残り香
「……やはりしぶとい」
汗で髪も服もびっしょりと濡れ、苦痛の余韻が残っているのか、意識をなくした今もなお表情を歪めたままの昴を見下ろしながら、嘉瀬村は呟く。
「嘉瀬村も、その前の柳瀬を形取った者達も、こんなに抵抗しなかった……」
ある男の欲に付け込み、本物の柳瀬の者を排除し、偽りの柳瀬としてこの国を操るようになってから、既に百年が経つ。 怪しまれないよう、どんな荒くれをしても誰も文句を言わないよう、夜叉はこの国に現れないようにしておいた。愚かな人間は、それが王の統治のおかげだと思い込んだ。
代々体を乗り換え、王が夜叉の頂点に立つ悪そのものであることがばれないよう振る舞う。こんな面倒なことを飽きもせずやってきたのは、全て月の神子を葬り去るためだ。
「準備はほぼ整った」
邪魔者は排除したし、紅躅のような勘の鋭いやつらにも、既に手は下してある。 あとはこの紅蘇だけ。こいつさえ落ちれば、月の神子は永久にこの世から消える。
「その時、人間は死に絶えたも当然だ」
夜叉が世界に溢れ、死の臭いが蔓延する。草木は萎れ、水は枯れ、空から光が消える。これ以上に素晴らしいことがありうるだろうか。
――やめろ。
遠くで声が聞こえる。
――やめてくれ。
「またか……」
御簾の内に戻ってから、女人を呼び、紅蘇の介抱するよう命じる。自分の命を案じてか、やつらは紅蘇の様子の不自然さについても、何も言わなかった。先程の絶叫だって聞こえていただろうに。醜い生き物だ。
「所詮人間などこんなものだ。お前もそうだったろう」
――だが昴は違う。
「はっ。やつが俺様から逃れられるとでも?」
言葉を発しているのは、一人だけだった。周りには誰もいない。だがそれは明らかに会話だった。
「無理だなそれは」
――もうこれ以上……殺してくれるな。
「偽物だとしても、柳瀬の若子はかわいいか。案ずるな。あいつは殺しはせぬ。 紅躅の方はとっくに手遅れだがな」
高笑いするとその声はやがて一切聞こえなくなった。にもかかわらず、この国の王は、顔を歪め忌ま忌ましげに吐いた。
「まだ意識があるか……嘉瀬村め」
「……疲労?」
「だって典医は言っているわよ」
寝台に体を預けたままの状態で、昴は顔をしかめた。
「全く倒れたときの記憶がないのですが……」
「そうねぇ……それくらい疲れが溜まっていたのではないかしら?」
友佳から視線を反らし、昴は自分の掌を見つめる。
――そう……なのか?
目覚めた時、昴は自室の寝台の上だった。昴が昏倒したと聞いて駆け付けて来たという友佳と和歌滝、飛渡、それから友理――は母親に連れて来られたのだろうが、その四人が揃いも揃って寝台の横で昴の具合を女人に問い詰めているのを見たときは、目が覚めたばかりの昴でさえ唖然とした。もっとも、友理は友佳の腕の中でぐっすりと眠りこけていたが。あれほどの騒ぎの中、よく目を覚まさずにいられたものだ。
「兄上?」
ハッとして昴は声の元を見る。和歌滝と飛渡が同じような顔をしてこちらを見上げていた。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
心配そうな表情を向ける和歌滝の頭をなでる。飛渡に至ってはなぜか昴の寝台の上にはい上がり始めていたので、とりあえず笑いかけておくに留めた。 つい今しがた自分が倒れたことを、昴は友佳に聞いた。しかし昴の方にはまったくその時の記憶がなかった。
――嘉瀬村の所に向かうところまでは覚えているんだが……。
鬼神に呼ばれているも同然だから、と少し緊張していたのも覚えている。だが御簾に向かって頭を下げたあとからが、まるでそこだけ引き抜かれたように何もない。頭を上げると、突然自室に移動したような妙な記憶の繋がりしかなかった。
黙り込んでしまった昴を、友佳は本当に心配そうに見ていた。飛渡も寝台にはい上がり終え、昴をじっと見上げている。和歌滝にいたっては今にも泣き出しそうだった。
「……あえて追求しないでいたけれど」
友佳の声に、昴は顔を上げた。
「ここにいない何年かの間に何かあったの?」
あまりのことに昴は絶句した。 穏やかな表情を向ける友佳。母である静紅が死んで、以来友佳を頼った。その期間は長いわけではない。生まれたときから友佳が自分を見ていたとしても、それは友人の息子としてのはずで、こんな風に――あまり表情を表に出さないよう気をつけていた自分のことが、どうしてわかるのか。
「……確かに、躑躅の二方が亡くなってからあなたの様子は激変したけれど、でもここに戻って来たときからすでにね昴。あなたはもうあなたであることを殺していたわ」
そっと、友佳は昴の右頬に手を当てる。
「ここに戻って来てから初めて私の宮を訪ねた時、この傷のことを聞いたでしょう。そのことを話したときの昴は……随分自然だった。幸せそうでいて、悲しそうな……。けれど感情を持った昴だった」
――藍。
彼女に初めて会ったときのことが、自然と思い出された。
「どうしてそんなに自分を殺しているの」
「……自分を」
――殺す?
友佳の言葉に、昴はひたすら呆然とするしかなかった。 自分を殺す。そんなことを意図したことは昴にはない。ただひたすら、この国の民の為になればいいと、そう思って全てのことに望んで来た。それが、昴が胸の内で求め続けている少女の影を微かに捕らえるほどの洞察力を持つ友佳の見解。その洞察力が例え昴にのみ対するものであっても、昴から見ればなんら変わりはないのだ。
「……もう少し休んだ方がいいわ」
呆然と言葉を失っている昴の背を労るように撫でると、友佳は立ち上がり、和歌滝と飛渡を促す。彼等は心配そうに昴を見ていたが、やがてとぼとぼと母親のもとへ歩み寄った。
「昴」
いつになく真剣な声色に、昴は顔をあげた。
「王になるつもりなら、自分の望みはなんであろうと手に入れるくらいの傲慢さを持ちなさい」
友理を抱き上げた友佳は、そのまま部屋を出て行った。
昴は静かにその様子を見ていたが、しばらくして口から漏れたのは、乾いた笑い声だった。
「それが出来るなら……」
手に入れたいのは彼女自身ではなく、彼女の幸だ。傍にいてほしいと思う。昴を忘れないでいてほしいとも。
けれどそれは、彼女の幸せに比べたら、何の感情も持ち合わせられないもの。
だから、一番にほしいのは彼女の想いだった。
――だがそれは……。
叶うものではないと、既に分かっている。別れたときの彼女が昴へ抱いていた思いと、昴が彼女へ抱く想いは異なるものだ。
例えもし叶ったとしても、既に彼女は昴の敵。相容れぬ存在となってしまっている。戦を控えた今、藍は敵の中枢となる者なのだから。
そして、戦は始まったのだ。
準備はしていたものの、やはりいざ三国がまとまった軍を目の前にすると圧倒されるものがあった。特に城の東側に集中する兵は、皆が皆真っ当な格好――つまり、戦の格好をしているわけではなかったのだが、その数が尋常ではない。
城壁に立ち、昴はそこから敵陣を見下ろした。元々は軽装の昴だったが、今だけはさすがにそういうわけにはいかなかった。今回の戦に当たって次期王としての技量を試す意味もあってか、最高軍師に任命された。軍師、という役職の官はいるにはいるのだが、緊急の場合のみ任命される昴のそれが決まった場合、軍師は最高軍師の駒と成り下がる。
なので、昴の身に着けているものは、最低限の武器である弓と剣だけでなく、指揮官であることを示す飾り物もあった。本気で戦う気があるのかどうか疑いたくなるほど、首飾りやら帯やらなんやらを昴に着けようとしていた女人のことを考えると、それを可能な限り断った昴の格好は、まだまともだろう。先程打ち合わせした軍師の方がよっぽど派手だった。
――あの中に……。
あの無数の人の中に藍がいるのだと思うと、敵軍から目を離さずにはいられなかった。
最高軍師自ら敵の様子を伺うなど、普通ならありえないことだ。緊急で高い地位に着く者は、元来からそれなりの権限を持つものになる。
昴が次期王になることはほぼ決定した。反対派の一族――つまり、亡き躑躅宮号妃雅美一族の官吏のほとんどが戦を前にして左遷された。
雅美の父は発狂したし、兄は政務に一切関わらなくなった。この仕打ちは当然だ、と口にする誰もが、その原因が嘉瀬村にあることを言及しない。もしかしたらそのことに気付けないのかもしれないが、だとしたらこの国の官の無能ぶり、ひいて腐敗は相当のものだということになる。
「結局……」
嘉瀬村を――嘉瀬村に取り憑く鬼神どうすればいいのか、昴には分からなかった。
紅南国の民は元来、嘉瀬村を好いてはいないが憎んでもいない、 という者がほとんどだった。彼が政務を行うようになってから、夜叉という夜叉の襲撃はほとんどなくなったし、碧の国とまではいかなくとも、それなりに落ち着いた国家であった。戦の国と呼ばれるほど戦を起こす王を理解出来ないのは確かだろうが、それでも民の中での嘉瀬村は「人」だった。
碧の一族である克羅が滅ぼされた時より、不穏な噂は流れていたらしい。碧の軍のほとんどが夜叉にやられたこと、それを見越していたかのように、紅南国の準備した軍の規模が小さかったこと、それらの不可思議さが、今の状況を作り出していることを昴は知っていた。
三国連合の「鬼神である嘉瀬村のみが敵」という言葉。紅の民でさえそれを信じ、今現在彼等に交じって朱雀城を包囲している者も少なくはない。
――きっと、他にも何かあるのだろうな。
藍や祈真は嘉瀬村が鬼神ということ以外にも、何か掴んでいるはずだ。それを感じずにはいられないほど、彼等に迷いは感じられない。それを知らない限り、きっと昴は動くことが出来ない。
「……宏夜」
なぜか彼の名前が出てきて、昴は静かに瞳を閉じた。
仲違いの時間の方が長かった。同じ血を持つ兄弟であるにもかかわらず、対立した存在。その状況をお互い改善しようと思わなかったし、思ったところでそんなもの叶うはずもない。
「紅蘇様」
顔をあげると、昴の付き人である兵が眉をしかめてこちらを見ていた。
「紅蘇様の内面に触れるなんてそんな大それたことはいたしません。が、皆の安全のためにどうか表面上だけでも堂々となさってください。……ただでさえ紅の士気は低いんですから」
最後の方は押し殺すように言うこの兵は、朱雀城内での数少ない昴の信頼できる人間の一人だ。その言葉に、昴は苦笑し、すまなかった――と言おうとしたところで、ふと、昴はひっかかりを覚えた。
――表面上?
瞬間、昴の中である考えが一気に広がり、そして一気に焦点を絞った。自分自身で導き出したその考えに、怒りとも悲しみともとれる感情が押し寄せる。
「……もしも」
「え?」
震える声を止めることは出来なかった。普段はあまり表情を見せない昴だけに、目の前の兵は珍しいものを見た、とでも言うように、昴を凝視していた。
「もしも伝えたいことを伝えられない状況に陥ったら……どうする」
あの時、宏夜は昴を頼ったのではなかったのだろうか。口にして伝えることが叶わなかったから――それこそ、己の死を薄々感じていたから、あの「文」を託したのではないのか。
文――それはすなわち、昴と宏夜の幼い頃に交わしたたった一つの約束を示す。
地位も権力も、そんなものとは無縁だった頃、互いに遊んだり話したりすることが難しかった紅蘇と紅躅は、ある『合図』を取り決めた。
何も書いていない「文」をその宮宛てへ送る。嫌がらせだ、と苛立ちを募らせる女人の様子を伺うなり、自分で確かめるなりして、「文」の存在を確認した方は、蘇芳の宮と躑躅の宮の間にある庭の中央の小さな梨の木の元へと行く。蘇芳側からも、躑躅側からも、この木の根元は垣根の影になって伺えないのだ。
「伝えたいことを伝えられない状況……ですか――」
目の前の兵は城を囲う連合軍を、どこか遠い視線で見つめながら、昴の言葉を反復した。
「自分なら諦めちゃいますけど……」
紅蘇様はそういうわけにはいかないんでしょう?
何の意図もない、いたって当前のことを言う目の前の兵を見たあと、昴は踵を返し、走り出した。どうして彼の意図にあの時気付けなかったのだろう。
己の不甲斐なさに唇を噛み締めたその時、静寂の中、ついに敵陣の出撃の合図音が響いた。
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