朱雀城
例えば、自分が誰かのために何か出来るような、そんな存在だったてしても――。
「藍!後ろだ!」
「分かってる!」
第二宮号妃の兄の手もあってか、広大な敷地を持つ朱雀城の内部深くまで入り込むのは容易かった。
だが、もう少しで嘉瀬村――鬼神がいるであろう主舎の王の間にたどり着く、というところで、城の兵に見つかった。
彼らが腰の柄に手を伸ばすよりも速く、祈真や隆生らは太刀を抜いた。綺麗ごとを言っている場合ではないことは、藍にも分かっていた。鬼神に騙されたまま、主君の命を忠実に守っている哀れな者達が相手だとはいえ、それを庇えば、あとの万の命が消える可能性の方が高くなる。
祈真の言葉に大きく返事を返した藍は、目の前で崩れるように倒れていく相手を最後まで見ずに振り返り、素早く振りかぶった。
握った柄から腕に独特の振動が走る。もう何度目になるだろうか。そう思いながら、力を失った相手の体がこちらに倒れてくる前に、素早く後退した。
こちらが七人という少人数の塊であったにもかかわらず、相手にした十四、五人は全員が全員、あっけなく床に倒れ呻き声を上げていた。
行くぞ、と彼等を見向きもせず、更に城内部へと走り出す祈真の後ろを藍は無言で付いて行く。
「危なかったら抜けよ」
チラリと祈真は探るような目で、すぐ側を走る藍を見た。
この後に及んで、藍は鞘から剣を抜かずにいた。鞘を付けたまま剣を振るい、敵に打撲攻撃を与えているだけだった。
無論、これは相手にやられない、という自負があって初めて成り立つものだ。普通ならこんな危険な真似はしない。現に祈真でさえ今は太刀を抜いている――いや、藍が抜かないからこそ抜いているのか。
いずれにせよ、殺すのではなく戦力を削げればいい、というのが藍の考えだった。それを成してしまえるのは、藍の腕と戦闘の型――すなわち、小柄な体格を活かした、力ではなく回避に主を置いていることにある。
――殺せない。
そこに相手を気遣う感情も、道徳的な価値観もなかった。ただ藍自身がその行為を恐れているだけ。
自らの手で人の全てを終わらせる。例えそれが他の大勢の為であっても、国の主のくせに何を弱気な、と罵られたとしても、藍には出来ない。かつての自分がそうだったように、奪うことこそ強さなのだというなら、そんなものはいらなかった。殺すのは――嘉瀬村だけで十分だ。
長く、幅広く、そして簡素ながらも厳格な雰囲気を漂わせる廊を、忍ぶことなくひた走る。自分の胸の鼓動が速いことに気付いていた。走っていることとも、戦いの最中にあることとも関係ない。それは、勘のみで言うなれば予感。事実で言うなれば絶望だった。
「いたぞ!」
自分達の誰のものでもない声が響いて、藍は舌打ちした。
先程からちっとも進んでないのは、きっと気のせいではない。城内、そして嘉瀬村のいる主舎に入るまでは何者にも会わなかったのに、やはり王の周辺警備は堅い。
城内に入ってからも夜叉の攻撃はあったが、相変わらず藍を狙うことはなかった。むしろ、藍を故意に狙っていないのがありありと見て伺えた。それが怖かった。
「……ったく」
埒が明かねーな、と祈真が毒づいたのが聞こえた。全くだ、と心の内で頷いたその時、もう何度目になるか――過ぎった気配に藍は表情を曇らせた。
「夜叉も来るぞ」
藍に向かって目の前で振り降ろされる相手の太刀を紙一重で避け、鞘付きの剣を相手の鳩尾に叩き込む。相手が倒れたのを確認すると、スラリと鞘から剣を抜いた。この世のものとは思えぬほどの美しい刃を、つ――と撫でる。
「来たら全て私に回せ」
全員に聞こえるように言うと紅の兵は怪訝な表情を見せた。その兵に向かって藍は苦笑してみせる。こんな状況下でも、美しいそれに見惚れないのは当人だけだった。
「仲間を連れて逃げろ」
向けられた言葉に、彼らの困惑は深くなる。
それ以上は説明せず、藍はいつものように精神を統一させる。
夜叉を「殺す」ことは誰もが出来ても、「消す」ことが出来るのは藍だけだ。
緊張の汗で、握っていた剣の柄が滑った。その瞬間、藍の胸の鼓動が突如として速まった。いつもなら、月華の刃のように冷たく――冷静になる自分がいるのに、こんなふうに鼓動の速さを感じるなんて、何かおかしい。
陽の当たらない城深くで、濃くなって行く気配。影か陰か。もはや比べようのない闇に、その場の誰もが怯む。痛みと伴に頭の中に響くはずのいつもの声が、どうしてだろう、この瞬間だけは聞こえない。――正確には、聞き取れない。ぼんやりとした意識の中ではっきりと己が確信出来るのは、不安だけだった。そして――。
「……?長?」
藍の普段と異なる様子に、隆生が緊張を伴った声色で尋ねた。
「……る」
「え?」
「昴……」
目を見開いて祈真が振り返るのが分かった。
腕が震えた。悪寒が全身を駆け巡る。息を吸うことが出来ず、けれど苦痛ではなかった。身体が、呼吸をしなければ死んでしまうことを忘れていた。
――藍。
呼ばれているような気がした。小さな、自分以外の誰もが聞き取れないような、消えるような色で。儚くも散ってしまうような光で。
――来るな。
どうしてそんな言葉が聞こえて来たのかとか、周囲の状況を把握するだとか、なぜ今なんだとか、そんなことは関係なかった。
彼だった。彼の心からの声だった。だから藍の足は藍自身が命じるまでもなく駆け出していた。例え現れた夜叉が藍の行く道を開けようとも、ここまで己を守り続けてくれた仲間が引き止めようとも、そんなことは関係なかった。
――昴。
殺したはずの感情が、堰を切って溢れていた。
会えない。会いたくない。自分の為にそう言い聞かせてきたのに、自分で裏切ってどうするのだろう。これ以上ないくらいの決意で繋ぎ止めていたはずの、何よりも堅い思いだったはずなのに。
彼を想うから離れた。紅と碧、攻国と滅国、彼の民と己の民。相反するものが多すぎる中で、互いが互いの為を思って――想って離れた。彼が紅の血を継いでいないと分かっても、世界の敵が鬼神だと知らされても、それは変わらなかった。彼の父親の血を藍が見なければならないのに、どうして彼に顔向け出来る?
――でも。
会いたい。今はただそれだけだ。あの優しい輝きを持つ瞳に、自分を映してほしい。あの柔らかで、全てを包むような声で、名を呼んで欲しい――。
自分で気付かないように意識下で殺そうとしていただけで、何よりも大切であること――そんなのは始めから分かり切っていた。
――二度と……失いたくない。
強い想いも、その感情も、何処から沸いて来るのか分からなかった。分かったところで興味はない。むしろ、その想いこそ重ね塗られていない自分自身のような気がした。
胸元で二つの勾玉が、揺れた。
「藍!くっそ!」
祈真は大剣を力任せに振り払った。
「邪魔だ!退きやがれ!」
「大司空!」
「俺はいい!それよりも藍を……!?」
祈真の言葉を受け、駆けて行った藍を追おうとした部下の前に、夜叉が群がる。明らかに藍だけを孤立させていようとしているその様子に、祈真も焦りを禁じ得ない。
藍の呟きは小さすぎて完全に聞き取れこそしなかったが、唇の動きとあの表情を見て、何を言っているのか分らないはずがなかった。
自分自身でも把握しきれていない彼女の何よりも強い想いを、祈真は知っている。彼の彼女に対する眼差しにも、彼女の彼に対する言動にも、愛以上の深い繋がりが見えていたし、それは二人が離れても変わらなかった。片方は姿はおろか、もはや影すら見ることが出来ないのに断言出来た。
だからこそ、祈真は藍に柳瀬に来て欲しくなかったし、正直な極論を言えば、鬼神なんぞ気にしなくていい、と言ってやりたかった。事実、己が仁多でなければ口にしていただろう。
藍が生来慕っていたという、兄であり師であった喬に取って代われるとは思っていないが、彼女を妹のように思う己の心に迷いはない。彼女がどれだけの面倒を抱えているのか重々承知していても、だ。厄介事には首を突っ込まないはずの自分が、藍のことになると自発的にそれを起こすことも厭わなかった。今までも、そしておそらく、これからも。
藍に対する思慕はない。だからこそこれは愛情で、幸せになってほしいのだ、と心から言う事が出来る。それなのに――。
――こんなところで……!
離れるわけにはいかなかった。
約束したのだ。
彼の唯一の願いだった。その約束が守られるのは、藍が昴のもとに戻った時だけだと祈真は理解していた。
鬼神を禍の世と共に消し去る事が出来れば、それは叶うはずだ。藍自身にはまだ何かしらの躊躇が見られるが、二人の強すぎる絆の前で一体何が障害になるというのだろう。藍と会ってまだ間もない、ましてや昴とは顔も合わせたこともない遥世にさえ、分かる事だった。
目の前の夜叉は急激に増え、急激に力を増している。藍だけを引き離す為だったのは明らかだった。
「どきやがれっ!」
らしくない怒声が廊にこだまする。それはもはや不安以上の要素があることを示すものでしかなかった。
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