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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第4章 〜郷愁〜
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北の国

「着いたぜ」

 よっと、と馬を降りながら、祈真は爽やかに言った。彼の瞳には嬉々とした明るい色が浮かんでおり、その顔を藍に向けた。

「橘だ」

 澄んだ青い空に広がる淡い紅色。立ち並ぶそれが桜の花だと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 都を守る羅城は仁多に比べてずっと低い。堅牢なものが造れないのか、あえて低くしているのかは分からないけれど、壁より高い位置からはらはらと舞い落ちる花吹雪は、藍の視線を釘付けにした。

「綺麗……」

 百か二百か。その数は無数にあるように思える。王宮である橘の屋敷を中心に、羅城に沿って立つ桜は、草月に入った今日、満開に咲き誇っていた。

 藍には、緑北国と聞いて連想出来るものがない。小さい頃から、碧は自分の国、紅は神の国、白は法の国、緑は何もない国。そう思ってきた。国交もなかったし、緑北国には特徴と言える特徴がないのだ。

 それを言うと祈真は、確かにそれは言える、と苦笑した。

「北の雪国という印象が強いからな。陰気な感じはする。だけど実際はこんなにすげーんだぜ?」

 祈真は落ちてきた小さな花びらを掴みながら、彼にしては真面目な表情で言う。

「本物は目で見て耳で聞いて肌で感じないとわからねーんだ。……憶測はつまらねーものだって気付くのも難しいけど」

「……そうだな」

 藍も馬を降りた。あまり人のいない門の外側なのに、満たされた空気が辺りを覆っている。花の香だ、と思った。

「自分の信じるものが壊されるのは恐い」

 二人きり旅の間、初日を除いて祈真いつも優しかった。

 他に表しようがない。あえて言うなら、優しくて厳しかった、と言ったところだろうか。

佳子未と佐雲がいた四人の時とは異なり、祈真は藍に厳しく接した。

最初はいじめられているのかと思って、反発しまくった。何も説明されなかったのだから、自分の怒りも当然だったと思う。祈真は、火を起こせ、水を汲んで来い、薪を拾え、村で食い物もらって来い、馬に餌をやれ、と毎日違う仕事を藍に押し付けた。

 どうして自分ばかり、と思って祈真を睨み付けても、彼は薄く笑うだけだった。そんなことも出来ないのか――という、藍を見る視線に含まれる言葉が分かっていたから、意地でも藍は言われたことをやり通した。そのうちに気付いた。

 祈真は藍に様々なことを教えてくれようとしていたのだ。これは断言出来るが、祈真は自分からそれを口にするような素直な人間じゃない。だからそれが彼の優しさだと分かるまで、時間がかかってしまった。

 祈真は問えば丁寧に答えてくれた。それこそ、草木の種類から武器の使い方まで。藍もあまり素直じゃないから、彼と口喧嘩になることは多々あったけれど、弓の使い方も習ったし、政についてもお互いの意見をたくさん交換した。

 個人的な話もした。二人だけの旅にも祈真の性格にも慣れてきた藍が、何故王ではなく大司空になったのか、と聞いた時の祈真の表情が、今も瞼に浮かぶ。彼はいつもの様に笑わず、はぐらかしもせず、実に静かに思慮深く言った。

「莢生の方が王に向いていて、俺は武人に向いていたのが一番の理由だろーな。俺が武人になることを望んだのもある。軍を統率出来るのは俺しかいねえと、小さい頃から思ってたからな」

「どうして?」

 問うと祈真は言った。

「殺す相手が、俺の国の民ばかりだからさ。軍といっても、他国と戦をすることはほとんどない。夜叉の襲撃の次に多いのは内乱だ。そうなると武人は反乱に加わった民を殺さなきゃならねーだろ?それが出来るのは俺か莢生だけだ。例えどんな民がどんな罪を犯していようと、民の命を任されている俺達の知らないところで、民が殺されるのは許せねーんだよ。だから俺が斬る」

 藍は驚いて祈真を見た。彼は、自分の不甲斐なさのせいで民が死ぬならば、自身が殺すと言っている。いや、実際にもうそういうことがあったのかもしれない。

 確かに、藍も碧の民が死ぬのは絶えられない。碧の国が滅んだ時だって何よりも胸が痛かった。だから尚更、祈真のように、自分で自分の国の民を斬ることだけは出来ないと思うのだ。

 祈真には祈真の気持ちがあり、藍には藍の気持ちがあるのだと思った。だが、同じ王族として、民を思う心は同じ。

「橘というから、橘がたくさんあるのかと思ったら……桜なんだ……」

 都に入り、大路を歩きながら藍は言った。羅城の内側は人が多い。路の両端には市が並んでいるが、ただ少しだけ活気がなかった。

「橘の木もあるぜ。王宮の王の庭に一本だけ。緑北国では橘は神聖な木らしいから、滅多なことがない限り、人目には触れさせない」

「そうか……」

 緑は北の国だ。碧では花月の始めに咲く花が、草月の今咲くのもここでは珍しくないのだろう。

「橘の王は女王だったよな?」

 国交を結んでいなくても、それぐらいなら分かる。緑北国王の名は確か、橘遥世たちばなはるせだ。ここ数年、橘は在位の短い王が続いている。先々代の王であり、現女王の父である橘亘理わたりは、三十八歳という若さで病に倒れた。彼の在位が八年になる。

 橘亘理の長女であった橘遥世は、本来なら王位を継ぐはずだったが、その時はまだ若かった。従って、橘亘理の弟であり橘遥世の叔父である橘燕史えんしが次の王として君臨した。しかしそれも僅か二年で崩壊。彼は自ら軍を率いて突如現れた夜叉と対峙するために戦い、その時受けた傷が元で亡くなった。

「ああ。橘遥世は今年の秋で在位五年になる」

 祈真が答えた。

 十五年前、ようやく紅南国との戦が終わり、国が落ち着いたのもつかの間、それから一年後には亘理王、八年後には燕史王、二年後に遥世王と次々と王が変わった為、緑北国は今大変な時期を迎えている。

 ――こんなときに……。

 おそらく、王宮は今権力沙汰や派閥争いが絶えぬはずだ。橘王も苦労しているに違いない。にも関わらず藍や祈真を招くということは、それだけ橘の口伝は重要で、世界の禍に深く関係しているのだろう。

「祈真は橘王にお会いしたことがあるんだろう?どんな方だ?」

 そんな混乱の中心にいるのに、藍達の疑問を正面から受けてくれようとしている橘王の強さに尊敬を覚えて、藍は祈真に聞いた。

「すげぇぞ」

 やけに力強く祈真は言った。

「あれこそまさに傾国だ」

「傾国……」

 国を傾けるという意味で傾国けいこく。女の身でありながら王を虜にし、意識の全てを自ら集中させて政務を滞らせるほどの美しさを持つ女を、傾国の美女という。

「そんなに綺麗な人なのか……?」

 その傾国の美女自体が王なのだから、国が傾くことなどありはしないはずだが、それを分かっているだけでなく、女性を見るのには肥えている――と思われる――祈真が言うのだから、相当の麗人なのだろう。

「だから傾国なんだよ。ほんっとすげーぜ。あまりの凄さにぶっ倒れんなよ」

 ――そんなに美人なんだ。

 祈真がここまで褒めちぎるくらいだから、まさに絶世の美女なのだろう。個人的感情走ってはいけないと思うが、そんなに綺麗な人なら是非とも会ってみたい。


 祈真との二人きりの旅の間に夜叉に遭遇したのは二度、追剥ぎには一度会ったが、どちらも藍と祈真の二人にとっては大事ではなかった。大きな群れでもなかったし、追剥ぎに至っては祈真が剣で脅し付けたら逃げてしまったといった有様で、だから橘に着いてもあまり疲労はなかった。

 そのため着いた初日から早速、橘王に会おうという二人の意見は見事に一致したので、とりあえず証書をしたため王宮門兵に預けた。

「一応緊急の証書として報告したしますので、また後程訪ねてください。明日の夕刻には許可が出ると思います」

 藍と祈真の今回の橘訪問は、あくまでも個人的なものであって、二人は正式な使者ではない。例え一人が白西国の王族で一人が碧の国の姫でもだ。それを言えば事態を大きくして緑北国側に余計な心配をかけるので、門兵への説明は、

「王にお会いしたいので、この証書を渡してください。多分許可が降りると思います」

 と、莫迦正直に、しかし後ろめたいことは何もないのだからと胸を張って言った。証書を書いたのは祈真だが、門兵に差し出したのは藍である。祈真は藍の潔い説明をおもしろおかしく見ていた。

 証書を渡してその場を離れると、祈真と藍は二人して顔を見合わせた。

「私達、明日まで何するの?」

「うぅん……こりゃまた難しい質問するな」

 祈真も藍も片手には馬の手綱を持ち、片手には荷物を握りしめている。旅の格好のままだし、都にはかなり場違いな二人が大路の真ん中に立っているせいか、通行人は不思議そうに藍と祈真を眺めて通り過ぎて行く。

「とりあえず、腹ごしらえでもすっか。せっかく橘に来たんだし、都の飯も食っておかないとな」

 どうだ、と祈真は目で問う。藍はこっくりと頷いた。

「よっしゃ。そうと決まれば行くぜ」

「あ、待って」

 スタスタと歩き始めた祈真の後を、藍は慌てて追い掛ける。

「祈真、橘に碧の民は入っているだろうか」

 はた、と祈真の脚は止まった。藍は彼の横に立ち、言葉を続ける。

「生き残っている者は皆、緑北国に向かうだろう?だったら橘に入っている者が多いんじゃないかと思うんだ。どう?祈真は入っていると思うか?」

 内心、藍の胸の鼓動は速くなっていた。祖国の者に会えるかもしれないという期待が膨らんで、それが声色にまで出てしまっている。

 民に会ったらまず謝らねばならないことを藍は自覚していた。紅の兵を食い止められず、国を守りきれなかったこと、民に苦労をかけたことの責任は藍にある。なぜなら藍は民の幸せを願っているから。

 だからこそなおのこと会いたい。誰でもいい。ただあの国の風と空と香りを知るものであれば。一人でも多くの者が生きてくれていれば。――この目でそれを確かめたい。

「多分皆どこかにまとまってると思う。その場所を探せばきっと――」

「やめとけ」

 え、と藍は祈真を見上げると、彼は眉間に皺を寄せて藍を見下ろしていた。顔形が整っているせいか、祈真は怒るとかなり迫力がある。藍は旅の間に何度かこの表情を見ているが、未だに慣れることが出来ていない。

「今は橘王に会うことだけ考えといた方がいい。俺はお前に傷付いてほしくないし」

 今度は藍が眉間に皺を寄せる番だった。

「なぜ?なぜ私が傷付く?」

「……言っても怒らないなら言ってやろう」

 祈真はきょろきょろと辺りを見回すと、狭い路地裏へと足を進めて行った。藍も後を追う。人に聞かれてはまずいのだろう。そうすると――藍が姫であることに関係があるとしか思えない。

「いいか」

 くるり、と祈真は振り返った。

「碧は緑と同盟を結んでなかった。ってことは、難民が押し寄せてきても、それを養う義務は緑北国にはない」

 直球な言葉を聞いて藍は息を止めた。心臓を刺されたような錯覚に陥った。

「そんな……じゃあ――」

「もちろん、碧を尊敬していた緑だから、ちゃんと生活の保障をしている可能性の方が高いだろうけどな。橘王のことだ。貯蔵庫開けてでも養ってる。いざとなれば白西国も手助けすることになってるし」

「……なんだ」

 ほっと胸を撫で下ろして、藍は深く息を吐く。

「脅かすなよ……まったく」

 食もなく飢えているのかと思った。紅にも玄冥にも勝った命が、ここに来て消えるなんて――絶対に嫌だった。つらすぎる。

「けどな」

 祈真の鋭い声色に藍は再び顔を上げた。

「緑の連中は、碧のやつらをよく思っていないはずだ。自分達が国に対して納めた食料を取られるんだからな。必然、都のやつらは碧の民に冷たく当たるだろうし、そのせいでお前の民は肩身の狭い思いをしているはずだ。だから行かない方がいい」

 淡白で無慈悲な言葉。拳を握りしめ、藍は俯いた。肩身の狭い思いをしている――という祈真の言葉が、耳に纏わり付く。

 ――そうだ……ここは克羅じゃないんだ……。

 怒りが込み上げて来るが、それが当たる相手のいない身勝手なものだと分かっていたから、唇を噛んで堪えた。

 緑の者に何の罪もないし、自分の国の民が蔑ろにされているかもしれないからといって、藍に憤りを感じる権利もない。むしろ、祈真の言うように、緑から碧の民への食料を分けてもらっているのだったら、感謝するのが普通ではないだろうか。

「……分かった。行かない」

 いくら男装しているとはいえ、藍の顔を見知った者がいないとも限らないし、気付けば混乱が起きるだろう。藍自身が余計なことを口走ったり感情を抑え切れなくなったりする可能性もある。防ぐ為には、もっとこの国の在り方を学んでからではないと、橘王にも迷惑がかかってしまう。

 ――それに……。

 こんな身勝手で卑屈な思いを抱えたまま、祖国の者に会いたくなかった。きっと今自分はものすごく嫌な顔をしている。

 藍が言うと、祈真は驚いたように藍を見た。

「えらい素直じゃねーか」

 心底驚いているのが分かって、藍はややあってから苦笑した。

 結局、祈真の言うことに間違いはないのだと、藍は知っている。自分と三つしか年は離れていないはずなのに、彼の洞察力の鋭さにはどれだけ背伸びしても追い付けない。人との駆け引きも、夜叉や追いはぎなどの敵との対峙も、瞬時に状況を有利にする為の策を考えるし、それがどんなに難しいことでも彼はやり遂げてしまう。

 生まれながらの才能なのだと思う。彼はまさに人の上に立ち、引っ張って行く人間。

「……行って自分を押さえ付けられる自信がないから」

 今更だけど、祈真がいてくれて本当に良かった。

 昴がいない今、胸にぽっかりと開いた穴は全く塞がっていない。この穴を埋めてくれるのは彼しかいないのも分かっている。だからもう、一生埋まることはない。

 けれど祈真は――そんな藍の心を知っているのだろう。時々藍より藍の気持ちを分かっているのではないかと思うほどだ。いつも傍にいてくれて、優しく見守ってくれている。その瞳は父母や喬、琴音のものと変わらない。

「……そっか」

 ポン、と祈真は藍の頭に手を置くと、突然がしがしと擦りつけた。巻いていた布がずれ落ちるので、藍は慌てて祈真の手を押しのけて髪を隠した。

「見られたらどうするんだ!」

「俺はそんな間抜けじゃないね。やるなら人のいないところでやるさ」

「わざわざ人の頭引っ掻きまわすな!祈真はそこから間違って――」

「なあに。可愛い妹への愛情表現だろ」

 布を巻き付けていた藍は手を止めた。祈真は、信じられない、と顔に書いてある藍を見て、いつものニヤリとした悪戯っぽい笑みではなく、優しくにっこり笑った。

 祈真に喬のことはすっかり話してしまっていた。血の繋がりはなかったけれど、彼は実の兄だったと。

 それを分かっているはずの祈真が、藍を妹と言ってくれている。からかいでそれを言うことが藍をどれだけ傷付けるか、目の前の男は知っているのだ。だから――この言葉は本物。

「嫌か?」

 呆然と動かない藍を見て取ってか、祈真が少し困ったように言った。彼も自分の言っていることが、藍にとって良いことなのか悪いことなのか自信がないのだろう。いつも自信に溢れている彼がこうして悩んでくれている。それだけでもう、祈真の優しさが藍の胸に染みた。

「ううん」

 思わず藍はぎゅっと祈真に抱き着いた。顔をうずめると、父や喬と同じ香りがした。こうやって抱き着いていたのは、藍が十歳になるまでのことだったけれど。――今考えてみれば、父も喬もあまえる藍をもっと見たかったに違いない。藍だって心の奥底ではあまえたいと思っていた。どうして素直になれなかったのだろう。彼等は、長と守将である前に、藍の父と兄だったのに。

「嬉しい」

 ――私は恵まれている。

 常に誰かが傍にいてくれるのだから、これほど嬉しいことはない。

 ――昴のことは……思ってはいけない。

 そんな贅沢をしているというのに、やはり彼が隣にいないのは、胸が痛い。会いたい。隣に立っていてほしいと切に願う。

「藍、いいこと教えてやるよ」

 祈真がいてくれて嬉しいのに、それ以上の高望みをしている自分が許せなくて、藍は震えていた。昴のことは忘れると決めたのに、どれだけ時間が流れても、藍の中の彼の存在は消えてくれない。もどかしいし、祈真がいてくれるのに昴ばかりを思うなんて、自分はどこまで傲慢なのか分からなかった。

 そんな藍の頭を、祈真は軽く溜息を付きながら優しく叩いた。

「とりあえず、まずは飯と宿だ。な?日が暮れたら開いてる宿はなかなか見つからないぜ」

「……うん」

 祈真に促されて、藍はようやく顔をあげた。


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