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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第6章 〜戦〜
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伝えたいモノ

「……仁多王からの連絡だ。計画通り実行するみたいだぜ」

「……」

「藍」

「大丈夫。ちゃんと聞いてる」

 進軍する兵を、馬に乗った状態で中央後方から見つめながら、藍は祈真の言葉に頷いた。

 旧都克羅に入ってから、碧軍は半分近くに減った。緑北国から碧の地へと戻る際の女子供は、元々「兵」としての役割を担っていなかったから、当然と言えば当然だ。

 おかげで動かしやすくなった、と剛山は言っている。今までが多すぎた、というのもあるが、父芝韋と同じように藍が紅と戦うための兵役を強制しなかったのもあって、柳瀬までやってきた兵のほとんどが、それなりの決意を持って来た者達だったから、こちらからの指示が通りやすくなったのだ。

「祈真は行かなくていいのか?」

 藍の今の格好はいたって軽装だった。

 威厳を示す為の服でも、巫女服でもない。戦闘に適した、実戦向きの小袴に、男ものの上衣。

 なるだけ目立たないよう、麻布の衣をまとっている藍の隣に立つ祈真の格好も、やはり今までの彼からは考えられないほど、質素かつ動きやすいものだった。

 その祈真に、藍はもう何度目になるか分からない言葉を吐いた。

「祈真は軍師なのに――」

「軍師だからこそ分かるんだ。俺はお前の側にできる限りいて、守らなきゃならん」

「……相変わらずだな」

「まあな」

 兄、とはそういうものなのか、と思わずにはいられない。藍だって十四のときに国を追われてから、十六になった今まで、様々なことを経験し、成長したつもりだ。それなのに。

「弥春にも驚かれたんだぞ。大人になったって」

「頑固なところは相変わらずですねって言われてなかったか?」

「うるさい。母上に似たんだ」

 藍が側に置いていた、女人二人のうちの一人である弥春。克羅陥落の際に行方が分からなくなっていたが、藍が先代達の墓から帰ったあの日、館の中に入ろうとして兵に止められていた彼女は、背後に現われた藍に驚き、そして号泣した。

 申し訳なかった、と。

 一人にしてしまって本当に申し訳なかった、と。

「父上と母上を克羅の墓に埋葬してもらえるよう、話の通じる紅の高官に頼んだのは弥春だった。圭久、疾風、喬、琴音……皆、彼女が亡骸を確認している。一番辛かったのは……克羅に残らざるをえなかった弥春だろうに」

 謝るのは藍の方だった。自分勝手に復讐を誓い、生き残ってくれた民のことなんかこれっぽっちも考えなかったのに。

「……仁多王はこの作戦をどうお考えなんだ?」

 陣の先頭の剣と剣がぶつかる音や、掛声が、あちこちから聞こえてきた。戦いが始まったのだ。それから目を背けないよう――散って行く命をできる限り見逃さないよう、藍は見つめ続けながら言う。

 出来るだけ何ごともなかったかのように会話を続けないと己を抑えられなかった。民を救う為に克羅の姓を持つ者として戻って来たのに、目の前で彼らが失われて行くこの現状が、必然であると分かっていても、納得は出来なかったから。

「案の定だよ。大反対だ。でも納得した。それが一番、世界にとっては単純だからな」

 そんな藍の気持ちを分かってくれているのか、祈真も調子を変えずに話し続ける。自分達だけが異質のような、そんな気持ちが一瞬、藍の胸をよぎった。

「……そうか。なら良かった」

 鬼神を倒す。敵はあくまで夜叉であるのに、今戦っているのは、紅の人間と、碧、白、緑の人間だった。

 人同士の戦いをできる限り長引かせたくない、これは藍だけでなく、皆の意思だった。戦を始める前に確認されたこの意思は、すでに形となることが決定している。藍と祈真、それに二人の近衛が二、三人ずつ、という少数がまとまって、戦いに加わらないでいるのはその為だ。

 ――鬼神。

 ぐっと藍は拳を握り締める。

 藍は待っていた。生まれてはじめて、やつらが来て欲しいと願った。

 ――血を好むなら来い……。

 夜叉が現れなければ、この作戦は上手くいかないかもしれないのだ。

「……ある意味紅のやつらもこの戦の鍵だ。人同士で争っても夜叉に対抗する勢力が減るだけ……。だからこそ早く夜叉が現れて、嘉瀬村が鬼神だ、っていう俺達の言葉が真実だと、分かってもらいたいんだが……」

「信じないで、未だ嘉瀬村に付いている人間も多い」

「それだけじゃない。やつが鬼神であるということを承知した上で味方のままでいる奴等もいる」

 こいつらの改心は期待出来ねぇけどな、と祈真は呟いた。藍は同意の意味を込めて頷いた。

 ふわり――と、気持ちの良い風が短くなった藍の髪を揺らした。深く息を吐き、どこまでも続く天を仰いでみる。目を閉じれば、戦の騒音も、隣りにいる祈真の気配さえも掻き消えた。

 ――信じられない。

 善と悪、とは一概に言えないかもしれない。けれど、悪と人との戦いは既に始まっているのだ。

 空も、風も、大地も、普段と何も変わらないのに、今日この日に、夜叉か人かのどちらかがこの世界から永久に消え去る。それが信じられなかった。

 ――昴。

 きっと彼は、あの朱雀城の中にいるのだろう。もしかしたら、あの城壁から、こちらを伺っているのかもしれない。だとしたら絶対にそっちだけは見ない自分がいるのを、藍は知っていた。

「……藍」

「ん?」

 呼ばれて藍は祈真を見た。彼が藍と同じように空を仰いでいたので、まさか心を読まれたのだろうか、などという有り得ない考えが浮かんで――内心苦笑した。

「合図だ」

 言われて同じように見上げれば、祈真の鷹が上空を旋回していた。その脚に巻き付けられているのは赤い布。間違ない。これで準備は全て整った――。

「……行こう」

 馬の手綱を引き、藍は低く言う。祈真も、数人付いている兵も、驚いた表情で藍を見た。

「でもまだ夜叉が――」

 戦場の有様が突如として変わった。

 掛け声が悲鳴へ。何千という影が――人妖が、犬妖が、虎妖が姿を現し、それぞれの標的を定める。

「な……」

 ついに現れた夜叉の大群。その負の気配の強さと場を黒く染める場景に、呆然と声をあげたのは藍の護衛の一人である隆生だった。作戦を実行するために、彼は藍の護衛を名乗り出て、そして選ばれた。

「なんて数だ……これじゃあいつらが出て来るのを覚悟しているこっちの軍だっ――」

 不意に目の前を青がよぎって、隆生は一瞬固まった。まさか、と思うのと、背後に現れた気配に気付いたのはほぼ同時で。

 振り返ったときには既に、刃は見事な半弧を描いて相手を絶命させていた。

 ボロボロと崩れて砂となり、風に流れて行く夜叉を無表情に見つめるこの世界の「鍵」。まだ成熟しきっていない少女は、しかし碧という国の長であり、この世界の在り方を決める全てだった。抜いた剣をカチリと鞘にしまうその表情からは、彼女の心は読み取れない。

「行こう」

 静かに言う藍の背中を、隆生は礼を言うことも忘れて、呆然と見ていた。この小さな背中には、一体どれだけの人の命と希望が圧し掛かかっているのだろう。

「準備は整った」

 そう言った藍の声が、儚い音を奏でているように隆生には聞こえた。



 夜叉が現れ、碧だけであろうが無作為であろうが、やつらが人を狩り始めれば、夜叉が守るのは朱雀城だということになる。そうすれば、未だ藍達を疑って嘉瀬村に付いている者達も、藍が唱えたことを信じるとまではいかなくても、考えてはするはず。それが藍達の考えだった。

 紅南国対白西国、緑北国、碧の国の連合軍の戦が、人対夜叉の戦いに入れ替わった時、藍が鬼神を斬り滅ぼすことが出来れば禍の世の全てが終わる。

 だからこそ、藍と、藍を含めた少数が城に忍び込むという作戦が立てられたのだし、夜叉が戦の最中に現れた時に、その作戦が実行されるのだということが決まっていた。

 城への侵入経路は白西国西軍に任せられている。西から攻撃している彼等の武官の中に、紅南国側の人間と通じている者がいるというのだ。その者が城への侵入を先導してくれるのだという。嵌められる可能性が確実にないことは証明されていたため、豪放だが用心深い祈真もその侵入経路を使用することを了承した。

 前線が衝突している城外北部。そこから馬で抜け道を通り、西側へと向かう。最中、何度か夜叉に遭遇したが、どれも人妖ばかりだったので、何の障害もなかったと言っても過言ではない。

 僅かな時間で城西部の指定された場所に着くと、既にそこには何人かが気配を殺して待機していた。そんなことをせずとも、茂みの中にあるその場所は、よほど注意しなければ誰かがいる、ということにさえ気付けないであろうに、念には念を押しているのか、表であり前線がぶつかっている北側とは違い、ひっそりとして逆に緊張した。

「天竜はいるか?」

「はい。東の果ての野の西に」

 祈真の言葉に、白西国の兵らしき人が返す。合言葉だということは藍にもすぐに分かった。真剣という字をそのまま示すかのような面持ちで、祈真は頷くと、低く言った。

「この抜け道を俺達に伝えたやつは?」

 たった一言で、主なる戦場から離れて、どことなく足の着けない浮遊感の漂っていたこの場所に、緊張が走った。

 用心に越したことはない。重々確認は取っているが、それでも嵌められる可能性は万に一つとは限らない。

「さすがは仁多殿……わが国の軍師とは貫禄が違います」

 深く頭を下げて現れたのは、年の頃も二十、三十と若い、男だった。

 明らかに武官ではない、男にしては細い体付き。整った顔立ちなのに、やつれた表情が影を色濃くしており、官吏としての風格を随分と失っていた。

 しかし、その男が身に着けている衣や装飾品は目立たないながらも高価であるのは藍の目にも明らかだった。

「そして……」

 男は藍を見ると祈真のとき以上に深い礼を取った。

「碧の克羅が長、克羅藍殿とお見受け致します」

「……驚いた」

 祈真が声を漏らした。

「貴方が俺達を招いたのか」

 分からない、と顔をしかめた藍に、祈真の護衛兵が低く耳打ちする。

「嘉瀬村の第二宮号妃の兄君です」

 ――え……?

 呆然と、藍は男を見つめた。

 紅南国の第二宮号妃の一族と言えば、柳瀬でも最高峰の権力を持つ一族だったはずだ。嘉瀬村に付かず離れずの状態を維持し、朱雀城内では好き放題振る舞っていたという。嘉瀬村がそれを黙認しているからこその状態だから、彼を失えばこの一族も危ういのでは――。

 と、そこまで考えて藍はハッとした。

 躑躅の宮号妃が誰を隠そう嘉瀬村に殺された、という報告を受け取ったのはいつだったか。以後、彼等の立場は曖昧なものとなり、政務に関わらなくなったと聞いている。

「大丈夫だ」

 面識があり、人となりを知っているのか、祈真は多少安心した様子で藍に言う。

「彼は己の国を良く理解している。嘉瀬村の不穏な動きを裏から白に流してくれていたのはこの方だ」

「仁多殿とは個人的付き合いもあります」

「……そうか」

 それを聞いて藍の表情は自然厳しくなる。祈真が彼を知っているならば、祈真に頼ることが出来ないのは歴然だった。祈真もそれを分かっているのか、口では言いつつも、表情は堅い。

「ならば単刀直入に聞きます」

 もはや十六の少女を思わせない、深みを含んだ声色で、祈真が良く知るという男をまっすぐに見る。

「嘉瀬村を殺せますか?」

 ピン――と張り詰めた緊張がその場を走る。その中に混乱も垣間見えた。藍の問いの意図するものと、求める答えが、誰一人として――祈真でさえ理解出来なかったのは明らかだった。

 正直、藍にも彼にどんな答えを求めているのか分らない。ただ聞いておかねば、と思っただけだ。聞いておかなければ、大切な何かを見逃してしまいそうな気がしたから。

 長い沈黙の中、響くのは生と死をかけた音だけだった。人と夜叉の。どこまでも遠く、そして残酷な。

「いいえ」

 男はゆっくりと首を振った。

「出来ません」

「ならばなぜ私達を引き入れる」

 問うと、男は寂しそうに笑った。

「私が雅美の兄で、貴女が碧の長だからです」





 たった十年かそこら昔のことだけれど、それは随分遠い昔の約束だった。

 幼子が幼子なりに、ただでさえ少ない人との繋がりを切りたくなくて、必死に型取った見えない絆。だからこそ、確執の深くなった二人は、それを忘れようと努めた。

 夜叉と人との喧騒から離れた朱雀城後宮への道を、昴は全速力で駆け抜けていた。

 宏夜から――弟から託された、あの白い文。彼の言動から彼の思考を素直に読んだが故の昴の行動は、その文を燃やす、というものだった。

 そのすぐあとで彼は嘉瀬村に殺され、以後昴は弟のことについて考えるのを拒絶した。何もしたくない、考えたくない、ただ敵の要だけを想っていたいと願ったあの心情は遠いものではないし、心深くで今でも続いている。

 文のことは何度も頭を過ぎった。それは事実だ。だが、あのまっさらであったのであろう文を見て、幼い頃の約束を思い出すことが出来なかったのは己だ。だからこそ、宏夜が最期に意図したもの、思い、形。その全てを見ないわけにはいかなかった。

 後宮は普段と違い閑散としていた。ほとんどの宮号妃が朱雀城内に残ったままだし、仕えている女人達も帰郷を許されなかったのだから、衣擦れの音ぐらい耳に入って良いはずなのに、聞こえるのは自分の足音と、まるでどこか遠い彼方から聞こえて来るような、城外で起こっている戦の物音だけ。闇夜をも思わせる深い沈黙が、じりじりと昴を圧迫する。

 蘇芳の宮へ行くための通路。その最後の角を曲がったところで、唐突に飛び出してきた何かと、昴は盛大にぶつかった。否、吹っ飛ばしたというべきか。昴より一回りも二回りも小柄なそれ――和歌滝は、盛大に顔面から床に向かって突っ込んだ。

「和歌滝!」

 なぜか床に手をつかず、懐をかばうように転がった和歌滝。その行動を妙と思わなかったわけではないのだが、今の昴にその行動を言及する余裕はなかった。なぜ和歌滝が昴の宮でもある蘇芳から出て来たのか、その理由も。

「大丈夫か?」

「……はい」

 和歌滝の声はわずかに震えていた。そんなに痛かったか、とすまない気持ちはあるものの、意識があの梨の木へ向かうのを止められなかった。

「すまない。詫びはあとでする。和歌滝は友佳殿と共に城内部にいるよう指示しただろう」

「……」

 俯いたまま、相変わらず懐を押さえ付けている和歌滝に、昴は踵を返しながら言った。

「すぐに撫子の宮に戻れ」

 本当なら送り届けてやりたいのだが、開戦直後である現在、朱雀城に敵が侵入するにはまだ早い。むしろ開戦したことで、浮き足立っていた城内も、緊迫したものへと変わっている。それなりに集中しているであろうし、白西国の優れた軍をもってしても、地形や朱雀城の堅固な城壁を前にしては、しばらくは歯が立たないだろう。これでも柳瀬は日の神子――悪の神の世から続く紅の都なのだ。

   蘇芳の宮に入った昴は、そこから女人の使う廊へと入り、用意していた沓を取ると、庭へと飛び降りた。夏特有の暑い日差しが差し込むそこは、花の香りの中に草と土の匂いが交じる、独特の風貌を醸し出していた。

 誰の、何の気配もないその空間の中で、昴は息を潜め、気配を殺した。そうしなければ、何かに囚われてしまうような気がした。恐れすら感じている自分に気付いた。それでも脚はひたすら、幼き少年達の約束の場所を目指していた。

 庭の中央まで来て、昴は初めて、深い感嘆のため息を吐いた。梨の木は随分背を高くし、枝を広げて、相変わらずそこに立っていた。この国らしく、庭先に咲く花々は紅一色で染められている。その中での梨の木の深い緑は、目に鮮やかだった。

 一瞬、脳裏にあの頃の自分と彼の姿が過ぎった。この国の歴史と比べれば、あのときから今まで流れた時間は、数えるにも至らない微々たるものであろうに、昴には遥か遠い昔の出来事に思えるのだから、自分はなんてちっぽけな存在なのだろう、と思う。

 長い歴史を持つ大国。そのもう一つ、紅とは正反対の国色を持つ碧の国。この二つの色が今現在争っていることが、昴には未だぼんやりとしか実感出来ていなかった。

 低い植木を押し退け、昴は梨の木の根元へと歩み寄る。屈んで軽く地面を探ってみて、体に緊張が走る。

 ――間違ない。

 注意して見なければ分からないが、確かに木の根元の土の一部のみが新しい。

 近くにあった大きめの石を取り、昴は無心でその場所を堀り始めた。手が汚れようが衣が汚れようが全く構わず、土が爪の隙間に入っても気にしなかった。ふと、幼い頃の記憶が被り、己の手が大きくて無駄のない肉付き具合であることに違和感を覚える。あの頃の自分の手は、今の和歌滝のようだったはずだ。

 カツリ、と掘るために使っていた石が何かに当たる感触がした。

 瞬間、体に緊張が走った。今にも震えそうな手を一度握り締める。そして昴は、今度は素手で丁寧に掘り始めた。

 土の中に埋まっていたのは漆濡りの箱だった。夏の夕立や雨に濡れたせいか、湿っぽく僅かに腐っている部分が見られる。

 しかしそれを意に介さず取り上げ、蓋を開けると、予想通り、銀製の水気を全く含まない箱があった。滑らかなその光沢をじっと見つめてから、昴は再びその箱を開くと、中には更に一回り小さい木製の箱がポツリとあった。

 銀に囲まれて、湿り気どころか傷一つないそれ。決して高価なものではないが、だからこそ目の前の小さな箱が、公式にではなく私通として価値を示しているのだと分かる。

 蓋を開ける瞬間、最後にこの箱を託した少年の姿が脳裏を過ぎり、続いて和歌滝や飛渡の姿がなぜか脳裏を掠めた。

 蓋を開け、文を開く。

 細く、流麗な文字が目に入った。


 この文を見ているということは、きっと僕は既に存在してないんだろう。正直、これを書いている今でさえ、誰かに殺されやしないかと、周囲を注意してなきゃいけない。ことの真相を知った今、あいつにとっての僕は邪魔者以外の何者でもないはずだから。

 克羅の姫の生存と、彼女の言い分について僕が知ったのはついさっきだ。きっと僕はあんたに言っただろうと思うけど、随分前から、白と緑に斥候を放っていた。白の方で流れていた克羅の姫の噂についての報告も、受けてはいたし、だからこそその時本気にしなかった自分が、悔やまれてならない。

 あいつを殺さない限り、禍の世はこのまま進んで、世界はじわじわと破滅への道を歩むはずだ。夜叉が増えて、人が死ぬ。柳瀬一族だって例外じゃない。だから、克羅の姫は生かしておかなければならない。

 おそらく、あいつを殺せるのは克羅の姫だけだ。緑と白は、彼女を失うことを異様に恐れている。彼女の腕がたつことは有名だし、一人生き残った所以もそこにあるのだろう。それにも関わらず、緑から南下する間、極身近な者以外は彼女に近づくことを許されていなかった。彼女がそれを嫌がったから、時には民に近づくことはあったらしいが、それでも従者が必ず付いていた、という報告を僕は受けている。

 つまり、彼女が月の神子の生まれ変わりであることは、彼女が唯一鬼神を殺すことの出来る存在、と同義なんだろう。だから、緑も白も、彼女を守ることを優先している。

 あんたはこの事実を知らないと思う。でも、この文を見て分かったはずだ。先に起こる戦に乗じて、克羅の姫は単身に近い状態で、朱雀城に乗り込んでくる。彼女の演説から察するに、民に無用な傷を負わせたくないというのが、彼女の心情だろうから、多少の無理は厭わないだろう。それだとあいつの思うつぼだ。

 だから、あんたに頼む。どうか僕に代わって、克羅の姫を生かしてあいつの元まで届けて、鬼神であるあいつを、この世界から葬る助力をしてほしい。きっと僕は、その時には生きていないと思うから。

 おそらくこの文は遺書になる。どうしてなのかは良く分らないけれど、あんたと話したあと、きっと殺される。逃げ道はないのは重々承知だ。

 だから、最後に書いておく。僕は莫迦じゃない。あんたしか知らないと思っている事実もきちんと把握している。あんたは、克羅の姫を救わなければならない。救って、そして柳瀬を復興させて、禍の世を終わらせなければならない。

 それが、あんたの義務だ。



 走り出す心も、足も、止めることは出来なかった。

 充分だった。

 藍が来る。この城に。

 もう、それだけで昴は充分だった。


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