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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第5章 〜双光輝く玉〜
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赤い目

「紅躅が死んだ……?」

 昴は呆然と目の前の仕えの男を見つめた。

 まだ月は高い位置にある。眠りについてからほんの一時も経っていなかった。部屋着のまま男に近寄り、どういうことだ、と低く問う。目は完全に冴えていた。

「躑躅の宮深部にて、ご遺体が見つかったと……」

「死因は」

「胸に一撃、剣による傷が。致命傷だとか……」

 言葉もなく、昴は平伏する男の背中を見つめ続ける。もう初夏だというのに、体中が震えていた。寒くて恐ろしくて目眩がした。

 ――なぜ……。

 額に手をあて、下がっていい、と呟く。男は部屋から出て行った。

「紅躅が……」

 さっきまでこの宮で話していた自分の弟が、どうしてこんなことになったのか。

 蘇芳の宮と躑躅の宮は広い庭と橋を挟んで隣に位置している。そのせいで、混乱の声がここまで聞こえて来た。悲鳴と足音と、ざわざわとあがる人の声。対象的に不気味な程静まり返っている蘇芳の宮で、昴はめまぐるしい勢いで頭を働かせる。

 ――剣による傷ということは他殺だ。誰が何故この時期にあいつを殺す?

 そもそもどうやって加害者は宮に侵入したのだろうか。躑躅の宮は後宮の中でも最も警備が厳しい。宮号妃雅美の兄により配置された女兵が扉というを扉を完全に防衛しているのだ。どうあがいても、侵入は不可能である。

 躑躅の宮内部の者による裏切りだろうか。しかし理由という理由が昴には思い浮かばない。莫大な財産を持つ雅美の一族に雇われていて、不満がある者などそうはないだろうし、ましてや王位継承権を持つ若子を殺すなど、もってのほかだ。紅南国一大切にされていると言っても過言ではない紅躅を殺すなど、理論的にも力量的にも合う者がいるはずもない。

 ――いや、一人いるな。

 昴は自嘲気味に笑った。

 紅躅が邪魔で尚且つ剣の腕の高い者が、ここにいるではないか。それに躑躅の宮は蘇芳の宮の隣。侵入するのも簡単で、何よりも、紅躅とその者はつい先程まで様々な会話を交わしていた。

「俺が犯人である可能性が高いな」

 これは昴を陥れる為の罠かもしれない。おそらく紅躅と紅蘇、どちらも邪魔だと判断している者による犯行だろう。何の後盾も持たない若子が、紅南国で一番強大な権力者の庇護にある若子を殺したことになってしまう。それで無事で済むはずがない。加えて昴には、自分の無実を証明するものが何一つないのだ。

 昴は服を着替え、念の為剣を携えると、大急ぎで王の主舎に向かった。

 自分の身を呪う者がいて、そのせいで昴が窮地に立たされる可能性があるであろうことは分かっていた。人が多くいる場所に行っても、今日一日何処で何をしていたのかを官に問いただされるだけだろう。ならば宮でじっとしている方が、余計な疑いや騒ぎを起こさなくて済む。

 それでも昴は事の真相を知らずにはいられなかった。例え自分の状況が不利になるということが分かっていても、そのために怒りを抑えることは出来なかった。――弟の命を断った者を許せなかった。


 主舎は案の定人でいっぱいだった。王の私宮であるにも関わらず、呼ばれてもいない官吏や女人などでごった返しており、ざわざわとうるさい。その中に後宮守備兵の頭の姿を認めて、昴は眉をひそめた。兵の地位は紅南国内においては高くない。本来ならこんな場所にいてはならないはずだ。

 入って来た昴に気付いた一人が驚いてこちらを凝視し、すぐさま近くの者に耳打ちする。それが何度か広間中で繰り返され、次の瞬間に、昴は皆の視線の中心となっていた。うるさかったはずの場は、さざ波のような囁き声が聞こえるだけの冷たいものに変わる。

「紅蘇様」

 じっと動かず全員を静かに見据えている昴に一番に声をかけてきたのは、この場にいることすら本来ならありえないはずの、後宮守備兵長だった。昴はそちらに視線を移す。優雅だがどこか相手を威圧するその振る舞いに、僅かに守備兵長は怯みながらも、ずい、と前に進み出た。

「紅蘇昴様、どうか我らにご同行を」

 息を飲む声がいくつも聞こえて、そのあとでまるで深海に閉じ込められたかのような無音が空気を縛った。

 目を細めた昴を、兵長は拒絶と判断したのだろう。声を一段と低くし、半ば脅しの口調で昴を睨み付けた。

「こちらも手荒なことはしたくないのです。どうか紅蘇自らの意志でのご同行を――」

「それは誰の命だ?」

 下げかけた頭を、兵長は再びあげた。その厳しい面に、昴は口だけで笑う。

「王の命か?」

 だったら聞くが、と昴はこの場にそぐわない呑気ともとれる様子で呟く。兵長は黙ったままだ。

「残念ながらそうでないだろう?ならば例え王族の一人が死ぬような一大事だとしても、おとなしく引っ捕らえられる気はない」

 宏夜の母雅美が、犯人は昴だと言い張ってここに後宮守備兵を送ったであろうことは、目に見えて分かっていた。後宮を牛耳っているのは彼女だ。

 それに――、と昴は心の中で呟く。

 ――俺を力付くで捩伏せるなら、もっと人数を連れて来るべきだろう。なめられたものだ。

 兵長の後ろに控えているのは二人。携えている武器は剣だけ。たった三人で昴を取り押さえる気なのだろうか。だとしたら間抜けもいいところだろう。

「紅躅が死んだのは間違いないのか」

 昴を捕らえるべきか否かの判断に迷っている兵長を無視し、昴は近くにいた若い官吏に聞いた。戸惑いながらも、昴より二つか三つ年上であろうその者は答える。

「そのようです」

「犯人は捕まっていないのだろう?」

「ええ、まあ……」

 胡散臭そうに男は昴を見る。その視線の意味をわかっていたので、昴は無視した。

 ――宏夜……。

 一体誰が、何の目的で彼を殺したのか。それに不可解な点もある。宏夜も王族だ。若子が国一番の剣術士に稽古をつけてもらうのが決まりである以上、それなりに剣は使えるだろうし、自分が住む宮の深部だからといって安心し、剣を手放すほど、彼は愚かではなかった。そして昴に仕えている男による情報が事実であれば、宏夜は一撃でやられていることになる。命の危機を感じてやり合ったのであれば、体にかすり傷がつくはずだ。それが宏夜にはない。

 事態をよく知る者を探して色々問うてみよう、と昴は伏せていた顔をあげた。

 途端、悲鳴があがった。

 現在の状況を考えて、昴は誰にも気付かれないよう剣の柄を握った。昴を捕らえる兵、宏夜を殺した犯人、何らかの政敵。何が来ても反撃できる状態だったのに、現れたのはそのどれでもなかった。

「なんということだ……」

 昴の問いに答えた男が声をあげた。

 女人の悲鳴を合図とし、裏の戸口から現れたのは柳瀬王嘉瀬村だった。

 やっと来たか、と安堵の息をつこうとしたのは一瞬だけで、昴はすぐに警戒を強める。

「騒がしい。何故このような時刻にこんなに人がおるのだ」

 淡い黄金色の上衣から袴にかけて、黒いものが点々と続き染みを作っていた。少量ではない。前面はほとんどそれで染まっており、黄金を判断する方が難しかった。

「……この場所に入ってはならぬ者までおるな。そちは何をしておる?」

 青白い顔が、何故か今だけ健康そうに――嬉しそうに先程の後宮守備兵長に向けられた。

 ――血糊。

 こちらの方に体を向け、その黒い染みの全般を見た昴は確信した。

 乾いて黒ずんでいるが、間違いない。衣を固く、独特の癖をつけて歪めているそれは、まぎれもなく血だった。

 瞬間、昴は今の今までとても大切なことを忘れていたことに気がついた。宏夜の死の方があまりに大きく目の前に立ちはだかり、何を優先すべきかの判断がつかなくなっていた。

 嘉瀬村は夜叉――鬼神なのだ。おそらくは操られ、身体を乗っ取られている。つい先程知ったばかりだったのに。

 ――迂闊だった……。

 その事実を知った以上、城内で不可解なことがおきれば、まず彼を疑わなければならないのだ。夜叉は悪。人の死に何かを感じることはない。

「紅蘇。そちも来ておったか」

 嘉瀬村の視線が兵長から昴へと移り、途端鮮やかともいえる表情がこちらにむけられる。

 心の中でざわめく何かを、昴は止められなかった。怒りを拳に封じることでなんとか冷静さを保とうとするが、指先が白く震えるだけで、何の助けにもならない。

「そちがここにいるとは、儂も――」

「お前が……」

 耳元でさざ波の音が聞こえたような気がした。

「お前が宏夜を殺したのか!」

 人前で、しかも彼のことを「紅躅」と呼ぶのも、目の前の男がこの国の王であることも忘れて、昴は怒鳴った。

 何に対して怒りが込み上げてくるのか、昴自身にも分からない。目の前の男が鬼神であることが憎いのか、自分の父親が息子を殺したことが悲しいのか、止める術を持っていたはずの自分が何も出来なかったことが悔しいのか。その全てが原因であり、全てが原因でない気がする。

 身に刺さるかと思われるほどの冷たい沈黙の中、嘉瀬村は無表情のまま昴を見ていた。その瞳の奥に宿る赤い光。おそらく自分以外には見えていないそれを父王の中に見る度思い出されるのは、最初から夜叉以外ありえなかった。

「紅蘇よ……儂はな」

 自ら歩み寄ってくる嘉瀬村を、昴はただ睨みつけた。

 ――こいつは夜叉だ。

 だが父の身体だ。

 ――鬼神に支配されているんだぞ。

 父の意志は死んでいないかもしれない。

 ――沢山の人を殺した。

 それは。

 ――碧の国を滅ぼした。

 それは。

 ――あの少女を絶望の底へ突き落とした。

 それは。

 ――共に生きることが叶わないのは、全てこいつのせいだ。

 違うっ!

 声に出したつもりだったのに、音にはならなかった。

 頭がぼんやりとして、霧がかかったみたいに全てが霞んでいた。周囲のざわめきが聞こえない。耳から入ってくるのは嘉瀬村の声だけだった。

「儂はな、そちが必要なのだ」

 昴は顔をあげる。嘉瀬村と自分の背丈は変わらないはずなのに、目の前の男が異様に大きく見えた。

「そち以外、誰もいらぬ」

 ――藍。

 なぜだろう。考えられるのは彼女のことだけだった。頭が重くて現実がどこにあるのか分からず、全てが混沌としている――。

『愛おしいのだろう』

 頭の中で聞こえる声。低く冷たい、纏わり付くようなおぞましさをはらむ邪悪な音。それなのに昴はそれに全てを捧げていた。

『月の神子が愛おしいのだろう』

 ――そうだ。だから俺は此処に戻ってきた。

『どうして自分のものにしない』

 ――出来ない。

『なぜ』

 ――藍は……。

 昴は、はたと思考を止める。おかしい。どうして自分はあの時、藍を共に生きようとしなかったのだろう。確か理由があったはずだ。なのにどうして思い出せない?

『月の神子はお前を想っているぞ』

 昴は息を止めた。目の前に黒い影を見たような気がした。

『俺にはわかる。月の神子はお前を想い、お前は月の神子を想っているのだ』

 ――どうしてそんなこと……。

『分かるのか、か?俺を誰だと思っている』

 悲鳴が響いた。

 頭の中の霧が一瞬にして吹き飛び、身体に自由が戻る。暗かった視界が松明の炎と月の光を取り戻して元の色を取り戻した。

 ふらりと視界が揺れて、昴は膝を付いた。変化についていけず、無意識に深く息を吸って、それで自分が呼吸すらしていなかったことに気付いた。

 目の前には再び嘉瀬村が戻って来ている。いや、昴が元の場所に戻って来たというべきか。それにしては身体を動かした感覚は残っていない。ならば先程の暗闇と声は何だったのだろう。

 ――それに……。

 ひどい吐き気がした。自分の体は健康そのものだったはずだ。突然ここまで気分が悪くなるなんて、普通じゃない。

 響いた高い悲鳴を確認しようと、昴は顔をあげた。先程と人の数も立ち位置も変わっていない。ただ違うのは、彼等の視線の先にあるものが、嘉瀬村と昴ではなく、入口に立つ女性に向けられていることだった。

「王!宏夜が……あの子が……」

 雅美は嘉瀬村だけを見ていた。彼の衣を染めているものにも気付かず、涙を流し、自分の夫を、自分の息子の父親を、縋るように見つめる。

 本来なら宮から出ることすらないはずの第二宮号妃がこの場に現れたことに、周囲は混乱していた。古来より位の高い女性は宮の奥に閉じこもっているのが普通で、顔を表に出すのは恥ずかしいことだとされている。そんなことを気にしない人の方が最近は増えているが、雅美は真逆だった。王以外に顔を見られるのは屈辱だと言わんばかりに、躑躅の宮奥で過ごしていたのがこれまでだった。

「上君、およしくださいませ、これ以上は……」

 悲鳴をあげたのは、どうやら雅美の侍女のようだった。必死に雅美を止めようとしている。しかし雅美には諌める声など全く聞こえていないようだった。

「宏夜が、息子が、私の……ああ、どうして……王、宏夜が――」

 雅美の視線がふと、脇に移る。何気ない行動だった。しかし昴を見た途端、雅美は血相を変え、腕を握っていた侍女を突き飛ばした。

「この悪の申し子が!よくも私の息子を!」

 脇から男が飛び出して来て、武器もなく昴に飛び掛かろうとする雅美を押さえ付ける。雅美の兄だった。

「よせ雅美!早まるな!お前は紅蘇にはかなわぬ!手出し出来るような相手ではな――」

「あいつは宏夜を殺したのよ!」

 半狂乱になって雅美は叫ぶ。

「宏夜を殺した!私の息子を殺した!私があいつを殺してやる!兄様そこをどいて!」

 どこにそんな力があったのか、というほど、雅美の細い腕からは想像できないことに、彼女は兄を突き飛ばした。瞬間、その兄の腰元から剣を抜き取る。

「殺してやる!」

 昴は柄を握った。別段傷つけるつもりはなかった。雅美が剣を手放すよう、太刀だけをたたき落とすつもりだった。

 しかし、昴の剣は鞘から離れることはなかった。

 目の前に立ちはだかった黄金の衣。昴には見ることの出来ないその向こうで、一瞬にして起きた現実。

 ドサリ、と崩れる音と、嘉瀬村の足元に赤が広がるのは同時だった。

「紅躅を殺したのは儂だ。違えてみすみす命を失うとは。愚かな女よ」

 嘉瀬村が振り返る。まるで、怪我はないか、と息子を気遣い心配する父親のように。その衣を新たに染めた色も、飛び散った色も、そしてこの国の王であり父である男の瞳に宿る色も、もはや昴の意志でどうなるものではなかった。


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