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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第5章 〜双光輝く玉〜
46/63

異母兄弟

「届かない……」

「もっと強く引くんだ」

「無理だよ。手が痛い~」

「腰を据えて、肩の力を抜いて的を――あーあ」

 ぽろっと、番えていた矢が弓から地面に転がり落ちた。情けないとしか言いようのないその様を傍らで腕を組み、指示を出しながら見ていた昴は、たまらず苦笑する。

「やっぱり俺の弓は和歌滝にはまだ大きいだろう。もう一回り小さいのなら、随分的に当たる確率も上がるじゃないか。そっちにしたらどうだ?」

「いやです」

 ぶすっとして、和歌滝は落ちた矢を拾う。

「だって小さいと、勢いがなくなっちゃうし、刺さる深さがあさくなって、矢の意味がなくなっちゃう。僕はちゃんと敵を倒せるようになりたいんだ」

 一人前に弓矢についての見聞を疲労する昴の弟は、真剣な表情をしていた。和歌滝に弓の使い方を教えてくれと頼まれて、友佳の許可を取った昴は、撫子の宮を訪れて以来、毎日とまではいかなくとも暇を見つけては見てやっている。

 自分で練習していたのもあって基本は出来ていたし、筋が良いのだろう、的に当てることも可能だった。ただしそれは、一回り小さい小型の弓矢でならの話。まだ十にもならない歳で的に当てられるだけ充分だ、と昴は言ったが、和歌滝はそれを聞き入れなかった。

「兄上と同じのが使えるようになります!」

 と張り切って大人が使う弓を手に取ったものの、的まで届きもしないというのが今の現状だった。

 もたもたと自分の体よりも大きな弓を構えようとする和歌滝を、昴はたまらず苦笑して見た。

「和歌滝」

 膝を折り、目線を合わせる。和歌滝は大人しくこちらを見た。その肩にぽんっと手を置き、緊張を解してやる。

「いいか。本当に弓矢に余興ではないものを求めるなら、何よりも大切なのは的を射ぬくことだ」

「でも兄上」

「例え弓矢が小さくて、相手に与える傷が浅くとも――」

 和歌滝の言葉を昴は遮る。

「怪我をすればその者は戦えなくなる。戦は戦力を落としてこその勝利だ。無駄な殺生はよくない。分かるな?」

「……はい」

「よし」

 素直に返事を返した和歌滝の頭を、昴は軽く叩いてやる。いつもそうだが、和歌滝は昴に頭を撫でられると、照れたように顔を赤らめ、嬉しそうににっこりするのだ。昴はその和歌滝の表情が好きだった。

「もし本当に実戦で使うなら、やじりに毒でも塗れば、今の和歌滝でも充分戦力になると思うぞ」

「どくですか?」

「ああ。掠めるだけでも効く可能性が高いから、使ってる者も多いしな。俺も時々使う」

「じゃあ兄上のを分けて……ううん。自分で作るからやり方を教えてください」

 唇を真一文字に結んで見上げてくる和歌滝の表情は、幼いが立派な柳瀬のものだった。自分が王族であり、人の前に立たなければならないことを既に自覚している、昴などよりもずっと現実を心得ている表情。

「また今度な。今日はこれくらいにしよう」

 既に傾きかけてきた陽の光を見て、昴は言った。そろそろ夕餉の時間だ。和歌滝を撫子の宮まで送りとどけなければならない。

「え~。もう?」

「あんまり腕を使うと壊れるから」

「……はーい」

 至極つまらなそうに和歌滝は弓矢を片付け始めた。昴も自分の道具を片付けようとしたところでふと、視界の端に女人の姿を見つけた。そわそわとこちらを伺っており、それで昴は、王族以外の者がこの練習場に入って来られないのを思い出した。足を踏み入れることが出来ずにどうしたらいいのかわからないのだろう。

「和歌滝、俺のも頼んでいいか」

「……?うん。いいけど、どうかしたの?」

「いや、なんでもない。すぐ済む」

 弓矢を和歌滝に預けて、そちらへ向かう。昴が近付いていることに気付いた女は、慌てて頭を下げた。どうやら用事があるらしい。そういえば、蘇芳の宮で見たことのある顔だったかもしれない。

「なにか用か」

 間に一歩の距離を置いて昴は問う。まだ年若い女は顔を赤らめ、頭を下げたままようやく聞き取れるような小さな声を発した。

「王がお呼びでございます」

「王が?今?」

「は、はい」

 不快な表情を読み取れるはずはないのだが、どうやら昴の声にまでそれは出ていたらしい。女人はますます小さくなった。

 ――もう陽も暮れるのに……。

 嘉瀬村は昴を人前に出したがる。昴の才を臣下に見せ付けるためだ。愛情ではないそれをどう解釈するべきなのか、未だに判断はつかないが、そのおかげもあって官吏は昴を殺そうとしない。此処に来たばかりの時の殺気も大分薄くなった。もちろん紅躅側の人間は別なのだが。

 呼び出される回数は兄弟一多いが、それでも、昴が参内指示を下されるのは三日に一回程度。会議は午前中に行われるから嘉瀬村と会うのは昼頃だし、夕方からは政務関係を執り行わないのが慣例だ。

「私用か?」

 それしかないのを承知で昴は問う。暗に行きたくないという気持ちを込めたのだが、もちろんそんなことで参内が免除されるはずがないし、目の前の女がそれを理解しているはずもない。

「細かいことは伺っておりませんが……官のほとんどにも指示が出ているようですので、公的なものかと……」

 ――公的な……。

 目の前の女の言っていることを心の中で反復し、昴は一人腕を組んだ。

 こんな時間にたくさんの官が呼ばれているというのは、かなりの事態だろう。昴を嵌める為のものかというのも考えられるが、それなら細かいことまで逐一計算されているはずだろうから、理由もなく紅蘇を呼び出すなどという莫迦なことはしないはず。本当に緊急だから、細かいことまで伝えられていないのだ。

「兄上~!片付けました……あ、えと……兄上?」

 タタタッと軽い足音を響かせて、和歌滝は走り寄ってくるなり、昴の顔を見上げて心配そうな表情を見せた。

「なんでもない。ありがとう」

 抱えてくれていた昴の分の弓を受け取り、昴はにっこり笑った。和歌滝はまだ幼い。昴が何も心配ないという表情をしていないと、和歌滝は和歌滝自身のことを考える間がなくなってしまう。

 この幼い弟が自分の家族を守る為に武器を使い始めたことを、昴は知っていた。直接口にして聞いたわけではないが、態度や眼差し、そして何より、真剣に聞き学ぼうとする姿を見て分かった。和歌滝が自ら決めたことなのだから、それを貫いてほしいと昴は思う。頼りにならない兄を心配する時間なんて、持っていてほしくなかった。

「和歌滝を送り届けてからすぐ向かう。行こう和歌滝」

 女人にそれだけ言うと、昴は和歌滝の背中をそっと押した。

「……兄上」

 撫子の宮まで和歌滝を送り届けるのは、別に昴がしなければならないことではない。頼めば女人でも衛士でも連れていってくれるだろうし、簡単な話、和歌滝一人でも戻れるのだ。毎回こうして和歌滝を送るのは、昴と関わったことで危険な目に合うかもしれないこの弟の安全を、昴自身で確保したいからだった。

「父上とお会いになる?」

 昴と共に歩きはじめた和歌滝は、やはりちらちらと不安そうにこちらを伺っていた。生来おとなしい分、和歌滝は洞察力が鋭い。

「そうだな。会わなければならないだろうな……」

「兄上はどうして父上のこと嫌いなの?」

「嫌いというか……」

 昴が嘉瀬村に近寄りたがらないことを、和歌滝はとっくに知っている。

「納得出来ない」

 政に関してだけ言えば、おおむね嘉瀬村に同調出来る。しかし彼の王としての在り方には理解できないし、何よりも嘉瀬村を王にしておきたくない。

 ――嘉瀬村は悪の神……日の神子の血を引いていない。

 友佳に先日教えられた言葉を昴は思い出した。

 母静紅が知り、隠し続けていた真実。嘉瀬村は紅南国に流れる血を乗っ取った者であり、従って、柳瀬の一族ではないのだ。宏夜も、衣栩も、今隣にいる和歌滝も。

 友佳は昴にどうしてほしいのか言わなかった。夫である嘉瀬村を王位から退けてほしいのか、それとも、この現実を知る者を友佳と昴だけに留め、墓まで秘密を持って行ってほしいのか。その意図を昴が詠むことは不可能だが、唯一分かることは、友佳は本当に静紅が好きだったということ。彼女は嘉瀬村の大罪を知り、それを口にすることが命に関わる危険であると承知の上で、静紅との約束を守り、昴に全てを伝えた。

 ――嘉瀬村を王位につけたままでは駄目だ。

 母がいつどこでその事実を知ってしまったのかは分からないが、昴が嘉瀬村の子である以上、彼の過ちは昴が正さねばならないと思う。例え嘉瀬村を父親だと思ったことが一度もないとしても、昴は確かに大罪を今なお犯している彼の血を継ぐ息子なのだ。

「和歌滝には全然分かりません……」

 俯いて小さく呟く和歌滝を見て、昴は胸に痛みを覚えた。

 友佳に聞いたところ、和歌滝は生まれてこのかた父王に会ったことがほとんどないのだという。昴に懐いているのも半分は父親を求めているのだろう、と言っていた。

 ――柳瀬の血を引いてない上、残虐非道で、自分の子供に目もくれない……。

 和歌滝が昴に父親を求めようが兄を求めようがそんなことはどうでもいい。和歌滝が昴を必要としてくれているのは確かだし、昴も和歌滝の面倒を見てやるのが好きだ。

 だが、やはり和歌滝の父親はこの世で一人、嘉瀬村だけなのだ。それなのに奴は。

 ――本当に人の血が通っているのだろうか。

 あの冷徹な瞳を見る度、昴には思い出されるものがある。

「納得できないというのは俺の意見だ。和歌滝までそれに合わせる必要はないし、いずれ謁見が叶う日が来る。紅躅も元服してから王に会ったはずだ」

「でも兄上は――」

 と言いかけて、慌てたように和歌滝は口をつぐむ。意味を悟って昴はあらぬ方向をぼんやりと見た。

 八人いる兄弟の中で、昴だけは生まれてすぐ嘉瀬村に抱きあげられているらしいし、紅躅や紅藤が生まれてからも、常にといって良い程目を置かれたのは、昴だけだった。

 だから、昴は城を抜け出したのだ。他の兄弟は会わないから嘉瀬村が分からない。故に彼等は父である嘉瀬村に対し、敬愛も嫌悪も抱かないのだろう。しかしずっと見ていた昴には、愛情か憎悪のどちらかしか感じることが出来ず、そして昴を縛り上げたのは後者だった。

「和歌滝が会いたいと思うのなら、きっと会える。彼はお前の父親なんだから」

 撫子の宮が見えて来たところで、昴は優しく言った。嘉瀬村を知らぬことは彼の所業を知らぬことでもあり、それは幸せなことなのかもしれないと、そうは言わない。

「あにうえ!」

 突然、元気な声が響いて、昴は顔をあげた。飛び出してきた飛渡に気付いた和歌滝が、まただよ、と呟きながら仕方なさそうに昴に手をのばす。

「弓を貸してください兄上。和歌滝が持ってます」

「……いつも悪いな」

「僕は弓教えてもらってるもん。飛渡も兄上が好きなんだから、僕ばっかり兄上取っちゃ、飛渡がかわいそうです」

 弓を和歌滝に預け、昴は駆け寄って来た飛渡を抱き上げた。

「あんねー、きょうねー、とーとねー、いっぱいおべんきょうしたんだよ」

 にこにことかわいらしい笑みを浮かべながら一日の出来事を報告する。これは既に飛渡と昴の間では日課になっており、それは必ず昴が抱き上げてから行われる。飛渡は昴をいたく気に入っており、宮から飛び出して来たら必ず昴に「だっこ」をせがむのだ。

「飛渡は勉強熱心なんだな」

「うん!かーさまがね、おべんきょうは、かーさまのもとにうまれた子の……えっと、ぎ、ぎみゅ……あれ?ぎみ――」

「義務?」

「そう!ギムなんだって!」

 昴の助け舟を得て、飛渡は嬉しそうに言った。意味が分かってないのは明白であるが、突っ込んでも仕方ないということは、ここ最近の飛渡に接する経験において十分理解している。とにかく飛渡は喋るのが好きなのだ。言ってることが多少意味不明でも、頷いて笑っていれば会話――こう言って良いのかは疑問だが――は成り立つ。

「義務なんて言葉知らないくせに」

 むすっと唇を尖らせながら、和歌滝はまさに昴の心理を読んだかのような、適格な言葉を吐いた。

 しかし飛渡は綺麗に流す。というか兄の言葉は全く耳に入っていないらしく、笑顔を全く崩すことなく、昴に顔を押し付けた。

「あにうえ、お日さまのにおいがする」

「は?」

「お日さまのにおい」

「……そうか」

「うん。いいにおい」

「……そう」

 何にどう反応していいやらさっぱりで、昴は表面上は冷静でいながらも、心の内ではかなり混乱していた。何がどうして突然自分の弟ににおいがどーのこーのと言われ、揚句そのまま眠そうに自分の衣がにぎりしめられるのか、全く理解出来ないのである。

「和歌滝」

「なに?」

 既によだれを出し始めている飛渡を見て溜息を付きながら、昴はもう一人の弟に問う。

「俺、いまいち飛渡が理解出来ないんだ」

「大丈夫。兄上は立派な父様になれます」

「……もういい」

 小さな弟は真面目な表情で昴を見上げる。

 時々和歌滝も理解出来ない自分は、やっぱり子供に好かれない質なのだろうか。


 和歌滝を宮に送り、眠たくてぐずる飛渡を昴もよく知る撫子の宮の女人に頼んで、蘇芳の宮で上衣と袴の正装に着替えてから、昴は王の住まう主舎に向かっていた。

 彼等と会っている間だけ、自分の心は素直になれる、と昴は思う。

 子供が苦手なのは確かなのだけれど、子供を見るとどこか安心してしまう自分がいる。穢れのない無垢な彼等が愛おしくて、もしかしたら昴と全く正反対の場所に位置するその存在が羨ましいのかもしれない。

 ――だから尚更、あいつらといると緊張するんだろうな。

 彼等に自分の愚かさや傲慢さを見せたくない、いい兄でありたいというみっともない矜持が常について回るから、和歌滝や飛渡と会う時ほど恐ろしくて緊張するものはなかった。

 昴が昴でいることが出来たのは、もはや過去のこと。大切なことをたくさん学べた旅の間が、一番自分らしかった。自分が何を求め、どこにいると安らげるのか知ってしまった。

 主舎に集まっていたのは上官ばかりだった。昴の到着はやはり遅かったようで、中の間に足を踏み入れた時には、ほとんど人で埋まっていた。

「遅れて申し訳ありません」

 昴の言葉とともに視線が一気に集中する。険しい表情が多かった。

「これで全員揃ったか」

 昴が席に座ると、御簾の向こうで唸るような声が聞こえ、それに合わせて昴を含むその場に座る二、三十人が平伏した。嘉瀬村の声色は、楽しそうだった。

「良い報せが入ったのだ。そちらに早く知らせたくてな」

 嘉瀬村の不可思議な態度に、昴は顔をしかめた。頭を下げたままなので誰にも表情を伺われないし、昴も誰の表情も伺うことは出来ない。しかし、その場の空気が動揺したのを確かに昴は感じた。嘉瀬村の「良い」は血に関係することのみだ。当たり前の人間ならば、それを「良い」とは解釈しないだろう。そして案の定――。

「戦だ」

 ざわ――と、その場にいた官のほとんどが堪え切れずに顔を上げ、声を抑える事なく近くの者と会話を交わす。混乱している者もいれば、冷静に相手国を予測しあう者もいた。

 ――また……。

 ギリ――と歯を食いしばり、昴は頭を下げたまま床を睨み付けた。

 嘉瀬村はまたどこかに戦を仕掛けたのだ。碧を滅ぼし、今度は白か緑か。たくさん人が死ぬ。目の前の男はその流れた血を見て悦に入る。

「ここに相手国からの布告の書がある」

 その言葉に、昴は初めて顔をあげた。

 ――相手国からの布告……だって?

 では、始まる戦は嘉瀬村が仕掛けたものではないということになる。一体どこの国がわざわざ戦を始めようなどという愚かな考えを――。

 ――まさか……。

 彼女だろうか。いや、そんなはずはない。国を取り戻すと昴に言っていたけれど、戦を起こすとは言わなかった。碧の復興を願うなら、彼女は交渉から入るはず。今は白西国という強い味方もいて、紅南国と対等に話し合える力を持っているし、緑北国に入って嘉瀬村の狙う日と月の神子らの情報を掴み、紅の弱みも掴んでいるはずだ。対等どころか、むしろ有益に交渉を進められるはずなのに、彼女自身が厭う戦をわざわざ仕掛けるなど、断じてありえるはずがない。

「紅蘇」

 優しい響きが、昴の背筋を震わせた。恐ろしいほど気遣いを含んでいる嘉瀬村の声。どうしてこいつは、こんなにも昴に執着するのだろう。

「読んでやれ」

 御簾の下から証書が突き出される。官は皆静まり、昴を凝視していた。

 ――藍なわけない。

 素早く立ち上がり、昴は嘉瀬村から証書を受け取る。

 ――だって彼女は……。

 あんなにも皆の幸福を願っていた。昴に紅の民を思うことを教えてくれた。

「『朱雀紅南、嘉瀬村』」

 文は妙な書き出しで始まっていた。王、主、柳瀬といった敬称文句が一つもない。公文にしては少し不自然だ。

「『禍の世が始まり百年経つ。その元凶が其であると、既に我等は承知している。世界をその手一つで動かし、ただ一つの敵のみを破壊する為、碧を滅ぼし、紅を操り、暴虐を繰り返す様を見て見ぬ振りをすることが出来ようはずもない』」

 官全員に聞こえる声量を出しているはずなのに、昴自身には自分の声が酷く小さく聞こえる。

「『我等は碧月の姫を主と成し、禍の元である其を打つ。また世の禍を滅する為、我等の主を碧の国主と成し、真なる紅日の者を紅の国王に就ける。我等の敵はあくまで嘉瀬村のみであり、他の一族、臣、民に手を出すつもりはない。我等が引くことは有り得ぬ。其が悪であることは明白であり、よってここに悪の化身鬼神嘉瀬村への宣戦布告と成す。白西国王――』……」

 昴は自分の腕が震えるのを感じた。けれど読みあげるのを止めることはしなかった。まるでこれが生来の義務であるかのように続けた。

「『白西国王仁多莢生、緑北国王橘遥世、碧の国長克羅藍――以上三国連合』」

 しん、と沈黙が降りた。

 誰の表情にも衝撃的なのは明らかだった。まさか、と乾いた笑みを浮かべているものもいれば、冗談だろう、と呟く者もいる。広間中がこれまでになく茫然自失し、我を忘れて昴を見ていた。

 そしてその昴さえも、言葉なく手紙を見つめるしか出来なかった。不可解な言葉が多いものの、確かに白、緑、碧の三国は紅南国から碧の国を取り戻した後、嘉瀬村を打つことを明記しており、そのうえ連合まで組んでいる。

 ――一体……。

 藍や祈真が何を考えているのか、もはや昴には理解出来なかった。

 藍は碧の民を大事に思うから国を取り戻したいと、昴に言った。昴もそれは分かっていた。だから紅南国側に「克羅の姫が生きている」ということが分かれば、いずれ交渉が始まるであろうことを予測していたし、もしそれがうまくいかず、戦になったとしても、碧を取り戻せば彼女は納得するのだと思っていた。そのために、犠牲者をなるべく少なく出来るよう昴も可能な限り紅南国の内側から藍に協力しようと思っていた。だがこれでは――。

「克羅の姫は生きておったらしい」

 昴は顔をあげ、声の元を見る。

「それによっぽど儂が憎いのだろうな。儂を鬼神というか。よほど追い詰められたと見える……」

 くくく、と嘉瀬村は御簾の向こうで笑った。

 ――鬼神……?

 聞いたことのない言葉だった。嘉瀬村が民や他国の者に『戦鬼』と呼ばれているのは知っている。だが『鬼神』とは――文脈からしてただの皮肉とも思えない。

「おそれながら、王。鬼神とは何でございましょう?」

 昴と同じことを思ったのだろう。官の一人が声をあげた。周りを見ても皆首を傾げているあたり、やはりこの言葉は紅南国では伝わっていないのだろう。――いや、諸国を旅した昴も聞いたことがないから、この国だけ知らないわけではないのかもしれない。

「鬼神は夜叉の王だ」

 皆の疑問の視線を受ける御簾の向こうから、上機嫌な声色の返答がくだる。

「夜叉が現れるのは、全て鬼神が原因。夜叉の王である鬼神は意のままに奴らを操る。鬼神が滅せば夜叉も消える。まさに悪の根源というわけだ」

 予想外の返答に、昴を含む官全員が言葉を失った。しかし嘉瀬村は険しい沈黙を全く気にせず、まるで官などいないかのように、いつになく楽しそうに、これ以上の興はないといった様子でしゃべり続けた。普段一言も言葉を発さぬまま会議を終えることの多い嘉瀬村を考えると、これは異常ともいえる。

「克羅の娘め、生きておるとは思っておったがここまで儂を楽しませてくれるとは思わなんだわ。都合よく緑の小娘と白の若造まで巻き込みよる。昔から変わらぬ愚か者よ。……大臣」

「は、はい」

「戦の準備を整えよ。そして城を守れ」

「承りました」

 大臣は深く頭をさげた。昴も自分の席に戻ろうと足を動かす。しかし嘉瀬村の次の言葉に昴を含めたその場の全員が硬直した。

「ああ、それから、奴らが来る前に東から兵を引いておくのだ」

「は……?」

 東――。すなわち占領したばかりの旧碧の国の土地のこと。戦に勝ってから、逃げ遅れた碧の民を働かせ、今現在も旧克羅を整えている。

 碧の民を奴隷とすることをやめるよう、昴は何度も会議にかけた。実際に現地に行って見ていないものの、強いる労働の重さや待遇の悪さは都まで噂が流れてくるほどだし、城内でも囁かれているのを昴は実際耳にしていた。

 軍を撤退させろとまではいわないから――と、なんとか説得させようとして、全ては無駄に終わった。いつもなら昴を擁護して庇う嘉瀬村が、沈黙を貫いたのだ。それで昴の議案が叶うはずもなかった。

 ――なのにどうして……。

 どうして今更、碧の土地から軍を引くなどと支離滅裂なことを言うのだろう。嘉瀬村には碧の地を維持したいという気がないのだろうか。

「兵を引くとは……一体どう解釈すればよいのかわたしには――」

「文字通り、碧を抑えている軍を紅に呼び戻せ、という意味だが?」

「かの地を捨てるのでございますか!?」

 軍官が、失神するのではないかというほど顔を白くして声をあげた。

「我らが策に策を練り、崩した大国ですぞ!?かの地には夜叉も出ず、田畑も来る年緑で潤う。これほど我が国の利益になる土地は他にありませぬ!」

「儂はあんな土地に興味はない」

「柳瀬王!」

「策を練りに練っただと?笑わせるな」

 突然、嘉瀬村の声が恐ろしく冷たいものに変わった。それに合わせるかのように、場の空気が冷え冷えとした無音になり、官のほとんどが息を殺す。――これこそがこの国の本来の姿なのだ、と昴は思わず顔を背けた。誰も王に逆らうことが出来ない独裁政。一人の人間に握られている百万の民の命。

「そちの軍が叩いたのは都のみであろう。相手に気付かれず克羅に忍び込めたのも、運が良かっただけのこと。そなたらも忘れたわけではあるまい。夜叉が我等に味方したことを」

 ――え?

 あまりに見解を越す言葉に、昴は呆然と振り返った。

「夜叉が味方……?一体なんのこと――」

「ああ、紅蘇は知らんのだったな」

 嘉瀬村は優しく言った。

「さきの戦で夜叉は碧の軍のみを蹴散らした」

 低い音色が昴の中に滑り込む。

「誰が頼んだわけでもない。だが奴らは我が紅南国兵が集まる場所ではなく、ことごとく碧の兵の集まる地に現れ、破壊の限りを尽くし、軍を壊滅させた。理由がなんであれ、夜叉は碧を嫌い、紅を好んだ。おかげで碧の兵二十万のうち七割が勝手に散ってくれた」

 おもしろいだろう、と嘉瀬村は薄ら笑う。

「しょせん碧などその程度の国だったのだ。善の神?笑わせてくれる。その神の末裔の治めたかの国は、一夜にして壊滅したのだぞ?それが残した土地になんの興味がある。のう大臣」

 突然振られた大臣は、ハッとするなり勢いよく頭を振った。とにかく嘉瀬村に逆らわないよう、機嫌を損ねないようにしているらしく、顎髭が頭の動きに合わせて揺れていた。

 それに満足したのか、嘉瀬村は立ち上がる。

「克羅の娘率いる若造の軍団が集まったところで痛くも痒くもない。碧を取り戻したいというならくれてやろう。その後でこちらを攻めてきたところで、もはや時は遅い」

 嘉瀬村は奥へと下がって行った。それを引き止められる者がこの国に存在するはずもない。――緊急の会議は終了した。

 ひとり、またひとりと、まるで砂の山が少しずつ崩れて無くなっていくように、その場から人が消えて行く。嘉瀬村はまるで相手にしていなかったが、世界にある四つの国のうち一つは国土を持たないといえど、三国が連合して攻めてくるのだ。その脅威と嘉瀬村の命令の内容を考えてだろう、中の間から出ていく官は頭を抱えていたり蒼白になったりしていた。

 昴はそんな官のひとりひとりを無表情で見ていた。いや、瞳に映していた、と言うべきか。

 夜叉が碧の国を滅ぼしたという事実と、戦が始まるという真実、そしてその相手がかの少女だという現実。

 ――どうしてこんなことに。

 あまりのことに、ここが嘉瀬村の私室であり、警戒を怠ってはいけない場所だということも忘れ、まるで何かの抜け殻になったかのように力無く膝をついた。今刺客に攻撃されたら確実に死ぬ、ということにすら気付けない。

 克羅の都を滅ぼしたのは確かに紅南国の兵だと藍は言っていた。藍自身殺されそうになったとも言っていたし、昴が朱雀城に戻って来てから真っ先に見た軍の資料を見ても疑いようはなかった。だがそれ以外の、野や街道、国境などに配置されていたであろう碧の兵は、ことごとく夜叉に潰された――嘉瀬村は確かにそう言った。

 ――あいつは本当に月の神子の甦りなのかもしれない。

 太古、善の神は夜叉を滅ぼす為に月華を振るっていという。そして昴は月の神子が甦ることと、それが藍であるかもしれないことを白西国で知った。

 ――夜叉は特定の者を狙わない。

 紅南国の都というこの上ない庇護を受けたおめでたい官達は、夜叉が碧を狙ったということを事実として受け入れているのかもしれない。だが、三年間諸国を旅して来た昴は、それがこの世でもっともありえないことであると知っている。夜叉は悪が具現化したものだ。近くに人の存在を認めれば、まずそれに手をかける。

 ――だがもし、例外があるとすれば……。

「鬼神が命じたから夜叉は碧を捻りつぶしたのさ」

 少年らしい高い声が昴の背後からかかった。聞き覚えのあるなつかしい声。しかし昴が聞くことは決してあるはずのない声。

「あんたはそんなことも知らないわけ?」

 昴は勢いよく振り返った。信じられなかった。昴が城を出るよりも昔――まだ幼子だった昔によく一緒にいて、ある時以来会うことすら叶わなくなった相手。もう十年以上経つはずなのに、昴はこの声を覚えていた。

「紅躅……」

「あれ。意外だなあ。やっぱり分かるもんなのかな」

 柱に寄り掛かり、腕を組んでこちらを見ているのは、他でもない昴の異母兄弟である、紅躅宏夜だった。

 笑顔一つない表情は、昔に比べて随分ほっそりと引き締まったように思う。小さな身体も今や当時の二倍以上に伸び、肉付きも雰囲気も随分おとなびていた。兄弟だというのに昴に全く似ていない薄黒い瞳と髪。その色は父親譲りのものだ。

「どうして――」

「気付かなかったの?僕、今日の会議に出てたし、あんたを待ってさっきからずっとここにいるんだけど」

「俺を待つ?」

 とっさに、昴は腰元に剣があるのを確かめ、辺りに気を配った。

「そんな構えないでよ。十一年ぶり……えーっと十二年ぶりかな?とにかく久しぶりの再会なんだから。そんなピリピリしてて疲れない?」

 しかし、昴の警戒を宏夜はばかばかしいとばかりに一瞥した。

「別にあんたの命なんか欲しくないし。それにこんな場所で斬ろうってほど僕も莫迦じゃないよ」

「だがお前は以前俺に刺客を送った」

「ああ、あれ」

 ふう――、と溜息をつき、宏夜は面倒極まりないといった様子でやれやれと首を振る。

「あれを送ったのは母上。僕の莫迦なお母様。あんたが父上のお気に入りだって知ってて、わざわざこれみよがしにこの僕が殺そうとすると思う?まあ、いずれあんたを殺そうとは思ってるのは事実なんだけどね」

 まるでそれが究極の幸福であるかのようなぞっとする笑みを、一瞬宏夜は浮かべた。

 だが確かに、今この場に人の気配はない。宏夜からも殺気は感じられないし、王の宮内で現王長子を殺すほど間抜けな真似は、いくら次期王位を争う相手といえどしないだろう。昴はゆっくりと立ち上がった。

「殺しではないとすると、何が目的だ?」

「話したいんだよ」

 昴は露骨に顔をしかめた。

「話したいだと?お前が?」

「そう。僕が」

「どうして俺と?」

「あんたは父上のお気に入りだからさ」

 言うと宏夜はくるりと踵を返した。

「ここじゃ目立つからさ、あんたの宮に行く。今蘇芳に妃はいないし、人の出入りも少ないから僕が行ってもばれない。蘇芳の宮に僕の部下が入れるわけないんだから、あんたが殺される心配もない。安心でしょ?」

 すたすたと先を行きはじめた宏夜の背中を、昴はじっと見つめた。

 ――どうして突然……。

 これまで同じ城内にいながら、全く干渉せずにいた、紅蘇と紅躅。それが今、どういう理由でかは分からないが、二人でこっそりと話をすることになっている。異例の事態が起きているのは確かだ。

 目の前の少年が随分昔の記憶と重なった。


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