仮の姿
部屋を出て、春はどんどん宮の奥へと進んで行った。
最初は多々見掛けた役人や侍女も、進むにつれ視界に入らなくなり、人の気配はなくなっていく。反対に、三人分の足音だけが次第に響くようになって朝なのに気味が悪かった。
――橘王は何をするつもりなんだ……?
隣を歩く祈真を見上げてみても、彼はいたって上機嫌のまま口元に薄笑いを浮かべているだけだった。この状況を楽しんでいるのは明らかだ。
静まり返った中で声をかけるのはなんとなく憚られるし、そうするとますます周囲は静まる――その悪循環で、仕方なく藍は黙り込んだまま歩き続けた。そして、ようやく春の足が止まったのは、小部屋の前だった。
「どうぞ」
扉を開け、春は頭を下げた。
窓もない、家具もない、使用意図が全く不明な木目の部屋。真新しい木の香りがするのに、見た目は黒ずんでいて、その矛盾が薄気味悪い。
足の動かない藍とは対称的に、祈真は悠々と部屋に入り、床に胡座をかいた。別段、変わった様子はない。
藍は春を見る――無表情。祈真を見る――にやけ顔。どちらも藍の疑問を解明するのに何の役にもたたないことを悟って、たまらず小さく溜息をついた。仕方なく、ゆっくりと部屋に足を運ぶ。
しめきった部屋であるはずなのに、中は案外涼しかった。空気も澄んでいるし、明かりもないのに周りもよく見渡せる。けれど足を踏み入れたその時、背中が疼くような奇妙な感覚に一瞬縛られ、藍はぎょっとして周りを見たがが何も変わっていなかった。
藍に続いて春も部屋に入って来た。きょろきょろと廊を見回し、誰もいないのを扉をそっと閉め――。
「あんた莫迦じゃないの」
面食らったとはまさにこのこと。
無表情だった春の眉が吊り上がり、唇は逆三日月型に変化した。声色もまさにこれが地だと言わんばかりのものに変わり、その鋭い視線の先には祈真がいる。
「都の宿に泊まるなってあれほど言ったじゃない。騒ぎになるから止めてって」
「その騒ぎを毎回増長させてんのはどちら様でしょーねー」
輿はねーだろ輿は――と付け足す祈真と、つんつんした様子で腕を組む春を、藍は交互に見た。
状況がさっぱり掴めない。祈真と春は知り合いなのだろうか。というか、この険悪な雰囲気は一体――。
「あ、ごめんなさいね」
二人の間でおろおろと口を開いたり閉じたりしていた藍を見て、春が優しく声をかけた。
「この莫迦のせいでちょっと事態がややこしくなっちゃって……。証書なんか出さないで裏から回って来いって言ってるじゃないの!」
「とか言いつつ、しっかり臣下に見せ付けて安全を確保してたじゃねーか」
「どうせ後始末をするなら利用させてもらうに限るわ」
「わざわざ俺がそのために表からお邪魔してやったのに、それがお前の感謝言葉かよ」
「そういうのを大きなお世話っていうのよ。ご存知かしら?」
「あの、ちょっと待ってください」
再び二人の視線が鋭くなり、険悪な空気が再来し始めていたのを、藍は慌てて止めた。
「さっぱり分からない……一体何がどうなって――」
「言っただろ、藍、傾国だって」
「うん。で?」
藍は聞き返す。
祈真は呆れたように藍を見て、春を指差した。
「だから、こいつが傾国。緑北国の王」
一間あってから、藍は自分でも分からない何かを叫んだ。その音量に祈真も春も両手で耳を押さえたが、許容範囲を越えたことを聞いてしまったに藍には、二人に構っている余裕はなかった。
「本当に?だって傾国の美女ってさっきの人のことじゃないのか?」
別に目の前の女が美しくないと言っているわけではない。先程藍に笑いかけてくれた時の表情などは酷く愛らしかったし、気持ちを表に出している今の豊かな表情は、初対面の時より人間味があってずっと好ましく思う。
だが、先程の橘王は――本当に王なのか、祈真の爆弾発言を聞いた今、その真意は定かでないが――言ってしまえばある種の化け物だ。
花も恥じらう月も恥じらう美しさ。まさに美という言葉を証明する為だけに存在しているようなあの人が、王ではないのだろうか。
「傾国の美女?こいつが?ありえねー!」
突然、祈真は大爆笑した。あまりのことに藍は青ざめて絶句。あまりのことに春は赤くなって絶句し、女二人は腹を押さえて笑う祈真から視線を全く離さなかった。
「阿呆か藍!俺は傾国って言っただけで、美女なんてつけた覚えは一度もねーぞ!遥世が美女……ぶぶっ」
「うるさいわね!これでも私は中の上の顔立ちをしてるって自負してるのよ!放っておきなさい!」
――中の上……またえらく際どい位置を自分で……。
豪語して言う台詞ではないと藍は思ったが、もちろんそんなことを口に出して言うほど愚かではなかった。
「じゃあ傾国って……」
「文字通り、国を傾けるって意味さ。大体……」
祈真は腹に力を入れると笑いを無理矢理押さえ付けた。頬がピクリと神経質に動いたが、それ以外はすぐに祈真の意思通り平穏を取り戻した。
「普通の王なら一般の宿まで迎えに来させねーよ。一国の姫と上級役人に橘まで来い言うし、影は堂々と作るし。ここまで好き勝手やってる王もなかなかいねーだろ。だから傾国。まあ取りあえず――」
春はえらく不機嫌な顔をした。しかし祈真はそれを無視し、真面目な表情を見せると、藍に向き直った。
「この女は間違いなく緑北国王、橘遥世だ。取りあえず二人ともかけて、互いの紹介をした方がいい。時間がないんだろ?」
ここまで引っ張りに引っ張った張本人の言うことを素直にきくのは、なんとも癪だったが、藍も春も取りあえず座った。
「橘王なんて人前で呼ばれたら、私、殺されちゃうわ」
という橘王――いや、遥世の言葉で始まった対話に、藍は唖然とした。
先程の美女はあくまでも影人であると同時に、遥世がその時々の対応を命じているから、彼女の言う言葉は確かに王のものだというのだ。
緑北国は今、短い王朝が続いたせいで政の争いが絶えないらしい。幼い頃から何度も命を狙われたし、最近は落ち着いて来ているように見えるが、水面下の熾烈さにはすさまじいものがあるという。
遥世が即位したのは四年前だが、その時から実母に勧められて影人を立てていた。
橘遥世には、陸都と朔矢という二人の弟がいるということを藍は聞いていた。まだ幼い二人と母親は、危険な目に合わせないよう、城から離れた治安の良い場所に住まわせているという。
橘の王族が一人、しかも仕えの者として都に留まっていることに不安はないのか――と尋ねたところ、すかさず祈真が、
「こいつは神経図太いから」
と口を挟んだ。もちろん盛大に睨み付けられていたけれど。
祈真と遥世は随分と互いのことを知っているらしかった。祈真が白西国の使者として二、三年前にやって来て会ったのを機に、個人的な連絡を取り合っていたらしい。もちろん、恋文などという甘いものではなく、正式には公表されていない国内情報や、逆に公表することの出来ない極秘情報などのやり取りという、極めて政治的意味合いが強いものだった。
個々で面識があるので、祈真は何度も橘に訪れているという。その度、裏からこっそりと入って来いって言っているのに、と遥世は苛々しながら言った。
「いちいち表から入って来られると面倒なのよ。準備だってしなきゃいけないし」
「でもあれだろ。いざって時の為にやっぱ表から入っといた方がいいぜ。来てないはずの白西国大司空が、侍女頭でしかないお前と細かいこと話してるの聞かれたら、それこそまずい」
祈真の言葉に、藍は感心した。なんだかんだ言いつつ遥世を気遣っている。
「それにあの影人に会いたいし。ほんっと、美人なんて言葉じゃ片付けらんねーよなあ……」
「勝手に言ってなさい」
ピシャリと言うと、遥世は本日初めて藍の瞳を臆する事なく見つめた。先程までのしずしずとした様子はなく、明らかに感じる強い意志。それが王の気であることに藍は気付いた。自分と年はあまり変わらないはずなのに、それだけで藍と遥世は別の次元にある。
「藍姫……面倒ね、藍でいいかしら?私の方も人目がないときは遥世と呼んでちょうだい。お互い気兼ねしたくないから」
「はい」
「敬語もなし」
「……分かった」
遥世はにっこり笑った。釣られて藍も笑う。決して絶世の美女というわけではないけれど、遥世には人目を引き付ける何かがある。内面の美しさと強さが顔に出ているような、そんな感じだった。
「驚いたでしょ?祈真は私が本物だと話してなかったのね?」
「だって藍に言ったらこいつ、顔に出るし」
「出ない」
ムッとして藍が睨むと、祈真はにやにやと笑った。
「二人並ぶと迫力あるなあ」
「……藍、こんなお莫迦は無視しましょう」
「賛成」
藍と遥世は平然と言った。
おそらく祈真は久しぶりに遥世に会えたことが嬉しいのだろう。始終笑っているし、もしかしたら案外、二人の仲は良好なのかもしれない。手紙のやり取りというのも、互いが嫌いだったら二、三年間も続かないだろう。
「この部屋は安全なんだな?」
藍はもう一度部屋を見渡した。これだけ盛大に声を張り上げている祈真と遥世がいるのに、誰も来る気配がない。案の定、遥世は頷いた。
「結界を張ってあるわ」
「けっ……何?」
聞き慣れない言葉に、藍は問い返す。
「術師の術。音を断って誰も入って来れない呪を施してあるわ。私が術師だってことは?」
「聞いてる。そうか……どうりで変だと思った……」
さっきのあの疼くような感じはこれだったのだ。
――結界か……。
おそらく他にも呪の種類があるのだろう。藍は巫女で、しかも月の神子の生まれ変わりとか何とか言われているくせに、そういったことは全く出来ない。
驚きと尊敬の交じった眼差しで遥世を見つめていると、彼女は苦笑した。
「克羅の姫が貴女で良かった」
え、と藍は聞き返したが、返答はなかった。
代わりに遥世の真剣な表情と、姿勢を直す祈真の衣擦れの音と、沈黙が部屋の空気を変える。膝の上に置かれた藍の拳にも、自然力が入った。
「話すわ」
落ち着いた声だった。
「橘の王の印を……藍、貴女に話す。分かっていると思うけれど、これを話せば、今より重い責任が、貴女にのしかかる」
「……はい」
僅かに声が震えた。それでも遥世は言葉を緩めない。
「貴女が貴女の民の為に橘の口伝を聞きに来たのは分かっているし、確かにこの口伝を聞けば、貴女の民を救う手段の一つになるでしょう。その代わり……分かるわね?」
藍は頷いた。遥世から送られて来た証書の中の文句が頭に浮かんだ。
――ただ事ではない。
滅んだ祖国。百年前から続く禍の世。見たこともない形の夜叉。神の剣を使える――自分。
「覚悟の上だ」
藍には理解できない深い渦に自分は巻き込まれる。だがそれを――疎ましいとは思いたくない。
「なるようになる」
自分の幸せの為なのだから、苦しいとは思わない。この世界に陽が溢れ、風がそよぎ、空と大地というどこまでも続くものが藍の傍にある限り、自分は藍というちっぽけな人間であり、それ以外にはなり得ない。
「……いいのね?」
最後の忠告だった。遥世の瞳は藍を捕らえ、離さなかった。今ならまだ拒否出来る――とその視線で伝えている。
「お願いします」
藍はその視線を振り払った。例え遥世が許してくれても、藍は許さない。
「……分かったわ」
藍の意志を身で感じたのだろう。遥世は瞳を閉じ、深く息を吸った。




