誓い
初夏である祝融の雨月に入った今日、藍は薄暗い天幕の中でじっと息を殺していた。外はがやがやと人々の声が響き、それに語りかける隆生の声は殊更その中で弾けている。
「大丈夫ですか?」
傍らの剛山が気遣って尋ねる。藍はそれに首を縦に振って答えた。
「思っていたより民は落ち着いているようです」
「そうみたいだな」
少しだけ息苦しさを覚えて藍は顔を伏せた。いつもと違う服装のせいではない――と思う。今藍が着ているのは袍ではなく、かといって一衣服でもない、れっきとした巫女服だった。豪奢な飾りも簪も首飾りもない。むしろ質素の類に入るその服装がしかし、藍にしか着れないものであるのは誰の目にも明らかなはずだ。まとう色は深い青。帯びている剣は碧の国宝重月華。死んだとされる碧の宝である少女の確かな証は、今現在藍が握っているのだ。
「穏便に事が運ぶといいんだがなあ」
まるで他人事のように息を吐き、呑気に茶菓子なんぞを口にほうり込んでいる祈真の恰好も、やはり普段と違っている。
彼本来の大司空としての姿。雪のように白く飾り気のない実戦を重視したその鎧は、藍の目に少しばかり眩しく映っていた。
「祈真、あんた少しは緊張ってものを知りなさいよ」
そして遥世もまた普段着ている簡素な女官服ではなく、橘王の証である小さな冠と大きな緑色の翡翠で出来た首飾りを胸に、長く美しい絹の衣を纏った姿で、天幕の中で座っていた。藍に言わせれば彼女にも緊張という言葉が足りないと思う。形こそ座ったままで渋い表情をしているが、さっきから何度も欠伸を噛み殺しているし、瞳がとろんとしていて、今にも此処より心地良い世界に旅立ってしまいそうな、そんな様子だった。
「遥世……本当に良いのか?」
遥世は今日、彼女自身が緑北国の王であることを明かす。藍が民の前に姿を表すと決めた日に、
「じゃあ私もそうするわ」
と、何の頓着もなく平然と言った遥世は、それをそのまま今日という当日に確かに実行に移そうとしていた。
「へーきよ。どうせそろそろ姿見せなきゃいけない頃合だったし、官吏の整備も大分済んでるし、丁度いいの」
ひらひらと手を振りながら再び欠伸をする遥世の横顔を見て、藍は笑いかける。
「ありがとう」
「いやあね。なんで藍がお礼なんか言うのよ。礼を言わなきゃいけないのはこっちなんだから。機会を作ってくれて助かってるのよ」
「終わったようです」
藍の傍らに控えていた剛山が立ち上がった。と同時に天幕に男が一人入ってくる――隆生だ。
「概要はなんとなく話しました。皆興奮してたんで、ちゃんと聞いてたかどうかはわかりませんけどね」
「数はどれぐらいになる?」
剛山の問いに隆生は肩を竦める。
「多分橘にいる碧の民は一人残らずここに集まってますよ。それに緑北国の民もいると思いますし……」
「よーするにうじゃうじゃいるってこったろ」
鎧の重さを感じさせぬ軽やかな動きで祈真は立ち上がった。
「紅の伏兵がいるって可能性もあるな。剛山、藍を守る自信の程は?」
「……愚問だ」
「そりゃそうか」
憮然とした剛山の肩をすれ違い様に叩き、けらけらと笑いながら、祈真は天幕から出ていく。
「行きましょう、藍」
続いて遥世が、隆生が、そして剛山が。外に響いていたざわめきが大きくなり、それが天幕の布を通して藍の耳に入ってくる。
――とうとうここまで来た……。
紅南国王に――いや、夜叉である鬼神に祖国を滅ぼされてから、もうすぐ一年になる。鬼神と敵対する藍が、悪を滅ぼす唯一の武器が己であると悟って表に登場したその瞬間、世界は二つに分かれ、そこからこの世界の存続と善悪どちらかの抹殺をかけた戦いが始まるのだ。
目の前の天幕の入口を藍は静かに見つめた。風にゆらめく、あっけないほど軽く脆い内と外の境界。しかしこの隔たりは藍にとって、この世界を二つに分ける山脈以上に大きいものなのだ。
「北に在りしは淡麗なる八重の木々、深き緑に覆われし大地は麗しを表す――」
随分唱えていなかった祝詞が自然とこぼれる。ばかばかしいと思った言葉の羅列。なのにどうして突然、口を次いで出てきたのだろう。
「南に在りしは赤き陽の光、熱く強き刃は守護信念の要。東に在りしは清き水の流れ、青の光を放ちし月を称し、輝くは運命なり」
――そうか。
気付いて藍は納得した。この祝詞は祝詞ではなかったのだ。
「西に在りしは智恵の矢。色なき空を裂きて行くは白き尊い教えなり」
ずっと昔から分かっていた事柄。太古より決められていた真実。伝えられるべきこの言葉は、巫女の祝詞ととして形を何度も変え、生き続けたのだろう。だが、根本は何も変わっていない。
「そこまで分かっていながら、どうして貴女は私という形で再来したのですか」
問いに答える者は誰もいない。藍は息を大きく吸い、毅然と顔を上げて表へと繰り出した。
剛山と隆生、二人を連れて一度橘の屋敷に戻り、遥世と祈真に引き合わせてから全てを話した。藍の旅、仁多王との謁見。分かった真実。そして、鬼神と嘉瀬村、藍と月の神子の関係。二人は黙って聞いていたが、話し終わるなり深く息を吐いた。
「では、どうしても戦わなければならんのですね……鬼神と月の神子、嘉瀬村と藍様、紅と碧は……」
疲れたような剛山の言葉に、藍はこう言ったのを覚えている。
「紅と碧ではなく、人と夜叉の戦いだ」
自分が世間知らずのおめでたいやつだということは分かっていたが、藍の敵は鬼神、嘉瀬村だけであって、紅という国に対してなにかを思うことはなかったし、紅の民と殺しあいたくなかった。むしろ、世界の真実を知れば、こちら側に付いてくれるのではないかとさえ思っていた。そして、今もそう思う。
天幕から外に出て藍は目に映る全ての人の表情を見た。言葉をなくして見る者、指差して叫ぶ者、顔を掌で覆う者、涙を流す者、怒っている者、疑いの表情を向ける者――それぞれの反応が、それぞれの思いの表れだった。
――昴ならなんて言うだろう。
心に湧いた疑問を胸に、藍は用意された壇上に立つ。天幕の張ってある場所は小高い丘のようになっている為、自然藍は皆に見上げられる形になっていた。
――喜んでくれるだろうか。
ここまで来る事が出来た藍を。例え彼の父親を殺すことになるとしても、それが昴の愛する民の為でもあることを知ったら、昴は藍をあの時のまま見つめてくれるのだろうか。
「私は嘘が嫌いだった」
ざわりと人々が揺れた後、一瞬でその場に恐ろしいぐらいの沈黙が走る。こんなにたくさんの人がいて、その声が人の群の端まで聞こえているはずがないのに、その人々までもが息を殺している。
「だが、私は沢山のことを偽ってそなた達に接してきた。だから碧は滅んでしまったのだと今なら分かる。 そのせいで家族や友を亡くした者がいることも知っている」
ざわざわと再び人々が揺れる。隣にいる剛山が藍を凝視しているのを、鋭い視線で感じた。
「……すまなかった」
藍は頭を下げた。
ずっと謝りたいと思っていた。謝って済む問題ではないと分かっても、謝罪の言葉を口にしたかった。
混乱しないよう、藍が知るはずもない「良い」戦況を伝えることで民を無駄に安心させ、そのせいで何人の人が命を落としたのかさえ藍は知らない。
あの頃、藍は弱かった。自分に謙虚すぎて、本当に大切だと思うことを成す勇気がなかった。もしもあの頃から今みたいに傲慢になっていれば、まだ助かった命があったかもしれない。莫迦正直に、都が危ないから――碧の軍は壊滅状態にあるから国は滅ぶかもしれない、と伝えていれば、皆都から逃げ、結果として死者の数は減っていたかもしれないのだ。
「ふざけるな!」
突然声が上がって、藍を含む皆がそちらを見た。
男が一人震えていた。
「俺は長を信じてたから……克羅の一族を信じてたから、妻子を都に残して軍に入ったんだ!それが……すまないだって……?」
乗り出して来た男を、緑北国の守備兵が取り押さえる。しかし、男はもがくことを止めなかった。
「都にいたんだ!一番安全な場所にいたんだ!なのになんであんただけが生き残って、妻と子が死ななきゃならなかったんだ!」
「このっ……ひかえろ!克羅の姫君の御前だぞ!」
「いい」
藍は壇上から下り、剣を抜いた兵を手で制すと、男の方へと向かう。
「藍!」
背後から引き止める者があって、藍は振り向いた。遥世が藍の腕を引き、首を降っている。
「だめよ。危ないわ」
「大丈夫。謝罪はただの言葉じゃなくて、本当の気持ちだから」
藍は遥世を見つめた。
何も臆することはない。だから好きなようにさせてほしい。
しばらくお互いに見つめあって、ついに遥世が弱々しく力を抜いた。絶対行かせたくないのに、藍が言うことを聞かないのが分かっている――そんな様子だった。もちろん、藍はそのつもりだったけれど。
「ありがとう。大丈夫だよ」
そっと声を藍は遥世の腕を解いた。がっちりと掴んでくれるその優しさが嬉しかった。
振り返った瞬間、男と視線が合う。凄まじい怒りの形相の中に交じる、悲しみの色。
彼が恨んでいるのは藍だけじゃない、とその瞳を見て藍は気付いた。以前の藍と同じ、愛しい者を守ることが出来なかった自分への悔恨と、行き場のない深い怒り。
腕を背で縛られ押さえ付けられて身動きの取れない男の側に寄り、藍は膝を折る。まさか躊躇いなく近付かれるとは思いもよらなかったのか、怯んでいる男は無言のまま藍を凝視していた。
「私も以前同じことを思った」
父母、喬や琴音が死んだのは嘉瀬村のせいであり、自分のせいであると。
彼等の優しさと愛を忘れ、己の悲しみだけを見ていたあの頃、藍は何も知らなかった。ただ願っていたのは、嘉瀬村の死と己の身の消滅のみ。
「殺したいのなら殺せばいい」
どよめきが辺りを包んだ。正気の沙汰とは思えぬ発言に、周りにいてそれを耳にした民も男も、緑北国の兵さえも、信じられないといった様子で藍を見つめている。
「藍姫!なんてこと言うんですか!」
ふいに隆生が飛び出して来て大声をあげた。
見てみると、彼も剛山も遥世も、心配そうに、あるいは藍の発言に理解を示せぬ表情でこちらを見ている。祈真だけは、やれやれといった様子で苦笑していた。やはり身近な付き合いが長いだけ、藍の言わんとすることが分かるのだろう。
「一国の主となろう方が何てことを――」
「一国の主が一国の民の信を得ずして成り立つと思うか」
「しかし……」
「太古より、克羅の一族は民を蔑んだことがあったか」
「……ありません」
強い口調に、隆生はうつむいて言う。藍よりもずっと大きな体を持つ彼は、完全に藍の覇気に負けていた。
「そう。だから碧は美しい国だったんだ。平和で優しく、そして強い国だった」
「強い?」
はっ、と男がせせら笑うのが分かって、皆がそちらに注目した。我を取り戻したのか、面には嘲笑を浮かべ、藍を見ている。その様子が過去の自分とあまりにも重なって見え、思わず顔を背けた。
しかしその行動を、男は藍が弱みを突かれてこその行動だと思ったらしく、ますます声を張り上げた。
「戦が始まってからたった一月近くで滅んだ国が、強いだって?」
「……強かった。どの国にもひけを取らなかった」
「ならばなぜ紅に滅ぼされたんだ!」
「紅じゃない」
藍はゆっくりと立ち上がる。
「鬼神だ」
「は……?」
「夜叉を造り出すこの世界で最も邪悪な存在、鬼神に碧は滅ぼされたんだ。だから……」
藍は振り向き様に言う。
「私を殺すなら全てが終わった後にしてほしい。私にはやらなければならないことがある」
この者の力になれれば良い。
そう心で呟きながら、藍は再び壇上に戻る。
男と藍は似ている。だからきっと、導いてくれる人が現れれば、この者も自分自身の生きたいように生きられるはずだ。その導く者に、藍がなれれば良いと思う。かつて藍にとっての昴がそうであったように。
「嘘はもう言わない」
再び壇上に上った藍は、声を張り上げ腰元から月華を引き抜いた。碧玉と銀の刃が日の光に反射して、美しく輝く。もうすっかり手に馴染んだそれは、この場では藍が藍である為の象徴になる。
――碧の国を取り戻せれば良いと思ってた。
父母らは藍に幸せになってほしかった。だから藍は幸せになる。民が幸せになってくれれば、それで藍も父も母も皆の願いは叶う。
――だけど、それだけじゃ駄目なんだ。
鬼神を倒さねば。この世界から夜叉の存在を永久に消さねば。禍の世を終わらせなければ。それで初めて民に幸福が訪れることを、藍は知っている。
左手で掴み、藍はそれを月華に当てがい、力を込めた。
誰が止める間もなかった。
重たかった頭が急激に軽くなり、ぱらぱらと自分のうなじにかかる。ざっくりと切り離され、束ねられたままの状態で切られた、青みを帯びる美しい髪は、藍の左手に収まっていた。
「それをここに誓う。だからこれから話すことを、どうか真実として受け止めてほしい」
短くなった髪の先が頬に触れて、くすぐったかった。
風は優しくそよぎ、耳元で心地良い音色を奏でる。陽の光は優しく包み込み、空はどこまでも高く広く傍にある。
藍という一人の人間が存在するこの世界に。
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