首筋にあてた状態で止まっていた。
耳元で何か聞こえたような気がした。頭の中が真っ白で、視界に映るはずの昴が見えない。
藍は剣を引き、ふらふらと後退すると、その場に崩れた。何もする気になれなかった。元々傷だらけだった身体から力が抜け、手から月華の剣が滑り落ちた。熱いものが込みあげてくるのを感じた。
「……無理だよ」
どうしてか、藍は笑っていた。笑んだせいで頬に涙が伝った。ああまただ、と藍は無意識に呟いた。
――昴の前だと泣いてばかりだ。
本気で斬るつもりだった。鬼神を――昴を殺せば、世界は丸く平和に治まるのだから。飢えに喘ぐことなく、無駄な血を流さず、争いのない、鈴のような子供を二度と輩出しない世界。
それを目指していた。成し遂げなければならなかった。成し遂げるはずだった。昴のおかげで気付けた己の望みは、光り溢れる世界で、それが藍自身の幸に繋がるのだと知った。
「ごめん……ごめんね」
だが、世界を幸福に出来るはずの藍は、世界よりもたった一人の人間を選んでしまったのだ。
「ごめんなさい……っ!」
昴が愛しい。ただそれだけの理由で。
堪え切れないのを分かってなお、嗚咽を押さえようと藍は口許を両手で覆った。世界に対して、ここまで藍を導いてくれた皆に対して、そして、昴に対して今藍が出来ることは、ただ謝罪の言葉を述べるだけだった。
許されたいだなんて思っていない。けれど他にどうすればいいというのだろう。
鬼神の言うとおりだ――と漠然と藍は思った。
藍は己の為に昴を選んだ。それしか出来ない。世界よりも何よりも藍の心を占めるのることが出来るのは、たった一人だけなのだ。
――昴もこんな気持ちだったのだろうか。
昴が鬼神に身体を明け渡してしまうような心を見せてしまったのは、藍を求めてくれていたからなのだろうか。
座り込んでしまった藍とは対称的に、鬼神は先程の驚愕の色は幻覚だったのではないかというほど、冷ややかな視線で藍を見下ろしていた。
「……愚かだな。月の神子」
しかし、鬼神の言葉が藍の胸に留まることはかった。
――もしも本当に、昴が自分を求めてくれたのだとしたら。
「みすみす機会を逃すとは。貴様はいつもそうだ。最後の最後で自分の欲に忠実に動く」
――だとしたら。
「こちらとしては願ったりだ」
――嬉しい。
目の前で「昴」が剣を振り上げる。ついさっきと状況が真逆だった。違うのは、藍には逃げる気が皆無だということだけ。
「三千年間……俺様は、お前を殺すことだけを考えていた……。人間のくだらない争いを装ってまで、日の血を得、月の一族の監視を続け、蘇るであろうお前たち二人を探し続け、そしてそれを成したのだ」
急に鬼神の声色が変わって、藍は顔をあげた。
「どうだ?愛するものとやらに手をかけられる気分は?」
勢いよく振り降ろされる剣には、目もくれなかった。藍の視線は昴から反れることなく、ひたすら捕らえ続けていた。
――昴。
今まで何度も感じた、死の瀬戸際の恐怖。それがどうしてか、今は全く感じなかった。
静かに瞼を閉じた。鬼神は、月の神子が日の神子を想うであろうことを知っていたのだ。だからこうして、何よりも最悪な形で全てに蹴りをつけようとしている。そんなことを遠くで思った。
結局、最初から最後まで、自身は我儘でどうしようもない存在だった。以前諫めてくれた昴は、今度は藍の命を奪うという形で、目の前に立ってくれている。――それでいい気がした。
いつになく穏やかな表情をしていることに、藍は気付かなかった。それだけ藍にとっての現実は優しいものだった。
しかし、いつまで経っても痛みどころか、衝撃すら来ない。無音に近い世界が取り巻いていたはずなのに、今では外からの物音が耳に届くようになっていた。単に己がこの場のみの音を拾っていただけだったのか、それとも外の者達が近付いてきているのか。
「っ……」
すぐ近くで聞こえた呻くような声に、藍はハッとして面をあげた。
自分の首筋に当てられた刃。その持ち主の手元は震えている。ドロドロしたものが伝うのを感じ、僅かながらも自分の肌は斬られたのだ、と遠くで思った。
だが、そんなことは関係なかった。こちらを睨み付ける昴の瞳が揺れていた。憎しみと怨みに象られた憎悪の中に垣間見える、抵抗の色。血のような赤ではなく、あの懐かしい、透けるような茶の瞳。
呆然と、動くことはおろか言葉を発することも出来ない藍の目の前で、昴が剣を引き、ガシャン――と音をたてて手元から鋼を落としたのと、彼が膝を着き、己の髪をくしゃりと握るのはほぼ同時で。
「……おのれっ!」
額に浮かんだ汗が、彼の中で起きている何かを示していた。息は荒く、身体は震えている。鬼神が吐き出した言葉であることは明白だった。
「おのれ日の神子……今更!」
吐き捨てるようなその言葉に、藍は全てを悟った。
――昴。
声は音になっておらず、それで自分がもはやしゃべることも出来ないほどに、体力を消耗していることを悟った。
無意識に手をのばす。触れて、見つけて、感じたかった。何と比べることも、己の幸ですら今の藍の中では考えられなかった。
「す……ば、る」
未だ苦しそうに喘ぎ、頭を抑える昴の頬に右手をのばして触れる。――温かかった。愛しかった。
「昴」
そしてそれは一瞬だった。
頬に触れた藍の手によりも大きな手が重なったかと思うと、そのまま勢いよく引っ張られた。
驚く暇もなかった。
背中に回った両腕が、きつく藍を締めて離さなかった。一瞬で、藍の視界に映るのは、彼が纏っていた白く上品な布地だけになる。それもすぐに己の血で紅く染まりつつあったが、藍自身はそれを他人事のように理解していた。
藍の背中に回る腕に更に力が込められた。殺されるのかもしれない、と思った。それぐらい強い力だったし、状況が上手く把握出来なかった。
「藍」
耳元で発せられた音に、藍は凍り付く。
「昴?」
応えるように昴は藍の後頭部に手を持って行くと、そのまま自分の胸板に藍を押しつけた。トクトクと脈打つ鼓動を藍は聞いた。
「藍」
無意識に、藍は目の前の衣を握り締めた。
「藍……やっと、会えた」
自分を呼ぶその声こそ、ずっと藍が求めていたものだった。優しくて、温かくて、聞くだけで藍の全てを攫う音で。
溢れてくるのは涙だけではなかった。藍の中にある感情の全てが、抑え切れておらず、大きな波となって自身を捕らえていた。
殺していたはずの想いは、実は己の全てだったのだ、と藍は思った。そうでなければ、昴の腕の中がこんなにも――言葉では表せないほど安心出来るはずがない。
藍は瞼を閉じ、身体を昴に預ける。時が止まればいいと思った。いつまでもこうしていていたい、離してほしくない――と思った矢先、昴の腕の力が弱まった。
藍が顔をあげて昴を見つめたのと、昴の手が藍の両頬を包んだのは同時だった。
鼻先をかすめたのは、昴の香りだった。どこか懐かしい、優しい匂い。熱いのは頬に触れている昴の手か、それとも藍自身か。いずれにせよ、そんなことは問題ではなかった。
状況が未だに理解出来ない藍だったが、その口付けが、ただ触れるだけのものではないことは分かっていた。存在を確かめるかのような深いそれは、以前の藍には分からなかった感情が、まるで流れ込んで来ているかのようで。
驚きに見開かれていた藍の瞼も、やがては静かに降ろされる。昴がここにいるのだ。何を恐れる必要があるのだろう。
やがてそっと離れると、昴は再び藍を抱き締め、藍の耳元でそっと囁いた。
「愛している」
と。
驚愕で硬直する藍の短くなった髪を優しく撫でながら、昴は続ける。
「いつだって俺はお前を引き止めてばかりだ。すまないと思う。けれど――」
耳元で奏でられる音が、藍の心深くに触れる。あまりに唐突な出来事が続く中で、藍に出来ることといえば、その音を自身に強く刻み付けることだけだった。
「けれど、何よりも大切だった」
ぎゅっ――と、抱き締められる。
傷だらけの己の身体は、もはや制御出来なかった。血の流しすぎで思考が働かない頭で、ただ、昴の声も身体も震えていることを理解する。それが、鬼神が昴に与えている影響であることも、鬼神はまだ昴の中にいるのだと分かっていても、何も出来なかった。
「……いつまでも藍を想う」
右手の甲を昴の手が覆う。温かい、と霞む思考の彼方で思った瞬間には、今度は掌に冷たいものが触れていた。
「だから――っく……」
苦しそうな声に、藍は顔をあげた。
昴の額には汗が浮かんでいた。秀麗な面に苦渋の色が浮かんでいるのが、意識が朦朧としている藍にも分かった。
「すば――」
「だからっ!」
おそらくは、鬼神を押さえ付け自我を保とうとしているが為に生じる苦しさ――それを抑え、紛らわせるためか、昴は声を荒げまっすぐに藍を見つめた。互いの視線が絡んで、瞬間、藍は壮絶的な恐怖を覚えた。
それは予感だった。夜叉でも鬼神でも、ましてや藍自身に関するものでもない。
逸らすことの出来ない視線の先にある昴の瞳は、強く、けれどこれ以上ないほど優しい色をしていた。
「だからどうか」
藍の右手が昴の手に覆われて、何かを握る。昴の瞳に全てを奪われている藍は、未だそれに気付くことが出来なかった。
「幸せでいてくれ」
強い衝撃が藍を襲った。
頭の中で響く絶叫。今までになく強い力で藍を抱き締める昴。そして――。
「え……?」
右手から腹にかけてが熱かった。ドロドロとした何かが纏わりつき、鉄の臭いが辺りを覆う。藍の右手をがっちりと掴んで離さない昴の手は、藍に剣を――月華を離すことを許してくれなかった。
自分の手元で何が起きているのかを確認しようと、藍は視線を下げようとするが、昴はそれを制す。
藍、と掠れるような声で呟き、藍が何も見ることが出来ないよう、自分の胸元に頭を押さえ付けた。
その時ようやく、己の握る月華の剣先の間合いと昴との距離がおかしいことに藍は気付いた。
貫いている。
思った瞬間、思考が停止した。身体中を恐怖が走り抜け、だがどこかで現実を否定する自分がいる。その奇妙な感覚は、長時間に渡り藍を支配した。昴の腕の力が抜けて彼の上体が後ろに倒れても、衝撃のあまり身体中に力が入っていた藍が無意識にその流れに逆らうこととなり、結果、月華がおびただしい赤を伴って昴の体から離れても、変わらなかった。
頭の中で響く悲鳴が細くなって行く。それと対を成すように少しずつ現実が取り戻される。
「昴……?」
藍は呆然と呟いた。そしてそれが引き金となり、我に返ったときにはもう、己に出来ることは何もなかった。
「昴!」
手にあった月華が落ちて音を立てる。自身の流した血と返り血とで赤く染まっていた藍は、それでも身体を引きずるようにして昴の視界に入る位置まで移動した。
荒い息を整えようと、大きく呼吸を繰り返す昴は、瞳を閉じていた。視覚に入る腹部から流れる赤が、藍にまで同じ場所に痛みを及ぼす。
「ねぇ……すばる」
頬に手をのばす。
「……こんな冗談、全然――」
声が、声にならなかった。
昴は知っていたのだ。藍が鬼神を殺さねばならないことを。神から賜った月華という剣で、依り代と共に貫かねばならぬことを。
藍自身に剣を握らせ、自らに突き刺す。力を込めてなくても、鬼神を殺すのは藍になる。だから鬼神は滅びる。
うっすらと昴は眼を開けた。
ボロボロと泣く藍を見て、苦笑する。彼が纏っている色とは対称に、表情は酷く穏やかだった。
「藍」
昴は腕をのばし、藍の涙を拭った。その手はまだ温かいのに、どうしてか恐ろしく冷たいような気がして、藍は両手で縋るように掴んだ。
「……本当は……言うつもりじゃ、なかった」
でも駄目だった、と小さな声で呟くように言う昴を藍は見つめ続ける。出来ることが他になかった。
「言えば、お前を……縛り、付けることにな……ッ!ゲホッ」
「昴!」
咳に混じる赤が、鮮明に映る。
「もういいよ!もういいから!しゃべっちゃ――」
「藍」
しかし昴は、藍の制止など聞かず、優しく続ける。掠れた小さな声なのに、その言葉は何よりも藍に大きく届く。
「約束、してくれ」
握っていたはずの手に、いつの間にか強く掴まれていて。
「幸せになると」
ケホケホと血でむせながら言う昴の面に、苦痛は一切なかった。優しさに満ちた瞳はしかし、もはや視界が霞むのか次第に色が薄れて行く。
「藍なら……お前なら、出来る……自分の為に……藍自身の、笑顔の……為、に……」
「……出来ないよ」
昴の最後の願いだと分かっていた。だからこそ了承したくなかったし、了承したところで、叶えられるはずのない願いだった。
「私が笑っている為には、昴が――」
震える声が、やがて嗚咽へと変わる。抑えていた思いが弾ける。
「昴が生きてくれていなきゃ駄目なんだ!別れてからもずっと会いたかった!会いたくて、想ってばかりで、それでも頑張ってきたのは、昴が生きていることが分かっていたから……この世界で、同じ空の下に在ると分かっていたから……なのに――」
――痛い。痛い。心が痛い。
「昴がいない世界なんていらないっ!昴がいない世界で永らえるくらいなら、私は――」
「だめだ」
何よりも強く、告げられて。
――どうして。
苦しいはずなのに、楽になってしまいたいであろうに。
「言った、だろう」
こうして、自分自身のことすら差し置いて。
「生きろって……」
どうしてここまで思ってくれるのだろう。
「本当は……守り、たかった……」
「……昴」
「傍に……ケホッゴホッ……そばに、いて……幸せにして、やりたかっ……ッ……ケホ……」
「……っ」
藍の手を握る力が弱まっていく。再び藍自身が力を込めていた。込めなければ、滑り落ちてしまいそうだった。
「大好きだよ……大好きなんだよ……?ねぇ、昴」
もはや視界に何も映っていないであろうに、言葉に応えるように藍に向かって微笑んでくれる。それが今の彼の彼に出来る優しさの全てであると、解っている自分がいた。
瞳を閉じる様がどうしてか美しかった。
風が、流れた。
音が、止んだ。
身体中の傷という傷の痛みが消え、息が止まる。震えることすら出来ない。
「……昴?」
気配が消えていた。この世界の悪の気配。彼に巣食っていた気配。そして、彼自身の気配。
何かが、藍の中から抜き去られていた。痛みもない。苦しみもない。虚無と空白だけが身を包み、静寂と沈黙が深い孤独を認識させる。
「なんで……」
――昴。
「どうして……っ!」
こんな結末が欲しかったんじゃない。こんな未来が欲しかったんじゃない。
完璧でなくても良かった。曇りのない幸せなど、手に入らないことは分かっていた。ただ、笑顔でいたかった。それだけなのに。
「愛してるって……」
じわじわと訪れる胸の痛みと、思い出されたかのように震え出す自身の身体。体力にも限界が来ているのか、昴の頬に伸ばした手は、動かしたことによる強烈な痛みと酷い怠惰感を伴った。けれど、指先を滑る肌がまだほんのり温かい現実が、抑え切れていない思いを増幅させる。
「愛してるって言ってくれたじゃないか……っ!」
吐き出し、強く、唇を噛む。鉄の味がした。
殺してくれた方が良かった。そうすればこんな、裂かれるような痛みを、苦しみを知らずに済んだ。生きていてさえいてくれれば、ただそれだけで良かったのに。
溢れる涙が、止まることのない嗚咽が、現実を理解している己の証明でもあって、だからそれすらが今の藍にとっては、絶望だった。
――何も……。
考えられない。そう思った時だった。
風を切る音が藍の耳に入り、次の瞬間、身体を衝撃が襲った。
「っ!」
全身に走った痛みは、一瞬で激しい熱へと変わる。無意識に熱の中心である背に手を伸ばした。
「……矢」
振り返ると、霞む視界に映ったのは、涙を浮かべた小さな子どもだった。身体に不釣り合いな大きな弓を持ち、視線を逸らすことなくこちらを睨みつけている。その姿はなぜか、懸命だった。
――ああ。
ふわり、と藍はその子供に向かって優しく笑んだ。
身体から力が失われ、自然、横たわる形となった。矢先に塗られているのであろう毒は、更に酷い熱となって身体中を駆け巡る、その刺激が強過ぎるせいか、痛みはほとんど感じなかった。
開けていられなくなった瞼を閉じる。
――死ぬんだ。
確信を心で呟いて、初めて藍は謝罪を述べなくてはいけないことを悟った。
――ごめんね。
手を握ろうとしたが、毒は即効性なのだろう、力が入らなかった。彼の動かない大きな手の上に、自分の手を乗せるだけで精一杯だった。
――でも。
息が、出来ない。
――良かった。
鼓動が、止まる。




