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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第5章 〜双光輝く玉〜
44/63

内将

 橘の都には結界が張られているのだという。

 鬼神が藍の存在に気付いているのなら、橘に藍を置いておけば、夜叉の群れが都を襲うのではないかと祈真は懸念したが、遥世は首を振った。古来の橘王兼術師が張った巨大なそれは、人の気配を隠すものだという。対夜叉に対してのみ有効らしく、そのおかげで都内に夜叉が入って来たことは、緑北国史上結界が構成された後はないらしい。

 三人の会話が再び始まったのは、その日の夕刻だった。遥世も隠れての責務が忙しくこちらばかりに気を構っていられないし、何より藍も祈真も部屋で大爆睡してしまったのだ。

 あまり疲れていたわけでもなかったが、緑北国まで来る二人旅で、祈真と藍は一日おきに火の番と見張りを行っていた。なかなか眠れなかったのが祟ったのだろう。気が付いたら食事も取らないうちに日が暮れてしまっていた。

 遥世の影である「橘王」と、官に怪しまれない為に食事を共に取り、談笑し終えたところで、三人は再び屋敷奥の小部屋に篭った。

 遥世の張る結界のせいか、夜で松明がないにも関わらず、部屋の中でもお互いの表情も良く見ることが出来る程明るかった。

「それで、遥世の言ってた口伝と話だが」

 年長の祈真から、早速話題を切り出す。遥世も藍も先程と様子は対して変わっていない。おそらく心情は隠しているのだろう。祈真でさえそうだ。

「遥世の方から何か言うことはもうないか?」

「一つだけ。碧と紅の最後の戦の時のことよ」

 藍の表情は動かない。

「碧は紅に負けたわよね。あんなに沢山の兵を率いて国長自ら戦場に赴いたのに」

「ああ」

「どうしてだかわかる?」

「……碧の兵が弱かったから?」

 藍は唸るように言った。太古から続く大国の最後にしては、あまりに簡単に滅びてしまったことを、恥じている部分もあるだろう。祈真もその報せを聞いた時、驚いたと同時に、最も高尚とされる碧の国といえど所詮はこんなものか、と少々呆れてしまったのも事実だ。

「藍は自分の国の兵がそんなに弱いと思うの?」

 その言葉に、祈真は思わず顔をしかめた。

「貴女の特殊な力で何かを感じなかった?」

 藍は考え眉をひそめたが、突然ハッとすると、遥世を見る。

「嘉瀬村が鬼神で……じゃあ……」

「そうよ。貴女の国の都を滅ぼしたのは、確かに紅南国兵でしょう。けれど各地での戦で、碧が相手にしていたのは、全体の約半分が鬼神としての嘉瀬村の手下だったのよ。橘にいる碧の難民の中に生き残った兵がいて、彼等から聞いたわ」

「そんな……碧は――」

「夜叉に滅ぼされたということになるわね」

 祈真は口を出さなかった。

 二人の会話から大筋は予測出来た。碧と紅、二つが各地で戦っていた時の、紅の軍の半分が実は夜叉だったのだ。嘉瀬村としての鬼神がひそかに夜叉の群れを放っていたのだろう。紅南国の官や民が見えないところで、碧を少しずつしかし確実に削り取っていたのだ。

 そして藍は、その大量に国内に入り込んでいた夜叉の存在に気が付いた。しかし当時彼女は夜叉と嘉瀬村の関連性を知らなかったし、知っていたとしても大量の夜叉相手に何が出来たのか、考えるまでもなく分かる。

 夜叉によって滅ぼされていく世界が、今現在あるこの世だ。遥世が言っていた「時間がない」というのも頷ける。碧の次に狙われるのは白か緑。そこまで荒廃を広めるわけにはいかない。

「嘉瀬村が鬼神であることは間違いないっつーことだな」

「ええ」

「よし。憶測でない分こっちも躊躇しなくてすむ」

 呆然と我を忘れている藍を、祈真は見た。

「藍、放心してる場合じゃない。今から都に出るんだから」

「え?」

「は?」

 遥世と藍がほとんど同時に意味を成さない言葉をあげる。

「都に出る。そして絶対に信頼できるお前の部下を拾って来るんだ。――碧の民の集まる都の一角に行って運が良ければ、四将の生き残りぐらいの拾いものは出来るかもしれねーぜ」

 時間がない。鬼神に藍がここにいることが悟られるのも、碧の国を復活させるという計画がばれるのも時間の問題だろう。

 ならば少しでも早く動かなければならない。

 白西国の軍はいつでも戦える状態にあるし、祈真と藍が橘へと旅する二月の間に、莢生は軍をひそかに南城と東城に分けているはずだ。あとはこちらから報せを入れれば、紅南国の北西部で戦は始まる。

 しかし、主体となる碧の民は全く動く準備も出来ていないし、これから戦が起こることさえ知らない。嘉瀬村が鬼神であることも伝えなければならないし、何より最後の克羅の娘が生きているという事実を、分からせてやらなければならない。

「……白西国への嘉瀬村と鬼神の関係についての文を、任せてもかまわないか?」

 藍もそれを承知しているようだった。祈真を今までのような友人としての表情で見つめるのではなく、一国の姫と――長として、大司空である祈真を見据える。

「ああ。遥世、お前は……」

「緑軍の準備と、碧の兵の物資を急いで整えるわ」

「……ご助力願えますか?」

 藍は遥世に向き直って丁寧に問う。遥世は真摯な瞳を向ける藍をじっと見ていたが、やがてふと微笑むと、藍の手を取った。

「助力も何も、これはこの世界の存続に関わる問題なのですから、我が国が戦に加わるのは当然です。それに克羅の姫……いえ、碧の国長殿。私の先祖は元は貴女方の部下だったのですよ。どうして力をお貸ししない理由がありましょうか」

 なんだかちぐはぐなやり取りに祈真には見えたが、確かに、緑北国は碧の国に割譲されて出来た国で、治めるよう言われた人物は、遥世の祖先に当たるのだ。もしかしたら、藍と遥世は主と部下としてどこかで接していたのかもしれなかったわけで。

 ――不思議だな。

 人はきっと、自分の意識しないところで繋がっているのだろう。誰とも関係しない者など存在しないし、どんな小さなことでもそれはとても尊いものであり、大切にしていかなければならないものなのだ。

「目安はひと月」

 祈真は言う。

「藍は碧の民に、遥世は官に、俺は莢生に。嘉瀬村と鬼神の関係と、藍が月の神子の再来であるらしいこと、それから、始まる戦のことを伝えるんだ。手が開けば俺も藍の方を手伝いに行く。……いいな?」

 ややあって藍と遥世は微かに、しかし確かに頷いた。

 全てが始まろうとしていた。


    


 隆生は空を見上げた。

 月が綺麗な夜だった。黄金色の淡い光が揺れ、松明以上に明るい世界を、この地上に作っている。先日、勾芳こうぼうの訪れを告げた都の桜は既に散り始め、空を舞っていた。月の光を反射するその様子が郷愁を誘った。

 橘に難民として入ってから、もう二月になる。武器商人として紅南国との戦で出来るかぎりのことをするつもりだったのに、気がつけば隆生の所属していた軍は周りを夜叉に取り囲まれており、命からがら逃げ出すのが精一杯だった。

 紅南国と戦って死ぬなら本望だと思っていた。

 だが、行く先で出て来たのは夜叉。こんな所で死ねないと逃げ出せば、待っていた現実は克羅陥落。瀬那様と喬守将と藍姫死の報。そして長、芝韋の崩御。

 あまりのことに隆生だけでなく、逃げおおせた周りの者達も上手く対応出来ないようだった。中でも、自分の所属した軍を率いていた碧の国四将の一人、内将剛山の衝撃は誰よりも大きかったようでーー。

 結局、逃げる他なかった数十人は、国が接している緑北国を目指して旅を続けた。進むにつれて、同じく逃げ出す民らに出くわし、人数の規模を増やしながら、ただひたすら北を目指した。

 誰もが口を揃えて言ったのは、こんなのはおかしいという怒りだった。長は民から兵を募ってまで軍の規模を大きくし、紅南国と互角に戦えるように計らったのに、こんな短期間にしかも大半を夜叉に潰されるなんて、何か変だ――と。

 実際隆生も疑問に思っていた。なぜ夜叉は碧の兵ばかりを狙っていたのか。聞けば、夜叉が出た場所には絶対に紅南国の兵はいなかったという。まるで紅南国と夜叉が組んでいるようではないか、とありもしない考えが浮かび、その度、自分を嘲笑った。ありえない莫迦げた考えが浮かぶのは、今の状況をよほど憎んでいるという証拠だった。しかしある日、そんな沈んだ気分を吹き飛ばす吉報が、北へ向かう人々の間を駆け巡った。

 藍姫は生きている、というのだ。

 克羅の都で市が起つ度、自分の所に来ては、良い武器はないか、と問うていた少女。新年の祭の際にある彼女の舞が、隆生は好きだった。小さな愛い(うい)少女がふわりと衣を翻す様子は、おそらく自分だけでなく、誰もが愛していたことだろう。噂は碧の人々の唯一の光となり、希望が生まれた。

 しかし、その光も一時のものだった。噂が流れて一月経っても、二月経っても藍姫は現れなかったのだ。

 九ヶ月経った今ではもう、誰もそんな噂を信じていない。実際に見た、と言った者達が何人かいたようだが、所詮偽者にでも出くわしたのだろう。

 月はいよいよ高く登り、かなり遠くまで見渡せるくらい地上は明るくなっていた。路の片隅で空を見上げるなどという風流なことをやっているのは自分くらいで、数十万いる碧の民は皆、即席の小屋の中で眠りについているはずだ。

「これからどうなんだよ……」

 もう何度この言葉を呟いたことか。橘王は、国交もなかった碧の民である自分達によくしてくれていると思う。多くの難民がなだれこんでがいるにも関わらず、食も場所も提供してくれた。

 だからといって腹いっぱいになるまで食べれるわけじゃない。碧にいた頃は、毎日三度の食事にありつけた。空腹を常に我慢することもなかった。

 ヒタ――。

 ふと、足音が聞こえて隆生は顔をあげた。

 こんな時間に一体何者だろう。この辺一体で、盗みが発生していないこともないし、何度か殺し合いもあった。紅南国の兵が紛れ込んでいるとかいないとかでももめているし、皆気が起っているせいで最近は物騒なのだ。

 例によって、隆生も忍ばせていた剣の柄に手を当てた。ヒタヒタという軽い足音は段々と近付いてきて、ふと隆生座る場所から数十歩先で止まった。

 ――小柄なやつだ……。

 大きめの布を身体に巻き、表情をうかがわれないようにか、かぶりものを深く被っている。身体の線から女のようにも見えるが、だからといって油断は出来ない。

「なんか用か」

 こちらを伺っていることは目に見えて分かっていたので、隆生は聞いた。自然、声は唸るような低いものになったが、相手はそれを全く解した様子もない。

「隆生……?」

 名を呼ばれて、隆生は盛大に顔をしかめた。

 女の声だ。それもまだ相当若い。自分の名前を呼び捨てにすることを許している女は、そう多くないし、確かに聞き覚えのある声だが、警戒心の方が勝っていた。

「お前、誰だ?」

 女は近寄ってくる。隆生は座ったまま、右手だけを太刀にのばした。自分の目の前で膝をつき、深く被った布をあげたその下には――。

「あ……」

「やはり隆生か。……生きててくれたのか」

 白い肌と、薄い唇と。月の光に反射して輝く髪は深い青を映し、黒真珠の瞳はじっとこちらを見つめる。 見違えるはずもない。目の前に居る少女は――。

「藍姫……?」

 おそらくは呆然と、間抜け面を向けているであろう隆生を、少女は微笑んで見ていた。安心してほしいと思っているのか、単に彼女自身が嬉しいだけなのかは分からないが、驚きで思考が満たされている自分にとってその笑みは、ひどく優しいものだった。

「頼むから大声を出さないでくれよ?紅南国に私の存在が伝えられたら困る」

「で……でも……藍……」

「喬と。もしくは琴音と。逃げ続けた間ずっとこの名を使っていたんだ」

「逃げ続けた……」

「うん。白西国までね」

 軽く言う藍に、隆生は目を見開いた。白西国に行く為には、世界を二つに分ける巨大な山脈を渡らねばならない。国を失ったばかりの姫が、一体何のためにそんなことをしていたのだろうか。

「そなたたち民には苦労をかけた。だがもう大丈夫。……隆生。突然で悪いんだが聞きたいことがあるんだ」

「は、はい」

「四将の何れかの生存状況を知らないか?」

 再会の喜びもそこそこに、表情を改めて言う藍に隆生はハッとした。藍は頷く。

「皮肉な話だが、白、緑、紅の国の情報は多く知っているのに、今の碧の民に関する情報がないに等しい。国の姫として情けないことは承知している。弁解する余地もないだろう。だから直のこと早く事態を収拾しなければと思っている」

 ――何かを始める気なのか……。

 ふと、これまでの――祖国を失ってからの絶望に満ちた日々が、隆生の脳裏を過ぎった。

 忘れもしない。両親や妻を都に残して戦に赴き、その先で友をも失った、あの時の殺戮。これまで各国から尊敬を集めていた碧という自分の祖国が、太古から続く矜持ばかりを頼りに生き延びて来た弱国だということを、思い知らされたような気がしてならなかった。

 緑北国に来ることが出来たのは幸運だったと思う。だからといって、今なお行方の知れない家族や旧友がここに現れてくれるわけでもないし、隆生の将来が安全なものであると保証されているわけでもない。

「……俺達はどうなるんです」

 克羅が憎いとは言わない。だが、もっと事の重大さを見抜いて欲しかった。藍姫に到っては、もっと早く民の前に現れてくれていれば、橘の都にいる碧の民が絶望に苛まれることはなかっただろうに。

 口にはしないが不満の多い隆生を、藍は観察するかのようにじっと見つめている。ふと、その双眸に宿る光の強さに気付いて、隆生は驚いた。

「隆生、一つ言っておく」

 最後に会った時、少女はまだ十四歳だった。人柄も威厳も知識も、将来の王になる者に相応しいと誰もが認めていた。

「私は碧を愛している」

 それなのにも関わらず、今目の前に座る少女は以前より遥かに気高く、美しく、圧巻とした空気を兼ね備えていた。

 都にいた頃の藍に、覇気がなかったわけではない。長である芝韋に恥じぬ娘は皆の希望だった。

 だが、それはあくまでも長に次ぐ資質であり、父親という存在に押されて形となっているもの。だから隆生を含めた民は、彼女を優しく見守るだけだった。

「この思いは誰にも負けないつもりだ」

 ――変わった。

 隆生は呆然と少女を見つめた。

 この娘はもはや一国の姫などという小さなものではない。一つ一つの言葉に込められている思いやりも、相手を見つめる瞳に宿る強さも、纏う誠実で優しい空気も、国を束ねていた克羅芝韋と同じだった。いや、むしろそれ以上の――。

「……剛山殿がおります」

 今自分に出来るのは、きっとこの少女を信じるだけなのだろう。

 隆生は自分の所属していた軍将の名を、告げた。


   


 ――剛山が……。

 生きている。

 藍は身体に巻き付けた大きな布で目元まで隠し、目の前を歩く隆生の背中を見ながら、碧の国四将の内将である彼を思い出していた。

 彼は父芝韋にこのうえなく忠実な、信の厚い人だった。だが、父以外には敬語を使わず、父以外の命令は聞かない、藍からしてみれば堅物でやりにくい相手だった。

 だから、藍は彼が幼い頃から苦手だった。藍を見てもちっとも笑わない。話し掛けても返ってくるのは淡泊すぎる返事。剣の稽古まで付けてくれた喬とは全く正反対の存在。

「ここです」

 隆生に続いて藍も足を止めた。目の前に立つ即席の小屋は他のものと変わりない。小さくて寒々しく見える。

「……どうしたんだ?」

 中に入らないで入口で突っ立っている隆生に気付いて、藍は声をかけた。

「入らないのか」

「いや……。ただ随分前から剛山殿は……その」

「誰も寄せ付けない?」

「……はい」

 そうか、と呟いて、藍は声もかけずに入口にかかった布を押しのけ、何も躊躇わずに入った。背後で隆生が息を飲む声が聞こえた。

 中は長年誰もいないかのように閑散としていて、生活感がまるでなかった。小物の一つや二つぐらい置いてあってもいいはずなのに、あったのは――いや、いたのは一人の男だけ。他には何もない。

「……入るのを許可した覚えはない」

 単刀直入かつ単純明快な言葉が、藍に背を向けるその男から発せられた。間違いない。相手を威嚇するような低く鋭い声は、碧の国内将、剛山のものだった。

「出ていけ」

 しその声に以前のような覇気は含まれていなかった。

 彼の全ては態度や言葉の隅々にまで現れる、強く頼れるものだった。彼の信の厚さを尊敬し、信頼を置く部下も多かったし、長である芝韋も、堅物だがあれは頼りになるぞ、と藍に笑って言っていた。

 それが今はどうだろう。誰にでも分かる程卑屈になり、それが空気にまで表れている。隆生に問うまでもなく、こうなったのは父のせいだとすぐに分かった。父を敬愛していた。だから彼が死んで、それ以来剛山は立ち直れないのだろう。

「私に向かってその言葉を吐くか、剛山。随分傲慢になったものだな」

 途端、弾かれたように目の前の男はこちらを振り向いた。無造作に延びた髪と髭が、過去の彼についての藍の記憶を一瞬混乱させたが、その双眸と視線が交わった瞬間、それはすぐに消え、代わりに藍に確信をもたらした。

「巫女……姫?」

「ああ」

「なぜ……」

「隆生に聞いて来た。隆生、入って構わない」

 おずおずと、隆生が外から入って来た。しかし剛山はそれを咎めるどころか気付いた様子もなく、ただ藍ばかりを呆然と眺めている。

「本人……?」

「間違いなくな」

 藍は被っていた布をはぐ。顔と髪がよく見えるようにした。

「喬が命を張って逃がしてくれた。報告がこんなに遅れてすまない」

「生きて……」

「ああ。どうにか」

「……貴女は亡くなったと」

 ようやく頭が回転してきたのか、剛山は片手で顔を覆いながら、呻くように言った。

「だからわたしは……わたしはもう――」

「誤報が飛び交ったんだ。実際私はこうしてここにいる。非があるとしたら私でしかない。……すまなかった」

 藍は剛山の前に膝を付いた。目線の高さを合わせた。

「よく、生きていてくれた」

 本心をありのまま口にし、そしてようやく、藍は自分が安堵しているのを感じた。

 彼が内将だから嬉しいのではなく、彼が剛山だから生きていてくれて嬉しいと思える自分が、確かにいた。

「巫女姫……」

「父が貴方をかっていたことも、貴方が父を敬愛していたことも知っている。――剛山、私と共に一度、橘の屋敷まで来てほしい。隆生もだ」

 二人の男は橘の屋敷と聞いて、呆気に取られた表情を見せた。幼い子供のような表情だった。

「しかし、橘の屋敷といえば橘王の――」

「だから来てほしいんだ。彼女に私の存在は既に知れている」

 戸惑いが隠せない隆生に対し、剛山は突然表情を引き締め、藍を見据えた。

「……まさか貴女は今まで、緑北国からの支援を受ける為、姿を消しておられたのか」

 さすがは四将の一人だな、と藍は心の中で呟き、薄く笑った。

 勝手に行動を起こした藍を詰るか、それとも、国の為によくやってくれたと褒めたたえるか、眉間にきびしい皺を寄せた剛山の今の表情からは、そのどちらの心情なのか見分けはつかない。

「正確に言うと、緑北国だけじゃない」

 だが、剛山の心情がどうであれ、長い目で見れば、そんなものは全く関係ないし、藍に影響を与えない。それは碧の民全てが紅南国と戦うことを拒んでも同じこと。

 誰がなんと言おうと、例え単身となろうと、藍は紅南国に攻め入る。鬼神を斬る。民がそれを望まなかったとしても、藍が望むのだから、誰にも止められるはずがない。それに、遥世も祈真も、既に自国の軍の手筈は整えており、彼等は藍に同意し藍は彼等に同意しているのだから、それだけでもう藍の覚悟は無駄じゃないはずだ。

「白西国にも出向いた。仁多王には共に紅南国を責めることを約束していただいた。既に白軍と西軍はそれぞれ仁多の東城と南城に詰めているらしい。大司空祈真殿も橘におられる」

 剛山は眉一つ動かさない。もともと表情に乏しい男だったが、今は尚更だった。

「碧の国を取り戻す。そしてこの世界のもう一つの真実に決着をつける。だから剛山、私は貴方を尋ねた」

 四将の一人として、藍の行動をどう見るか知りたかったし、協力してほしいのも確かだった。

「……来てくれるか?」

 日の神子や月の神子、鬼神を含むほとんどのことを彼は知らない。

 知らないからこそ、剛山の率直な意見が藍は聞ける。押し寄せる責任や責務といったつまらないものに縛られることなく、内将といった位に背を圧されることもなく。

 交わる視線はどちらのものも強く、互いの覇気をよりいっそう際立たせていた。剛山には以前の強さが、藍には今まで以上の威厳が重なる。――剛山は静かに口を開いた。

「貴女の中での貴女は、もはや姫ではあらせられぬのですね」

 瞬間、藍は気付いた。彼は芝韋に対してしか尊敬を示さない男だった。妃である瀬那どころか、克羅の血を引く藍にまで、偉そうな態度を変えず、敬語も使わず、頭も下げない。

 だが今、剛山は藍を上の者として見ている。威圧せず、かといって押し殺しもせず、自らを臣とし、藍に接している。

『わたしが亡くなったから、藍に仕えようなどという甘い考えを持つ男ではないぞ。剛山は。自分が認めた者にしか仕えないからな』

 父の言葉が今更思い出される。

「そうだな」

 どこか遠くを見るように藍は言った。

「私は既に碧の長になったつもりでいるよ。……とても傲慢だから」

「……」

「それに碧の宝だし。その称号を生まれつきのものだけで終わらせたくない」

「藍様」

 姫という言葉は付かない。

「……従いましょう」

 剛山は頭を下げ平伏した。潔い、以前から藍だけに向けられているような、気持ちの落ち着く礼だった。

「貴女に忠誠を誓います」

 胸に響く言葉を聞き、藍の頬は自然緩んだ。

 きっと、彼は父にもこうした忠誠を誓ったのだろう。それは藍が剛山に認められたということであり、身勝手に白西国と緑北国に助力を求め、此処に戻って来たことを許してくれているということでもあるのだ。

「ありがとう」

 藍は心を込めて言った。これから始まる全てを見届けてくれる人がいることが、心強かった。


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