傾国の女王
橘の都は隙間が多い。別段、人が少ないというわけではないのだが、克羅や仁多と比べると、かなり小規模だ。季節のせいもあるだろうが、ここのところ続く混乱で都が上手いように発達していないのが主な理由だろう。それでも、通り行く人々の噂からは、橘遥世王の賢帝振りが聞こえてきた。在位四年にしてその力量を既に発揮しているのだろうか。
大路に面したあまり大きくない宿屋に、馬と荷物を預けた藍と祈真は、同じく通りの小さな店で食事を取った。祈真の言う「いいこと」は二人の会話の中にはなく、代わりに世間話を繰り返した。
空が赤くなるまでたっぷり話し終わると、ようやく二人は店を立った。
新年に入ってから既に五つ目の月に入っているが、北のこの地の風は心なしかまだ肌寒い。強く吹く風に巻いた布が飛んで行かないよう、藍は頭を押さえ付けながら宿に戻った。
「今日はもう休む」
祈真も寒そうに自分の腕を摩りながら、細々と言った。
「異論は?」
「ない」
宿に戻り部屋に入るなり、藍と祈真は二人して床にバッタリ倒れた。
寒い。疲れた。眠たい。
祈真も全く同じことを考えているのは予想できたから、何も言わないでしばらくじっとしていた。
――ここまで長かった……。
碧が滅んだのは夏だった。祝融の風月半ばから三ヵ月間一人で放浪し――昴に会った。一月半共に旅をして、天竜の村でも仁多に着いても、彼は藍に付き合ってくれた。
そして仁多城に着いてから二月半、橘を目指して祈真と旅に出て二月。
――もうすぐ一年経つんだな。
藍の生まれた日の前日、碧の国は終焉を迎えた。だから、あと二月半で碧は滅んでから一年経ち、藍は十六歳になる。
不思議な気持ちがした。この一年は異常に早く過ぎ去り、異常にたくさんのことが起きた。空に瞬く星が一気に消えて真っ暗になった時もあったし、また少しずつ明るさを取り戻して、今では朝焼けが来ようとしている。亡くしたものは大きかったけれど、大切なことに気付けた一年でもあった。
もちろん、時間を巻き戻せるならそうしたい。今の藍なら、父母に思いきりあまえて、自分のことを大切にすると言える。喬にも琴音にも、近衛の者にも馬老にも都の人々にも、愛してくれてありがとうと素直に感謝出来る。彼等が死なずに済むのなら、これ以上のことはない。
ただ、時間を巻き戻せば――昴には会えなかったことになる。乃依も鈴も祈真にも。彼等は藍の大切な人であり、忘れることの出来ない人達だ。関わりを絶つことは出来ない。
結局、生きている者はどうあがいても、死せる者には敵わないのだ。会えるわけでもなく、声を聞き取ることも出来ない。ただ出来るのは、彼等の思いを、生きている者が汲み取るだけ。
それが藍には分かった。生きている自分に出来る唯一のことが、藍には出来る。気付けないまま道を誤ることなく、今こうしていることが嬉しかった。
「……祈真」
深く息を吸って、藍は隣の祈真に声をかける。鞋も脱がないで天井を見上げたままの自分が、ぽんっと頭に浮かんだ。
「いいことって何?」
瞳を閉じると、渇いた目に涙が染み込んでくる。
「……藍の中にある感情を明確にしてやろうと思って」
祈真も藍を見ていないはずだ。彼も瞳を閉じて、藍の存在を肌で感じている。同じ状態にあるからこそ、祈真は藍の心を素直に覗けるし、藍も祈真の心を覗ける。互いが互いを尊重して、この時二人は橘の都に咲く桜のように、あるがままだった。
「藍はな、昴が好きなんだよ」
藍は身動き一つしなかった。
「両親とも兄姉とも違う。俺や乃依殿や鈴や、お前がお前の民を愛するのとも異なった感情を持て余してる。……藍は昴というたった一人の男が好きなんだろ。だから、藍にとって昴は全てだ」
祈真の言葉は、すとん――と、まるで最初からそこにあることが決まっていたかのように、藍の胸に収まった。同時に、目の奥が熱くなって、唇が震えた。
「うん……」
右腕で両目を隠す。祈真が絶対藍を見ないのは分かっているのに、さらけ出すことが出来なかった。
「私、昴が好きだよ」
会いたい。会いたくて堪らない。いっそのこと全てを投げ出して、彼の胸に縋りたい。昴は藍の全てだ。他には誰もいない。
「会いたい……」
堪え切れず、藍は声にだして胸を抑えた。
会えないのは自分が一番よく分かっている。月の神子の末裔と、日の神子の末裔が、共にいられるはずがない。そんなのはずっと前から分かっていた。理解もしている。なのに――。
「昴……っ」
それでも会いたくて。
隣で黙ってくれている祈真が、頼もしくて優しくて嬉しかった。
それからしばらくして、藍は宵のうちから眠りについてしまった。
泣きながら寝たら目が腫れる、という意識は僅かにあったはずなのに、いつ何処で吹き飛んでしまったのか全く思い出せなかった。
ただ、靴を脱いでちゃんと蒲団にくるまって寝ていた辺り、泣き付かれて寝てしまった藍を、祈真がなんとかしてくれたのだろう。さすがに着替えまではさせられていなかったが、頭に巻き付けた布も剣も袍も傍らにきちんと畳んで置かれていた。
早くに寝て、起きた時には既に祈真は部屋でのんびり茶を傍らに弓の手入れをしていた。
むくり、と起き上がると祈真は顔を上げた。そして藍を見るなり顔をしかめた。
「ひでー顔してんな」
朝起きて真っ先に言われる言葉ではない。そう言いたかったが、目だけでなく喉も痛くて、声が出なかった。
「ほら」
手ぬぐいを投げてよこされて、藍はまだしっかり働かぬ体を無意識に動かし、それを受け取った。
「まだ朝早いから、誰も起きてない。髪は気にしなくていいから、さっさと洗って来い」
わざわざ布で髪を隠さなくてもいいということらしい。藍は頷いて、部屋を出た。
確かに、日はまだ出ていなかった。藍は祈真に言われた通り素直に井戸に行き、桶に水を汲む。
――今日橘王と会えるかもしれないっていうのに……。
「最悪」
水に映った自分の姿を見て、藍は溜息をついた。腫れぼったい瞼と、への字に曲がった自分の唇。
それを隠すように溜まった水に手を伸ばし、すくうと顔を洗った。凍るように冷たい露が肌に纏わり付く。鳥肌がたったけれど、燻った胸の内をその水の粒が洗い流してくれているような気がして、藍は何度も掌にすくっては顔にこすりつけた。
――泣いてばかりじゃないか……。
前髪をかき揚げ、藍はもう一度桶を覗いた。
少なくなった水に揺れる、自分の顔。どう見ても太古から続く克羅の姓を持つ女の作る表情ではない。少し心配になって、藍は唇の端を上に引っ張ってみたり、両頬を押し上げたりして、笑顔を作ってみた。
「こうかな……」
上に引っ張り下に引っ張り、角度を変えてみたり、髪をうまい具合に垂らしてみたりするが、すぐに阿呆らしくなって止めた。
変わりに、息をついて空を仰ぐ。今日は雲が多く、朝焼けは薄い桜色をしていた。雲に当たる光は影を作り、それが立体であることを示している。こうして見ると、やはり空というものはどこまでも高くて永遠に続くものなのだなぁと実感出来た。
思いっきり腕を突き上げて藍は伸びをした。
泣くのは悪いことではない。それに気付いたのは、もう半年近く前のことになるか。
ずっと、泣くのは弱い証拠だと思っていた。だから泣かないよう努力し続けて、結果、自分でも分からない程ぼろぼろになっていた。
泣くことと強さは関係ない。泣けば気持ちがすっきりすることもあるし、悲しみを素直に受け止めてそれで涙が出るのは、自分は誰にも嘘を付いていないということだ。それはむしろ強さに繋がる。
だからといっていくらでも泣いていいというわけでもない、と藍は思う。
涙は他の者の不安や同情を煽るものだ。例え藍が嬉しくて泣こうが悲しくて泣こうが、その内情を知らない者――特に藍を姫だと知っている民が見れば、不安なことこの上ない。
この短期間で藍は泣きすぎた。今までの堪えて来た涙を全部使い切ったというぐらい泣いた。――成長の証でもあり、これからの歩く茨の道の幕開けでもある気がした。
祈真から受けた布で顔を拭こうとしたが、とっくに自分の肌は乾いてしまっていた。たかが顔を洗うだけなのに一体どれだけの時間がかかっているのだろう――と思わず一人苦笑する。
――早くしないと……。
宿の人達が皆起きて、藍のこの髪を見られたらたまったもんじゃない。橘王に会う前から、克羅の姫らしき人が――なんていう噂がたつのは、まっぴらごめんだった。
水を捨て、桶を洗って元の場所に戻すと、藍は宿の裏口から中に入ろうと、戸に手をのばした。
――今日の夕方まで何しよう……。
いっそのこと、もう一度祈真に剣で本気の勝負でもしてもらおうか。右腕の傷はほぼ完治したし、旅の間稽古をつけてもらったおかげで、腕の方も随分上達したと思う。祈真が師だったので、藍の弱点は知られているが、藍も祈真の弱点を知っている。彼の剣は大振りだから、大きく振りかぶった時に一瞬無防備になる左半身を狙えばいいのだ。もっとも、それが出来るなら毎度めげずに、祈真の教えを請うたりしないが。
せめて彼を本気にさせたいな、とのんびりと思ったところで、何故か目の前の戸が勝手に開いた。
へ、と藍が間抜けな声を上げたのとほぼ同時で、大柄な男が突進してきた。全く予想しておらず無防備だった上、体格の差もあって藍は派手に吹っ飛ばされた。
「え、あ!」
自分の失態に気付いた男は、地面にすっ転んでいる藍を見てハッとした。
「す、すいません!大丈夫ですか――」
慌てて助け起こそうとする男を、藍は凝視していた。彼の纏っている衣は、先日橘の屋敷の前で見た門兵のと同じものだった。手には槍を持っている。丈夫そうな麻の上衣と小袴を着ているあたり、短白姿なのだろうが、帯と足結、額に巻いた汗の流れを抑える為の額巻きは浅黄色をしていた。どう見ても緑北国の国兵だ。
状況が飲み込めない藍は、ありがとうございます、なんて律義にお礼を言い、それからハッとして、それはもう間抜けな行動に出た。
持っていた布で自分の頭を押さえ付けたのだ。
見られたらまずい。自分の青みを帯びる髪が特殊なのは百も承知だし、それに気付かれたら最後、藍が克羅の姫だと分かってしまう。本能的にとった行動だった。
藍の奇異な行動を、男はぽかんとして見ていた。長い沈黙が走り、その間藍はどう言い訳をするか、必死になって考えていた。
が、突然男はその場に平伏した。
「ぶつかってすいません……。あの、恐れ多くも克羅の姫君とお見受け致しますが……本人ですか?」
――ばれてる。
その言動の弱々しさにも気付かず、やはり布で頭を押さえ付けたまま、藍は今では自分より低い位置にある頭を、呆然と見ていた。
「外に輿を待たせてあります。どうぞお乗りください」
「へ、あの、輿って……なぜ……」
「王に命ぜられまして……」
――橘王!?
ぎょっとして藍は半歩下がった。
「橘王に謁見出来るのは、今日の夕方辺りだったはずじゃ……」
「はあ。しかし私は今日の朝、ここに行けと近衛頭に」
藍にぶつかったことに恐縮しているせいか、新米兵だからか、あるいは元々気が弱いのか、藍の言うことに自信なさそうに答える兵をじっと見つめてから、藍は大きく息を吸い、身を落ち着かせた。
「橘王からの使いなんですよね?」
「はい」
「わかりました。行きます。大司空も――」
共に行くのだろう、と尋ねようとしたところで、ガラガラという音に遮られた。藍も兵も音の元を見る。
「おい藍。早くしろよ。待たせちゃわりーだろ」
「……祈真」
二階の窓から顔を出したのは祈真だった。
「待たせちゃ悪いって……祈真は迎えが来ること知ってたのか!?」
「ああ」
悪びれもなく祈真は窓の桟に肘を付き、おもしろそうに藍を見る。
「昨日お前が寝たあと宿の亭主が来て、王の使者から言付けを賜ったって。明日の明朝迎えに来るって言いに来たんだ。まったく橘王のやつ、俺達の身分がばれるかもしれねーってのに、よくやるよなー」
「よくやるのは祈真の方だろう!そんな大声でおおっぴらに言ったら、周りのやつらが起きるから止めろ!」
「お前こそ声の音量下げろ。叫ばんでも聞こえる」
「誰のせいだと思って……」
知っていたのなら起こしてくれれば良かったのに。確かに泣き疲れて寝るなどという幼稚な行動を起こしたのは藍だが、連絡が来たことを言ってくれれば、顔もさっさと洗って、それなりの準備をしていた。
藍が睨み付けると、祈真は遠慮なく笑った。
「文句は後で聞く。取りあえず表に出ろ」
窓を閉めて祈真の姿は消えたが、それでも藍はまだ睨み付けていた。
「あの~」
突っ立ったまま動かない藍に、おそるおそる声をかけてくる者があって、藍は振り向いた。
「準備出来てるので……その――」
「すいません。行きます」
――あの性悪男め……。
眉を吊り上げたまま、不機嫌という言葉の実現例そのもので、藍は宿の中から表へと繰り出した。
輿に乗るくらいなら自分で歩く――。父である芝韋の心情は、そっくりそのまま藍に受け継がれていた。芝韋はよく、
「民の姿を見ずに、民のことは分からぬ。その目でよく見ておけ」
と、幼い藍を連れて都を探索してくれた。十歳の時からは近衛の者と、十三歳からは一人で都をうろつくのが習慣になっていた藍にとって、輿はまったく無縁のものと言ってよかった。
従って今回輿に乗るのは初めてである。
表に出て、祈真がにやにやしながら持ってきてくれた藍の荷物をぶん取り、いつか仕返ししてやる、と捨て台詞を吐いてから自分の髪を縛った。兵が藍を姫だと知っていたのと、朝早いのであまり大路にも人がいないのとで、頭を布で隠す必要はもうなかった。
憤然として勢いに任せて輿に乗った藍は、乗ってからものすごく後悔した。普段より高い位置に自分の身体はあるのに、思うように動いてくれない。馬に乗っていれば手綱を引いたり腹を蹴ったりするだけで好きなように御せるのに、こればかりはどうにもならないのだ。
いくら集中しても速度も方向も変わらないし、かといって気を抜けば、落とされそうで怖い。担いでくれている人には悪いが、断然馬の方が藍の性分に合っていた。
奇声だけはあげないよう、しかし目を白黒させて、一生に一度になるであろう輿の揺れを気合いで楽しもうとしているうちに、いつの間にか藍と祈真を乗せた一行は、門の中へ入り、もう一つ門を抜け、広い庭に入った。
「ご到着です」
言われた瞬間、何の前触れもなく輿が下ろされ、藍は慌てて持ち手を掴み直した。
「失礼します」
外側からは見えないように降ろされていた布を、従者であろう人が取り除いた。瞬間、藍は弾かれたように外へ飛び出した。
――輿ってこんなに疲れるものなんだ……。
普通、位の高い人が移動する際に疲れないように用意されるのが輿というものだ。その輿に藍は乗ったはずなのだが――。
「じっとしてると肩こるぜ……」
コキコキと肩を回しながら藍の方へ寄って来た祈真は、眉をひそめて言った。どうやらこの男も藍と同じく、輿が苦手な質らしい。
「藍もそうだろ?」
同意を求められたが藍は頷かなかった。まだ祈真を許したわけじゃない。何なら祈真だけ輿に乗って、都一周でもしてくればいいのだ。橘王に頼めば、やってくれるだろうか――?
「お前、何か今すっげー嫌なこと考えてねえ?」
祈真の呟きを無視した藍は、周りの風景を改めて確認した。
足元には石灰のような白い砂利が敷き詰められている。正面にあるのが一番大きな宮で、少し小回りなものが左右にも対称に並んでいた。心なしか、克羅邸に造りも配置も似ているような気がするのはやはり、元が同じ国だったからだろうか。
「お二方」
地の白と屋根の黒の調った風合いをぼんやりと眺めていた藍は、細い声に振り返った。視界の端には退出して行く輿を担いでいた男達が、中央には三人の女性が、頭を下げて立っていた。
「碧の国長姫、克羅藍殿。白西国大司空、仁多祈真殿とお見受け致します」
「いかにも」
「はい。そうです」
女の言葉に、祈真と藍はそれぞれ答えた。
「私は、王の侍女頭の春と申します。この季節に仁多から、克羅の姫君にいたっては長い道程を越え、こうして橘へいらして下さったこと、また、明朝よりこうしておいで下さったこと、並びに克羅の姫殿、大司空殿、御身自らこの地を踏んで頂けることに、深く感謝の意を表します」
ここに来て始めて、口上していた女は顔をあげた。きっちりと結い上げられた髪に、細くきりりと引き締まる瞳。ふっくらとした唇を持つ健康そうなその人は、藍よりいくつか年上かといった程度で、とても侍女頭には見えない。普通そういうものは、年のいった年長の女がなるものだ。
「失礼ながら、王にはすぐお会い出来るのでしょうか?」
しかし、今の藍にはそんなことに構っている余裕はない。
――ここまで来たんだ……。
口伝を聞くことは、喜瀬村が戦を起こした理由の解明――善悪の神の謎の解明にも繋がる。分かれば、これから藍が起こさなければならない、碧の民を救うという行動に有利になる点が多い。こちらの握った情報を喜瀬村に突き付けることで民に手出しをさせないように出来るかもしれないし、克羅の都に駐留しているであろう紅の軍を追い出せるかもしれない。
何より、嘉瀬村の求めているものの実体が分かれば、それは紅南国の弱点を掴んだも同じなのだ。
日の神子と月の神子の生まれ変わりを求めているのには理由があるはず。その理由がきっと――紅南国の弱み。
それを握ればこちらのものだ。わざわざ紅南国相手に戦を起こさずとも、外交で脅してなんとか出来る。
紅南国の弱みを握る――それが橘王に口伝を聞く一番の理由だ。
しかし、祈真の言う『禍の世』の解明もまた、藍の知りたいことに繋がっていた。自分が月の神子の生まれ変わりだとか言われたら、それも当然だろう。橘王から祈真に送られた書の『ただ事ではない』という文句も気になる。
「はい。むしろこちらからお願い致します。出来るだけ早いうちに、王と対面なさってほしいのです」
藍の言葉に、春は再び頭を下げた。
「王は時間がないと申されております」
「時間がない?」
祈真が不可思議なものでも見るように春を見た。
「はい。詳しいことは本殿で。ご案内いたします」
春はそそくさと、踵を返して歩き出した。
藍も祈真も、着替えもしないまま靴を脱ぐなり本殿に通された。二人とも薄汚い袍を着た旅の格好のままであるにも関わらず、春はそれでいいと言った。お気にならないのでしたら、どうか着替えは後にしてください、と。
時間がないと聞いて、橘王が病に臥せっているのではないかと藍は勘潜ったが、そうではなかった。
扉を開けて入った部屋の入口で、藍は硬直した。
「よくおいでくださりました」
細く調った眉、澄んだ茶の瞳。つやつやと流れるような髪は、簪に結われて美しく、くっきりした目鼻立ちと、これぞ完璧という綺麗な形の唇は、この世のものとは思えないほど美しい赤だった。
――傾国の美女。
まさにその通りだった。艶やかすぎず、清楚すぎず、知的で優雅で。
今まで見たことのないほどの美しさに、藍は放心して見入っていた。間違いなく祈真の言う美女は、この緑北国を治める王、橘遥世だった。
「克羅の姫、大司空、はるばる遠路より、よくお越しくださいました」
きちっと、橘王は両手を床に沿え――頭を下げた。平伏したのだ。
あんまりのことに、藍は叫びそうになったが、それを寸前で食い止めた人物がいた。
「いや、こちらこそ」
妙に大きな声で言うと、祈真は橘王が平伏してこちらが見えないのをいいことに、突っ立ったままの藍の膝裏を蹴り、頭を押さえ付けた。
一瞬で、藍も橘王同様平伏する形になっていた。
突然の出来事に、藍は目が点になり、顔をあげようとして――はた、と気付いた。
――そうだ。相手は王なんだ。
いくら美しいからといって、間抜け面で見つめるわけにはいかない。これは藍という一個人だけでなく、碧の民の威厳に関わる問題だ。上に立つ者がしっかりしていないと、続くものまで侮られてしまう。
そう考えると、祈真の蹴りは非常にありがたいものだった。やはり彼はこのような外交に場慣れしているのだろう。
祈真のようまではいかなくても、堂々と藍は橘王と話したかった。下手に出るでもなく、上からものを言うでもなく、対等に渡り合いたい。従って橘王が頭を下げるなら藍も下げるべきなのだ。
まだ外交に慣れていないからといって、それを理由に礼儀もなってないなどという失態が許されるはずもない。
微かな自己嫌悪を覚えて、藍は拳を握りしめたが、顔に出さないよう表情を引き締めてから上体を起こした。
「時間がないというのは――」
藍と祈真が顔をあげたのを見ると、目の前の麗しい女王は間髪入れずに言った。
「私個人が、ということではありません。世界の在り方について……禍の世についての時間がないということを差しております。私が術者だということはご存知でしょうか?」
いつの間にか部屋には王と藍と祈真、そして春が部屋の片隅に控えているだけだった。さっきまで部屋に藍と祈真の席を用意していた侍女も、もういなくなっている。
「はい」
王の言葉に藍は頷いた。
旅の間、祈真にそのことは聞いていた。遥世王の父も術師だったというから、そういうものに優れた家系なのだろう。
「巫女のような強い力は持っていません。だからこそ分かることが多々あります。主観ではなく客観を重視するのです。――春」
「はい」
突然、全く関係ないはずの春の名が王の口から飛び出し、藍はそちらを見た。
「部屋にご案内しなさい」
王の突然の言葉に、藍は困惑を隠せなかった。王を見て、春を見て、祈真には怪訝な顔を隠さず見て、目で問う。
――部屋って何?
「かしこまりました。お二方、こちらへ」
春は立ち上がり、裳の裾を優雅に揺らしながらしずしずと部屋を出た。祈真が立ち上がり、藍も不思議に思いつつそれにならう。
「すぐに分かる」
藍は祈真を見上げた。
春の背中を見つめる彼の面には、いつもの悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。




