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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第6章 〜戦〜
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呪縛

 身体がおかしくなったのかと思った。来た事のない城の入り組んだ道を、上がる息も避けていく夜叉も気にすることなく、まるで導かれるように走り続ける。

 ――会いたい。

 昴に。会いたくてたまらない――。

 泣きそうだった。昴のこと以外何も考えられず、愛しさだけが募って、はちきれそうで。世界とか民とか、そういう大きなことを考えられたのは昴が側にいてくれたからで。

 ――もう……。

 限界だった。この気持ちをどう表せばいいのだろう。好きとか嫌いとか、そんな単純なものではなくて、昴がいない世界は、己の存在し得ない世界だから――だから彼を感じたかった。

 飛び込んだ広間は静寂に包まれていた。藍の荒い息だけが音で、だからか、無意識に踏み出した足音は耳に入らなかった。

 世界の全てはこの場のみで、時の流れを持たない永遠の空間であるような錯覚を覚える。一歩足を踏み出し、以来止まってしまった全身も、考えることを忘れてしまった己も、しかし目の前を見つめることだけは覚えていた。会いたい、と望んだ者が視線の先にいる。

 こちらに背を向けた昴は、背が伸び、一回り大きくなって藍の視界に映った。それだけ離れてからの時間が長かったのだと思うと、胸が震えた。

 陽を浴びて薄く焦げていたはずの肌は、どうしてか、白い。けれど透き通った茶の髪は変わっていなかった。

 藍の中で、想いが溢れる。強すぎて、だからすぐには気付けなかった。

「……ばる」

 自分でもやっと聞き取れるほどの掠れた声であったにも関わらず、彼はゆっくりと振り向いた。

「……っ!」

 ――昴。

 胸が張り裂けそうだった。痛いのか、苦しいのか、それすら分からない。身体中が熱いのに指先は冷たくて、けれど今の藍にそれを感じる余裕も気もあるはずがなかった。

 自然と駆け出した藍の視界に映るのは、昴だけだった。驚いているのか、無表情のまま藍を見つめる彼に藍は――足を止める。

 ――昴?

 あと十歩先に、世界よりも何よりも己が望み想った者があるというのに、触れていたいと願うのに、違和感が藍を覆う。

 姿見は昴以外有り得ない。いつだって目を閉じれば瞼に浮かんだし、抱きしめられた時の熱は、忘れようと思っても出来るものではなかった。そして――。

「ようやく来たか……」

  ぞっとした。昴の声なのに、彼の心がない。身体が嫌悪と恐怖で、瞬間的に吐き気を催した。

 無意識に後退した藍の視界の端に何かが映った。目を凝らして見て、愕然とする。彼の目の前で倒れているのは一人の男だった。

 藍の視線をたどって、昴は淡々と、もう死んでいる、と告げる。

「最後まで粘った愚かな者の行く末だ。所詮は紛い物。真の柳瀬ではないというのに……なあ?克羅の姫?」

  何かが鈍く光るのと、藍の防衛本能が働いたのはほぼ同時だった。向けられた切っ先を紙一重でかわしたものの、頬がチリ――と痛んだ。

「……っ!」

 剣を抜き、この一年で染み付いた型で間合いを取る。それだって無意識で、実際の藍は何も考えられていなかった。会えた歓喜も消えぬままに、攻撃されたという衝撃に襲われて思考が止まる。

 藍は呆然と昴を見つめた。視線の先で、昴は抜いた剣に付着した赤を笑いながら眺め、続いて藍を見すえる。歪んだ口許も、瞳の奥に見える赤も、藍の知る昴ではなかった。

「どうした?」

 瞬間、藍は理解した。

「鬼神……!」

 昴の中で、昴を殺している。それは禍の世の元凶にしてこの世界の悪そのものである、鬼神以外有り得なかった。藍にしか殺せぬものだった。

「さすがは克羅の末裔……いや、月の神子と呼ぶべきか」

 一歩踏み出した、と思ったら昴は――鬼神は藍の目の前で剣を振り上げていた。その素早さに、状況が理解出来ても納得出来ていなかった藍は反応出来なかった。月華で受ける間もなく、真横から断つように振られた剣は藍の腹を掠めた。

 ほんのわずか、斬られたのは分かったが痛みはほとんどなかった。衣が破れ、まくれ、空気が地肌に当たる感触がして、背筋が震えた。

「……昴」

 目の前でぞっとする笑みを浮かべているのは、まぎれもなく昴で、昴の身体で、けれど昴でなくて。ならば本当の彼は何処に――。

 藍の血を二度吸った剣を観察するように眺めた後、鬼神は口を開いた。

「……良い剣だとは思わないか」

 俺様がこやつに贈った剣でな、と昴を指差しながら薄く笑う。

「この時の為だけに造らせたものだ。月の神子の血を吸わせる為だけに」

 美しいだろう、と問いながら今度は続け様に攻撃される。なんとか全てを受け流したものの、先程より相手の太刀の速さも威力も低くなっているのはきっと、それだけ藍の力が及ばないということ。遊ばれているだけなのだ。

「夜叉を使ってお前を殺すことも出来た。わざわざこの主舎に招き入れずとも、世界の端で誰にも知られることなく、野たれ死にさせることも出来たわけだ。現に俺様は当初そうして貴様の身を滅ぼそうと思っていたからな」

「くっ……」

 ガキンッ、と振り降ろされた刃を刃で食い止める。火花が散った。今までになく強い衝撃に耐えられず、藍は足下から崩れた。その瞬間を相手が見逃すはずもなく、右の腿を斬られて血が飛び散る。今までと異なり、今度の傷は深かった。

「……その気高さは変わらない」

 痛みを堪え、剣の切っ先を向けたまま、藍は相手を睨み付ける。右脚に血が伝うのを感じた。身体中が熱かった。

「私は――」

 深く息を吸う。

「私以外の何でもない。例え私が月の神子の再来だとしても、私は――」

「同じだ」

 薄く笑いながら、『昴』は藍の言葉を遮り、言う。

「貴様の気高さも愚かさも、何一つ変わっていない。民の為、世界の為と喚きながら、結局は最初から最後まで自らの望みしか見ていないのだからな」

「……」

 鬼神の言葉を理解しようとする意識の向こうで、血の流れる速度が速すぎるのを藍は感じていた。このままだとまずい。意識がしっかりしているうちに型を付けなければ。

 ようやく状況が頭の中で整理され、藍は大きく息を吸った。状況は明らかに不利だ。だが、鬼神を倒す機会は今しかない。この城の外では今も民が夜叉と戦って――。

 ――倒す?

 目の前の敵を見つめて藍は気が付く。動揺が伝わったのか、鬼神は今までにないほどの笑みを浮かべた。

「この男は日の神子だ」

 己自身を指しながら、『昴』はおもしろくて仕方がない、といった様子で藍を見据えた。

「仁多と橘、やつら一族と組んで寄越した文があっただろう。あれを見て俺様は確信した。お前は日の神子の再来が『柳瀬』の血を引いていることを知らない、とな」

 もはや藍は構えを取ることも、止めどなく流れる血を止血することも忘れていた。

 全身が乾いていた。そんな藍に鬼神も攻撃する事なく、剣をくるくると回しながら、まるで雑談であるかのように語る。

「三千年前、お前が俺様を仕留めそこねた時から、月も日も甦ることを俺様は知っていた。その時の為に落ちた力を蓄え続けた。そして百年前にようやく、柳瀬を別の血族に移し替えたのだ」

 黄泉への手向けに教えてやろう、と笑う。

「真の柳瀬は側近くに置いておいた。もはや力を持たぬ日の末裔といえ、後々役に立つかもしれぬと考えたからな。そして今から十七年前、克羅瀬那懐妊の報が届いた時、俺様は時が来たことを悟ったのだ。知っているか?克羅藍、お前がこの世に生まれた年、日、刻、全てにおいてが月の死から三千年だ」

 この男は、と再び己を指差しながら鬼神は言う。

「確かに嘉瀬村の息子だ。故に『柳瀬』の血を引いている。紅蘇であることに間違いない。だが、同時に真に日の血を引く柳瀬静紅の息子であることを、お前達は失念していたようだな」

 藍は言葉を失った。

 どうして気付かなかったのだろうか。紅蘇である昴の母親は第一宮号妃である静紅以外ありえない。そんなことは誰だって知っている。彼女に親族がいなかったことはおろか、後盾がなかったにも関わらず、王に継ぐ位ともいえる第一宮号妃である蘇芳を賜った、特異な存在であることは藍も知っていたはずだ。そもそも、名に紅南国の国色である赤の中でも、もっとも貴ばれる「紅」の字を持っている時点で、何かしらの疑いを持つべきだったのだ。

「そんな……」

 では、藍が克羅の最後の一人であり、月の神子の再来であるように、昴も柳瀬の最後の末裔で、日の神子の再来なのか。

「そしてお前は俺様を殺さなければならない」

 おもしろくてたまらないと言わんばかりの憎悪の笑みとその言葉に、藍は無意識に後退した。

 鬼神を殺すつもりだった。嘉瀬村を殺すつもりだった。その覚悟もあった。けれど――。

「……」

「出来るわけがない、だろう?」

 いつの間にか構えることすら忘れている藍をチラリと見る『昴』を、藍もまた見ていた。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 何よりも全てで、全ては彼だった。例え自分が大きな輪廻の流れの一つだとしても、彼と己が前世からの縁で結ばれていたのだとしても、そんなことは関係なく。

 ――私は……。

 昴がいてくれるから、同じ世界で同じ空を見上げ、同じ大地を踏みしめているのだと分かっていたから、彼との繋がりを他の誰とも同じにと自ら望んだのだ。あの時の自分達にとって日の神子も月の神子もよく分からず、相対する存在だと思っていたこともある。

 状況は、藍が日と月の神子の存在を知ってからは変わりに変わった。だからこの現状もその一環なのかもしれない。以前祈真が言っていた『世界は動く』というのは、きっと真実なのだろう。だからといって、今の藍にそれが納得出来るはずもなかった。

「二択だ。克羅の姫」

 簡単なことだ、と鬼神は言う。

「俺様を刺せれば、お前は世界を救ったことになる。出来なければ、お前は世界ではなく、己の為だけにこの男を選んだことになるのだ」

 鬼神が一歩踏み出す。藍は一歩下がる。ズキリ――と右足に痛みが走った。指先が震えていた。

「至極分かりやすいだろう?」

 ニヤリと笑うと同時に、目の前から『昴』は姿を消した。

 虚を付かれ、姿はおろか、気配すら見失ってしまった藍は動けなかった。上だ、と思った瞬間には左腕に鋭い痛みが走り、視界に赤が映った。人の動き以上に昴らしい動きでいるのは、そういうものなのか、鬼神による偶然、なのか。いずれにしても、藍はまだ使える右腕と左脚を駆使して、二度目の攻撃をかわした。

「昴!」

 攻撃を刃で受け止めた拍子に、右脚に体重がかかった。痛みを通り越し、もはや感覚のなくなりつつあるそれに熱が走る。

「っ!……昴!目を覚ませ!」

 それでも藍は、彼の名を呼ばずにはいられなかった。

 腕と脚からはおびただしい血が流れ、そのせいで濡れた布が身体に纏わりついている。液体の感覚と臭気を今更ながら感じた。

「昴!」

「無駄だ」

 ガキンッ――ともう何度目になるか、刃と刃がぶつかり、お互いに静止する。強い力に押されまいと、藍は血が止まらない左腕も柄に沿えた。

「こいつとお前が接触しているのを俺様が知ったのは、天竜の地だ。その時にはもうこの日の神子はお前を想い、そしてこの国に紅蘇として戻って来たときには、上手くそれを隠していた」

 月の姫君は気付いていらっしゃらなかったようですが、と鬼神は刃に込める力を強め、皮肉る。

「強い思いだった。だから俺様はそれを利用した。あまりに落ちるのが早過ぎて余興にもなりはしなかった。しょせん日の神子といえど――」

「……黙れ」

 藍の小さな声は聞こえているであろうに、鬼神はむしろ煽られたかのように続ける。

「己の欲には勝てなかったわけだ。お前を手に入れたいという欲には」

「黙れ!」

 渾身の力を込めて藍は剣を振り払った。

 荒れた呼吸を隠すこともせず、鬼神を睨みつける。身体中を支配するのは狂おしいほどの怒りと恐怖だった。

「昴は――」

 流れた血が多いせいか、藍の視界は僅かに霞み始めていた。しかしそれを意に止めず、藍は視線を逸らさなかった。

「昴はそんな意思の弱い人間じゃない」

 ――でも……。

「……流されてしまうような人じゃない」

 ――昴は一人で。

「昴は……」

 ――たった一人でこの城で戦って……。

「だって昴は……」

 ――では自分は?

 藍には祈真がいた。遥世がいた。隆生がいて、剛山がいて、鬼神を倒さねばならないという大義があった。

 けれど昴は、限り無い孤独の中で真実を知らず、ただ民の為にもがき続けていたのだ。藍と交わした最後の約束――己の民を守る、というあの約束を守るために。

 あの頃は気付けていなかった自身の想い。けれど今ではそれを何と呼ぶのか知っている。だとしたら――昴の心が今の藍の心と重なるのだとしたら、鬼神も世界も血も生まれも関係なく、藍と昴は同じ場所に立っているのではないだろうか。

「……だから」

 だからこそ、藍も昴も現実を離れてはならないのだ。城内で夜叉と戦っていた時に藍を呼んだ昴の声は、意味はどうであれ、拒絶以外の何でもなかった。例え藍を思ってであろうと、孤独に耐えていたのだとしても、昴は鬼神に身体を明け渡してしまったのだ。――それが現実だ。

 深く、息を吐いた。

 傷だらけの全身をゆるりと動かし、藍は静かに身構える。

「昴は……」

 目の前の敵から目を離さない。視界は霞み、意識も朦朧としていたが、どうしてか、相手が眉を潜めたのは分かった。

「……殺されることを望んでいるはずだ」

 不意に彼の優しさが胸に広がり、藍は唇を噛み締めた。

「例え私がそれを望んでいなくても……昴は……」

 ――ああ。私はこんなにも。

 ぎゅっ――と藍は月華を握り締め、次の瞬間地を強く蹴った。

 昴ならきっと、かまわない、と笑うのだ。藍に殺されることを厭わず、死ぬことを恐れず、例え藍と言葉を交わすことが叶わなくても、それでいい、と優しく告げるのだ。それで他の多くが助かるなら、と。

 迷いなく、本来なら無数の傷のせいで動かない身体を向けて来る藍に、鬼神は明らかに戸惑いを見せ、不快感をあらわにした。

「たかがその程度の庇護を受けているだけで……調子に乗るな」

 言葉を返すどころか、庇護とは何のことか疑問に思うことも出来なかった。意識も気力も相手に向け、防御に気を配らず、ただ攻撃のみを念頭に置いた。

 そのせいだろう。続け様に相手の剣が肌を断つのを感じ、死ぬかもしれないな、と漠然と思った。恐れはなかった。

 ――昴。

 彼の名を呼んだ。声にならなかったかもしれない。

 ――昴。

 相手の動きが止まったように見えた。

 ――私はこんなにも。

 剣を大きく振り上げた。振り上げすぎたと思った。それでも『昴』は動かなかった。赤い瞳が驚愕に揺れた。

 ――貴方を想ってる。

 その首筋目掛けて、藍は重力に沿うように力を抜き、力を込めた。


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