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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第5章 〜双光輝く玉〜
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帰郷

 翌日は雨だった。雨季ももうすぐ終わる雨月の半ばにしては、視界が濁る程の強さで、なんだか肌に合わないような気がする。懐かしい、約一年ぶりの祖国に足を踏み入れたというのに、藍の心はこの雨のようにくすんでいた。

 ――降り続けばまずいな……。

 朝から進み続け、晴れていたならば夕焼けが目に映るだろうという時刻だった。その時から今まで、雨量はあまり変わっていない。これからこの雨が強まるとは思わなかったが、弱まるとも思えなかった。

「藍」

 遠くで呼ばれたような気がして顔をあげると、津都惟に抱き抱えられる形で馬に乗った遥世が、背後から寄ってくるところだった。藍も馬の手綱を引き、足を止めると向きを変えさせた。

「どうした?緑軍は最後尾だろう。こんなとこまで遥世自ら出てくるなんて」

 藍達の横を進む碧軍の民が興味深そうにこちらを窺っているのが分かった。彼等からしてみれば、緑の王と碧の長が会話を交わしているのだから、これほど関心するものはないのだろう。緑の王においては、深窓の大美人とされているし、普通ならば存在すら確認出来ないはずだ。

「ええ。大したことはないのだけれど……。この雨って――」

 遥世の言わんとしていることが分かって、藍は頷く。彼女も藍と同じ事を考えているようだった。

「ああ。やつらからしてみれば絶好の機会だと思う」

 まだ気配はないけど、と極力声量を小さくして、藍は空を見上げた。ただでさえ分厚く暗い灰色の雲が空を覆っているというのに、時が時なだけに、闇は深い。

「今日は早めに休んだ方がいいかと思います。もし本当に夜叉がこの雨の降る時を狙ってくるのなら、無理に兵の体力を削いではなりません」

 津都惟が厳しい表情で言う。藍は頷いた。

「先頭にいる剛山に知らせてくる。遥世と津都惟殿は軍に戻る前に祈真に伝えておいてくれ。見 張りを増やして、兵の体力を温存させるように、と」

「分かったわ。あ、藍。それからね――」

 剛山に伝えるべく馬の腹を蹴りかけた藍を、遥世が引き止めた。

「これ、持ってて」

 ぽいっ、と放り投げられて藍が受け取ったのは、小さな巾着だった。

「お守り。私の術師としての腕と知識を総動員して作ったの。肌身離さず付けておいて。貴女が死んだら元も子もないもの。致命傷は避けられると思うわ」

 ぽかん、と口を開けて見ていた藍に、遥世は爽やかな笑顔をむける。その整った笑みは雨の降る闇の中、優しく心地良かった。

「……ありがとう」

「何言ってるの。それはこっちの台詞よ。行きましょう津都惟」

 津都惟は頷くと腹を蹴った。照れたような彼女の表情を思い浮かべ、きっと祈真は遥世のこういうところが好きなんだ、と思うと、自然と笑みがこぼれた。

 巾着を懐にしまい、手綱を返して、藍は剛山の元へ向かった。


 予測が現実となったのはそれから四日後のことだった。不意打ちでもなく、唐突に出没したのでもなく、夜叉はただ待ち受けていた。小高い丘から見下ろす先に、黒い塊が数百、軍の行く手を塞いでいる。雨の薄暗さと夜叉の存在が、世界を暗闇に染めているようで、軍のほとんどが静まり返っている。

「どういうつもりなのだ……」

 その中で、先頭で馬に乗る剛山の放った言葉はよく響いた。眉をひそめて丘の向こうにいる夜叉を睨み付ける

「襲ってくる気配がない。まるで我らを誘っているかのようだ」

「それにしちゃ数が少な過ぎる」

 祈真も納得出来ないようだった。

「犬妖と猿妖が七百から八百。視野の良いこの場所に隠れる場所はないから、あれで全部だよなぁ……。俺の軍だけでもいけるぜ」

祈真の指揮する白軍は現在五万。普段彼が率いているのは約四百人の精鋭から成る小組織だが、今回はことが重大なだけに、その四百人の下に更なる部下が数百人いる。犬妖や猿妖は夜叉の中でも強い部類に入るが、祈真の軍であることも考えると、夜叉千匹ぐらいは楽なはずだ。

「……時間稼ぎ」

「はあ?」

 ぽつりと呟いた藍に、祈真が呆れた声をあげた。

「なんで夜叉が時間稼ぎなんかするんだよ」

「鬼神が命じてるんだ。少数ずつ数回に渡って現れ、私達を進軍を妨げるために」

「……根拠は?」

「ない。なんとなくそう思った」

 きっぱりと言い切る。勘でしかなかったが、不思議と確信があった。

 ひらり、と藍は月華を腰元から抜く。

「何にしろ、早く倒すに越したことはないだろう」

 禍の世に早く終止符を打たねば、夜叉の被害や鬼神の行いで人が死ぬばかりだ。躊躇する時間さえ今は惜しい。

「今回は緑軍は戦いに加わらせず、迂回して先に進ませようと思う。碧軍で腕のたつ者数千と白軍が戦っている間に、津都惟には碧の民を無事先導してほしい」

「わかりました」

「剛山は津都惟と共に。道案内と民の混乱を防いでくれ。――碧の義軍は戦力に乏しい。戦えない者を無理に巻き込むことはない。それから遥世、先に緑軍と共に先に進んだら、結界を張って自分の軍を守ってほしいんだ。おそらく峠の向こうに再び現れる」

「先にもいるの?」

 遥世が眉を潜めて言った。藍は自嘲気味の笑みを浮かべる。

「今はいない。だけどこちらが大群であることを敵は知っているから、長い列の前後両方から攻撃して、動きを止めてくるはずだ。軍を二つに分ければまだ動きやすいのだろうけど、碧の民の人数の比が大きすぎて守り切れない」

 進んだ先で奴らに遭遇したら、と藍は続ける。

「状況により戦闘に入ってくれて構わない。判断は津都惟に任せる。剛山は遥世を私だと思って守れ。守りきることが出来るなら後方に控えていようが前線に構えようが好きにしていい。だが遥世に傷一つつけるな。いいな?」

「御意」

 剛山は深く頭を下げた。藍は頷き、静かに言う。

「これから毎日、この大軍の前後中間、どこかが必ず夜叉と戦っている、ということが起きるはずだ。だから私たちがこうして集まるのも、克羅に着くまではないと思う」

 藍は遥世と祈真を交互に見た。彼等の表情はいたって真剣で、それは王族としての風格と威厳を兼ね備えたものだった。

「絶対に、碧の民を優先するなよ。祈真は白の、遥世は緑の王族なんだから」

「……ああ」

「分かっているわ」

 祈真も遥世も頷いた。緊張した面持ちの二人とは対象的に、藍はふっと笑む。

「行くぞ!」

 それを合図に、祈真が太刀を抜き、背後に控えていた白軍の者達も続く。遥世と津都惟、剛山は引き、変わりに藍の護衛隊長の隆生が静かに藍の傍らに控える。

「出来るだけ私がとどめをさす。自分の身に危険に及ばない限り、やつらを殺さず生かしておいてくれ」

 藍が夜叉を斬らない限り、夜叉は消滅しない。祈真や兵の斬ったの肉体こそ滅んでも、それはやつらに何の影響も及ぼさない。

 だから月華の剣があり、太古の昔、月の神子は戦っていたのだ。

 ――私は……。

 生まれ変わりかもしれないけれど、月の神子自身ではない。自分の為に戦い、生きていこうと思う小さな人間。

 ――だからきっと、幸せを望んでしまうんだ。

 自分の。

 そして彼の。

 黒い群れへと向かうたくさん足音は雨音と重なり、雷鳴を思わせた。


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