憂鬱
王になる為に味方を増やすこと。
王になった時の為に味方を増やすこと。
似ているようでまったく異なるこの二つのうちの前者――王になるための味方を増やすことは、今の昴にとっては容易なこと。むしろ、味方になる者が多すぎて後者が何一つ進まないという状況だった。
紅躅宏夜、並びに躑躅の宮号妃、雅美の死は朱雀城に大きな波紋と変化をもたらした。第一継承権を持ちながら、後ろ盾のまったくなかった紅蘇昴と、第二継承権ながらも、紅南国一ともいわれる貴族の後ろ盾を持つ紅躅宏夜。紅蘇の死が一時認められていたこともあり、この二つは対立していた。
だが、絶対権力者である柳瀬王嘉瀬村自らが、第二継承権の紅躅と第二宮号妃の雅美を打ったことにより、今や完全に次期王となるのは昴だと確定した。
官、並びに官吏の変わり身は早かった。昴を目の敵のように見ていた官も、無視が一番とばかりに一切関わってこなかった官吏も、今や毎日のように、うちの宴に来てくれだの、これをもらってくれだのという内容の文を、たくさんの捧げ物と共に蘇芳の宮へよこす。今まで紅躅側についていた者達の半分以上こちらに回ってきたのだから、その数は半端ではなかった。
ほとんどが自分の首を繋ぐ為の行動であるのに対し、中には真剣な表情で、昴が王になるべきだ、と言う者もいる。以前からそう思っていたが他からの視線が恐ろしくて言えなかった、とか、それに似たようなことも多々言われた。
ただの熱演ばかりでなく、心からそう思っている官吏も中にはいるのだろう。だが、その真偽を判断し、先へ繋げていこうとする余力が昴には残っていなかった。
宏夜と雅美の死は、多くの役人とは別の意味で昴に大きな衝撃を与えていた。
嘉瀬村が鬼神に憑かれている。
それがどれだけ恐ろしいことなのか、今更になって分かった。
悪の神――そう称されていただけの日の神子の血を嘉瀬村は継いでいない。つまり、彼に神の血は流れていないことになる。それでも、嘉瀬村は人だ。聞く話によれば、彼は王位に就く前は、温厚な人柄だったという。鬼神に憑かれなければ、好き勝手人を殺したり、自分の妻や息子を亡き者にするなどという残虐非道なことは出来なかったのではないだろうか。
人ならぬものに、四大国でも力のあるこの国を支配され、しかし昴一人では何も解決出来ないこの状況。
鬼神を倒したい、と強く思う。だが嘉瀬村を――父を殺すことは出来ない。
――どうすればいいんだ……。
風も光も入らない、蘇芳の宮の奥深くで、昴は一人頭を悩ませていた。
あの事件からもうふた月以上が経過している。季節は夏を迎えているし、もうあと二、三週間で暦上は実月に入る。
精神的疲労が体にも影響を与えているのか、だるいと感じる日がこのところ何日も続いていた。この朱雀城に帰ってきたときから続く、昴を見張る視線ですら、すでにどうでも良くなっている。おそらく嘉瀬村の見張りなのであろうが、あれが攻撃して来ないのは承知しているし、普通はそれでも気を抜くものではないのだが、もし昴の命を狙っていたとして、果たして、殺されたところでそれが何になるというのだ。官吏は次の王位継承権を持つ和歌滝に群がり、なんだかんだで昴を可愛がってくれている友佳も、人の親だ。息子の方が大事だろうから、それ相応の感情を抱えるはず。昴の死を、本気で悲しむ者など――。
不意にかの少女の笑顔が浮かんで、昴は苦笑した。こんな時にまで藍を思い出している自分が、情けないというより、哀れだった。
あの時――嘉瀬村が妻と息子に直接手を下して以来、昴の中で藍の存在は信じられないほど大きくなっていた。別れた時でさえこんなに強い感情を抱いたことはなかった。藍は藍の、昴は昴の道を行くと決めたのだし、それはお互いの為でもあったはずだ。昴の望みは紅の民の幸福で、藍の望みは碧の民の幸福。だから心の内に想いを秘め、そのまま消し去るはずだった。確かにそれは、昴の中で完璧とはいかないまでも、上手く処理出来ていたのだ。なのに。
何故今更――、という疑問が生まれたのは必然で、始めは、抑えが効かなくなったのかと考えた。しかし、それにしては『行動』したいとは思う気持ちが沸かない。会いたいとも抱きしめたいとも思わなかった。ただあるのは、欲しいという感情――。
何かが少しずつ、自分の中で崩れていくのを昴は感じていた。それは同時に、自分とは異質のものが侵入してくるような気分でもあって。
違和感。
それがしっくり来る言葉だった。藍を想うことに溺れている――自分でも理解出来ないこの状態を昴は自嘲を込めてこう呼んでいる――それが、自分の意志とは別にあるような気すらする。
鬼神を倒したい、父を助けたいと強く思う気持ちはしっかりと持ち続けている。だがそれ以外のことに、昴は妥協を許してしまっていた。政務、剣術、学問、官との関係、そして――自らの心の整理。
――あの時……。
昴は自分の掌を見つめながら、ぼんやりと雅美が嘉瀬村に殺された時のことを思い出す。
――あの時の夢。
夢というより幻、幻というよりはただ声を聞いただけだとも言える。低くおぞましい声。だが、抵抗出来なかったあの声。こんな風に、自分で自身を制御出来なくなったのはあの声を聞いてからだ。
――鬼神が何かしたのか?
働かない頭を、しかし昴は必死に稼働させていた。もしこの問の答が是だとすれば、鬼神は何らかの理由で昴を無気力な状態にさせていることになる。
――いや……そうとも限らない。
もしかしたら、ただ昴自身が、もうすぐ戦が始まる、父王が息子を殺す、などという混乱した状況から逃げ出したいだけなのかもしれない。だとしたら、笑えない冗談だ。
「戦か……」
克羅の姫は既に旧都克羅に入ったという。白西国軍が西から、三国連合軍が東から責めてくることももはや分かっている事実だった。
紅の民の中にも、克羅藍が善の神――月の神子の生まれ変わりだと信じる者が増えて来ていると、女人が噂しているのを昴は聞いた。死んだと思われていた碧の宝が生きていたことや、白と緑が背後にあること、かの少女が言う嘉瀬村は鬼神だということにどこか頷けてしまうのも、民が彼等の元へ走る理由にもなっているのだろう。そしてその紅の民を、彼等は傷付けない。目的は嘉瀬村、すなわち鬼神だけだと文に書いてよこした言葉を、忠実に守っている。
この戦に何の意味があるのか、昴にはまだ分からない。だが、彼等は鬼神を殺すという名目の元、昴の父を殺そうとしている。それに藍が賛同しているのも確かだ。
昴は藍を分かっている。だがそれは納得することとは違う。彼らの知ることと己の知らぬこと、己の知ることと彼らの知らぬこと。それが噛み合っていないのかもしれない。けれどそれはきっと当たり前のことなのだ。
「藍……」
彼女は今、何を考えているのだろう。少しは自分のことを思ってくれてはいるのだろうか。分かっていたこととはいえ、こんな敵対する状況に追い込まれた今、自分の想いを伝えられるはずもない。――いや、別れるときにこの想いは伝えない、と自分は決めたのだ。それを今更――。
「紅蘇様」
呼ばれて、昴は顔を上げる。女人が頭を下げていた。
「王がお呼びです」
「……ああ」
立ち上がり、昴は一つ息を吐いた。
鬼神は、昴を側に置いて何がしたいのか。
それを考えることすら――もう億劫になっていた。
自分の妻や息子さえ平気で手に掛けるこの国の王に対する不信と恐怖は強まっている。だからなのか、官吏の中にさえ、白西国や緑北国が言うように、嘉瀬村は鬼神なのかもしれないと思う者が増えて来ていた。まさか、と莫迦にしている者もいるが、かといってその者達が嘉瀬村に忠誠を誓っているのかといえば、そうでもない。
表面上はまだ穏やかだと言って良いだろう。少しずつ崩れて行くこの紅南の地は、国単位で見ればまだ目に見える程の荒廃はない。
嘉瀬村のいる主舎に向かう途中にある、廊から見える中庭。昴はふと立ち止まって、それをぼんやりと眺めた。この国の国色である赤い花が、緑の葉と対比して艶やかだった。計算し尽くされ、自然をなくしたこの城の自然は、むしろこちらを圧迫するものでしかなくなっている。
――鬼神なのか、と聞いてみるか?
嘉瀬村も、彼自身を鬼神だと呼ぶ者がいることは知っているだろう。昴がそのことを確信していることまで分かっているかどうかはさておき、官吏が少しずつ、恐怖故に離れていくのに彼も気付いているはずだ。しかし意に介した様子は全く見られない。
下手をしたら、昴も宏夜と同じ状況に成り兼ねない。彼も昴と同じく、白、緑、碧からの文を見てすぐに、嘉瀬村を鬼神だろうと断定した、数少ない一人だった。しかも宏夜は、昴に情報を与えたその日のうちに殺されている。
嘉瀬村――いや、鬼神にお前は鬼神かと聞いたら、一体どんな反応を示すのか。
ぞっと背筋を震わせるような感覚が走ったが、次の瞬間には昴はそれを一蹴していた。反応を見たところで状況は何も変わりはしない。相手が肯定しても父を殺すことは出来ないし、否定されたとしても、きっと昴は疑い続ける。
――動けない。
再び足を動かし始めながら、昴は思った。
何かしようという気持ちが昴に起きないだけでなく、昴には何もすることが出来ないこの現実。最悪だ。連合軍が――かの少女が、この地に攻めてくるというこんな時に。
「……失礼します」
いつものように座に着くなり、昴は御簾に向かって頭を下げた。本来は向こうにいる王を敬っての儀礼だけれど、そんなこと――もうどうでもいい。
「お呼びと聞きました」
「そうだ。そちと一対一で話がしたかった」
顔をあげて良い、と言われ、昴はその言葉に従う。御簾に写る影をぼんやりと見る。
「……何の御用でしょうか」
言って昴は気付く。ぼんやりとしているのは影だけではなかった。
――まただ……。
頭が上手く働いていない。霧を掴もうともがいているような、息苦しいような感覚。宏夜が目の前の男に殺されたあの日、昴が感じた混沌とした現実。
あれから何度も嘉瀬村には対面している。議会だってあるし、他用でもこうして目の前に座ることはあった。
だが、一対一で――嘉瀬村と昴以外の人がいないというこの状況は、昴が朱雀城に戻って来た時以来だ。
「紅躅を殺したことをまだ許せぬか」
唐突な言葉に、昴は頭の中の霧を振り払い、顔を上げる。
「やつはあろうことか実の妹と通じておったのだぞ?しかも――」
嘉瀬村の声が嫌悪を含んだものに変わる。
「妙に聡い……腹立たしいわ。柳瀬の血を鼻にかける愚か者よ。しょせん奴も……」
嘉瀬村はそこで言葉を止めた。
「儂の言葉が聞こえるか?」
妙な質問だ、ということは分かったのだが、なぜ妙なのか考えられない。ただひたすら、現実を繋ぎ止めるのに必死で、はい、とだけ返事をする。しぶとい奴め――という声が、どこかで聞こえた気がした。
「……最近そちの様子がおかしいと聞いた。真か」
「……はい」
「どのように?」
「うまく……事が考えられず……気持ちが――」
「……愛おしい者へと傾くか」
「……はい」
――変だ。おかしい。
――なぜ嘉瀬村がこんなことを知っている。
――いや、それ以前にこいつは鬼神で。
――自分のことを語っては駄目だ……。
思うことはたくさんあるのに、昴の中でそれは浮かんでは消され、浮かんでは消される。敷かれた一つしかない道を歩むかのごとく、昴の思考は嘉瀬村のみへと繋がっていた。
彼の質問にのみ答える。彼の言うことにのみ従う。自分の中に――受け入れる。
「克羅の姫だったな。お前が思うのは。手に入れたいとは思わないのか」
「彼女は……藍は碧の民にとってなくてはならない存在です……藍自身も――」
「以前も言ったはずだが?あの娘はお前を愛していると」
「それ……は……」
「あの娘は月の神子だ。俺様が言うのだから間違いない。お前はあいつが欲しいのだろう」
目の前が真っ暗だった。肌寒い。なのに汗が流れる。硝子の破片が体中を廻っているみたいに、全身が痛い――。
「欲しいのならまず俺様を受け入れろ」
――駄目だ……。
『受け入れろ』
嘉瀬村の声ではない声が、耳からではなく直に頭に響くのを昴は感じた。それと共に突然、今までと比べものにならない痛みが全身を襲い、そのせいで吐き気が押し寄せる。
「……っ!」
体が自分のものでないようだった。 何かが入り込んでいる。でもそれを自分はなんとか拒絶しようとしている。
――どうしてこんなに体が熱い。
声を上げて叫ぶことだけはなんとか堪え、荒い息を無理やり整えると、昴は顔を上げて御簾の向こうを睨み付けた。流れる汗が水滴となって床に落ちた。
『ほう』
バサリ――と御簾が向こうから持ち上がる。
『まだ抗う力が残っているか。さすがは紅蘇。その名は伊達ではないな』
赤い瞳。今や完全に昴にはその色が見えていた。暗い気配も、自分に向けられる殺気も、おぞましい死の臭いも感じて取れる。
「……鬼神っ!」
何も考えられないぼんやりした頭の中で、昴はただ怒りだけを思い出していた。 自分を保つことの出来る唯一の手段。冷静になるとか、状況を見るとか、そんなことをすればたちまち呑まれてしまうことを、どこかで感じていた。
『だからどうした』
昴を見下ろし、相手は嘲笑う。
『そんなことはとうに承知だっただろう?』
ぐい、と片手で襟を捕まれ、無理矢理立たされる。力のないひ弱な嘉瀬村にこんなことが出来るはずがなかった。
『三千年だ』
ギリ――と、憎々しげに毒づく。
『三千年もの間、俺様はこの時を待っていた』
「くっ……!」
――剣を……。
昴は右手を伸ばした。が、柄を掴んだ瞬間、そのまま床にたたき付けられた。
『無駄だ。おまえにこいつは殺せない』
愚かなことにな――と、力が入らないせいで体勢を整えられない昴の元に、嘉瀬村のまま、鬼神は歩み寄ってくる。
『貴様が実の父親を殺せぬことなど百も承知だ。なんの為にこんな使えぬ体を未だ主体としていると思っている。まあ、どちらにしろ、俺様を殺すことが出来るのはこの世界に一人だけだが』
「藍の……ことか」
ぐっと力を入れ、昴はなんとか言葉を発する。目の前の悪が歪んだ笑みを浮かべたのが空気で分かった。
『よく分かっているな。そう、克羅の娘。月の神子の末裔にして再来……。三千年間、俺様はあいつを葬り去ることだけを考えていた』
嘉瀬村は昴の腕を掴むと、ぐい、と引っ張り、膝を付く体勢にさせた。昴の体に走る痛みも、吐き気も未だ引いていない。気絶しないよう堪えることしか出来なかった。
『月の神子を葬り去れば、もはや邪魔者は消える。だがあの娘は強い。強大な庇護も受けている。だからお前が必要なのだ。ずっとそう言っていただろう』
血の赤に視線を固定され、掴みとられる。逸らすことが出来なかった。
『受け入れろ』
痛みがますます強くなる。体が重くて、息が――出来ない。
『俺様を受け入れればお前は欲しいものを手に入れられる。月の神子――克羅藍をな』
またしても、昴の脳裏に少女の姿が映った。笑って、怒って、泣いて――昴を必要としてくれた藍。彼女を愛おしいと思った。いや、今だってその気持ちは変わらない。
そしてふと、昴は、受け入れてしまえばこの痛みが永遠に去るであろうことに気付いた。暗い闇の中で、自分に向かって伸びてくる無数の手。どれでもいい。その一つを取れば、この悪夢のような状況から抜け出せる。これからずっと、痛みも迷いも苦しみもない場所へと辿り着ける。
『受け入れろ』
それが最後の言葉であると、昴は分かっていた。 握りしめていた拳を、少しずつ、それに近づける。入ってくるものを受け入れるだけでいいのだ。そうすればこの苦しみから逃れられる。藍にこの気持ちを伝えられる――。
――本当にそうか?
違う声が聞こえた。暗闇の中で、昴は動きを止める。
――本当にそれでいいのか?
それは、昴自身の声だった。諌めるような調子。昴が藍によく使っていたそれは、虚ろな自分を急激に冷静にさせた。
――そうだ。
――こいつは鬼神だ。
――こいつを受け入れれば、藍を手に入れるどころか。
――藍を殺すことになる。
『どうした。受け入れろ』
「こと……る」
『何だと』
「……断る」
一瞬、入り込もうとする何かの動きが止まったのを昴は感じた。
『……そうか。まあ、少しばかり早過ぎたかもしれぬ。この三千年に比べれば、あの娘がここに来るまでの時間なんぞ、問題ではない。だが……』
スーッと、全身の痛みが引いて、そして次の瞬間。
昴は絶叫していた。痛いどころの話ではない。焼かれている。抉られている。心臓が握り潰され、身体中に槍があますところなく突き刺さっている。
殺された方がましだと思った。体が死を望んでいる。こんな苦痛は耐えられない――。
『こういうのは俺様も好きじゃない。もどかしくてたまらんからな。さっくり殺して血を見る方がよっぽどいい。だが、貴様の場合は、そうもいかぬ』
鬼神の声が遠くで聞こえる。
『この場で起こったこと全て、忘れてもらおうか』
その言葉を最後に、昴の意識は急激に暗闇へと落とされた。




