紅南国
上衣を調え、襟元を正し、昴は大きく息を吐いた。
「三年ぶりか……」
庭に咲く赤い花を見つめて、昴はこれまでのことを思い出していた。旅に次ぐ旅、夜叉との遭遇、消えた村、巨大な都、そして一人の――。
「紅蘇殿、王の許可が下りました。どうぞ主舎へ」
使いの者が平伏して言った。昴は立ち上がる。
「……分かった」
もう、後戻りは出来ない。
本音を言えば、例え掻っ攫うことになったとしても、藍の傍にいたかった。思いを告げたかったし、自分のものにしてしまいたいとも思った。それだけ彼女が愛おしかった。
だが、昴には分かっていた。藍を束縛することだけは出来ない。風のように自由で、清流のように清らかな藍を、昴というたった一人の人間の為に壊してしまうなんて、そんなことをするぐらいなら、例え二度と会えなくなるとしても手放す方が良かった。むしろ、離れてしまえば諦めがつくかもしれないと、自分に期待していた。
事実、藍が昴を許してくれるなんて、本気で思っていなかった。昴を罵って、怨んで――本当に殺してくれても構わないと思っていた。今思えば、それほどに自分は悩んでいたのだろう。手に入れたい気持ちと、突き放して別離しなければならないと思う気持ちの葛藤の結果だ。
しかし藍は許してくれた。紅蘇だろうと何だろうと昴は昴だと。予想外の答えに、昴は困惑したが、それはとても嬉しいことだった。
藍は昴だから傍にいてほしいと言ってくれた。これで昴も藍の傍にいることが出来るはずだった。けれど――。
その時に湧いてきた感情をどう表せばいいのか今でも分からない。何かが弾けてふわふわと飛び交うような、そんな感じだったと思う。ただ分かったことは、自分はここにいてはならない、ということ。
藍は月の神子の末裔。そして昴は日の神子の末裔。その時点で、お互いの気持ちがどうであれ、相入れないのだと――このまま藍の傍に居続けるのは、昴が昴でなくなることなのだと、その時分かった。
藍に言った言葉は嘘ではない。彼女の誠実な思いを目の当たりにして、自分が幸せになる為には、努力しなければならないのだと悟った。三年前に国を抜け出してからずっと、心から開放感に浸ることが出来なかったのは、昴が自分に課されたものを捨てたからだったと、今なら分かる。昴には昴の民がいる。
――あの日……。
王のいる主舎へ向かいながら、昴は仁多城を出た日のことを思い出していた。
あの日の朝、すっかり準備を済ませていた昴は、まだ陽の昇らぬうちに部屋を出た。誰にも気付かれないうちに柳瀬に向かうつもりだったのに、廊に出た所で祈真に会った。どうしているのかという疑問も湧いたが、予測出来ないことではなかったし、いてくれて嬉しいと思ったのもまた事実だった。
「……行くのか」
祈真の静かな声に、昴は頷いた。
「藍は許してくれました。だから行きます」
「だったら共に生きていけば良いだろう。それぐらい言ってやったらどうだ。お前、本当に男か?」
本気で顔をしかめている祈真がおかしくて、昴は笑んだ。彼にもいろいろと迷惑をかけたと思う。
「大司空のおっしゃるとおり、俺は藍を想っています」
出し抜けに昴は言った。
「だから、彼女にだけは甘えたくないんです。誠実でありたいし、嘘を付きたくない。共に生きようと言ったところで……藍にもそれが偽りだと分かる。だったら、言わない方が彼女の為だし、俺も救われます」
「……偽善だな」
「それでも、俺は俺のままでいられる。藍はそれを望んでくれている」
「……そんなに想ってんなら」
祈真は昴の襟元を掴んだ。彼が怒りをあらわにしたのを見たのは初めてだった。いつも飄々として相手を怒らせるのを楽しんでいるのに。
「掻っ攫ってでも連れてけよ!あいつがお前の傍にいる時の瞳を知ってるか?心底安心して、心底お前を信じている。天竜の村でのあいつを見た俺には、お前がどれだけ大きな存在か分かるんだぞ」
「藍は家族以外の愛を知りません」
昴は莫迦丁寧に言った。祈真の目がわずかに開いて、驚愕したのが分かった。
気付けば、藍が何よりも大切な存在になっていた。始めのうち、彼女は大きな闇を抱えていた。それを利用するかのように、昴は残酷にも彼女に自分の望みを重ねた。結果として藍は本物の克羅の姫だったけれど、彼女をずっと傷つけてきたのも確かで。
藍は藍であり、他の誰でもないと気付いた時には、もう惹かれていたのだと思う。笑ってほしかったし、昴を見てほしかった。強情に他者を拒絶する藍が誰かに頼る時が来るとしたら、それは自分であることを望んでいた。
我ながら愚かだった。紅の王族である自分が逃げ出したせいで滅んだ国の少女を思うこと――それがどれだけ不吉であることか、分かっても良いはずだった。案の定、藍は善の神の末裔で、昴は悪の神の末裔という、決して逃れることの出来ない現実が待っていた。
再生し、笑みを絶やさない幸せを求める藍を見る度、彼女への思いはますます募り、比例して罪悪感は強くなる。極め付けは、藍が昴を必要としていたことだった。
藍は昴の血に流れる存在を知らなかったから、昴が必要だと口にして言えたのだ。互いが太古からの敵であることを知る昴には、頷けるはずもない。
出会った時点で全てが間違っていた。もし昴と藍が、橘の姓を持っていたり仁多の姓を持っていたりしたら、また事態は変わっていたかもしれないけれど、二人に流れる血は神の血であり、変わることのない血なのだ。
藍が、昴の父である嘉瀬村のせいで肉親を失ったことを許してくれても、昴がどれだけ藍を思っても、藍と昴が全てを分かち合える時が来ないのは分かっていた。
だが、唯一の救いがあった。それは藍は昴を好きではない、ということ。
藍が言う好きはほとんど家族愛だった。完全にとは言い切れないかもしれない。けれど、例え藍が昴を特別な思いで見ていたとしても、彼女はそれが何なのか分からなかったはず。
「それで良かった……。これからきっと良い伴侶を見つけるはずです。もしかしたら、仁多王かもしれません」
昴が言うと、祈真は手を離した。
「お前……そんなに――」
藍が大切だ。だから、生きていてくれればそれでいい。例え昴が自分の気持ちすら口にすることが出来なくても、例え昴が藍に忘れられても、藍が自分の幸せの為に生きてくれるというのなら。
「藍を……」
昴は頭を下げた。これ以上、己の決意を揺らされたくなかったし、油断すれば渾身の思いで押さえ付けている本音が、口を次いで飛び出てきそうだった。
「お願いします。あいつ、結構寂しがりやで……そのくせ大事なことは溜め込む癖があるから。我が儘だし、無鉄砲だし、いつも勝手で、いつも自由で――」
出会ってからの藍の姿が瞼に浮かんだ。強い眼差しと、悲しみの表情と、優しい笑顔と――。
とん、と肩に手を置かれて、昴は顔をあげた。見ると祈真が微かに笑っていた。
「天竜の村での活躍の褒美がまだだったな」
任せておけ――と呟いた祈真に続いて、昴も笑った。彼と握手したのは、その時が初めてだったと思う。
――今頃は緑北国に入っているだろうな……。
別れてから一月弱。昴は既に柳瀬に到着し、先日朱雀城の門を叩いた。紅蘇だと言って入った時は、城内が大混乱に陥ったものの、なんとかこうして柳瀬王に会うことを許されている。
「失礼します」
頭を下げて、城の最深部である主舎の広間に入った昴は、低く言った。
仁多城では履物を脱がずに城内を移動していた。だから皆が椅子に座ったりすることが多かったが、朱雀城は違う。
城と言っても、基本は屋敷と同じ造りだ。城壁以外は木装だし、面会や議会なども板で出来た床に直に座って行われる。
従って、昴が入った広間には、何人かがこちらを見上げる形で座っていた。人数は極僅かだった。どれも老けた男ばかりで、ゆるゆるとした長い豪奢な模様の入った袍を着ている。紅南国には役人用の決められた服はない。白西国の真っ黒な官服ばかり見ていたので、目がちかちかした。
入った瞬間、老人達はざわめいたが昴は無視を決め込んだ。好奇の目で見られるのはわかっていた。携えていた剣を傍らにいる仕え人に突き付けるようにして渡し、昴は真正面の御簾の向こうを睨み付けた。
少しだけ高くなった段。御簾がかかるその向こうに紅南国の王が――父である嘉瀬村がいるのだ。顔なんて覚えていない。けれど彼の冷酷さは嫌という程見て来た。彼の私室である此処でも、たくさんの人が血を流したに違いない。別段、自分の寝所が血の穢れを受けたところで、嘉瀬村は全く気にしないのだから。
昴は近すぎず遠すぎずの距離に歩み寄り、膝をついた。そのまま額を下げ、深く平伏する。
「参内をお許しくださり、感謝致します」
三年前なら頭を下げるというだけの行為にも反発していただろうが、今は何の躊躇もなく体は動いた。成長して我慢を覚えたからか開き直ったからか分からないけれど、多分悪いことではない。
昴の言葉に誰も何も言わなかった。しんとした沈黙だけが辺りを包み、昴は一瞬、暗闇に独り取り残されたような錯覚に陥った。
――落ち着け……下手したら首を斬られる。
ある意味夜叉と闘うより危険なこの状況を打開出来る方法はない。いくら父親とはいえ相手は王だ。これ以上口をきくことは許されない。
昴はただひたすら待った。今のところ莫迦なことはしていないはず。
「……面をあげよ」
低い、しわがれた声が御簾の向こうから聞こえて、昴の指はピクリと神経質に動いた。
――嘉瀬村……。
瞬間、あの少女から全てを奪ったのがこの男だということに、今更気がついた。
藍が殺そうとしていた男。そいつが目の前にいる。昴が思う少女の肉親達の仇が――。
「……失礼します」
ぐっと腹に力を入れて声を抑え、昴は顔をあげた。
――関係ない。藍は……。
殺しを厭うようになった。彼女が望まないことだ。昴が殺したいと思うのは私怨で、だから手を出してはならない。
「紅蘇よ」
御簾の向こうの影がゆらりと動いた。
「よく帰って来た」
予想外の言葉に昴は唖然とした。皮肉られるか罵られるかあしらわれるかと思っていたのに。
――よく帰って来ただって?
城の何処にもそんな空気はなかった。むしろ死んだと思われていたはずの紅蘇が戻って来たことで、混乱が起き、続いて疑惑の目が向けられたことを昴は承知していた。おそらく、一つ年下で嘉瀬村の第二子である紅躅が王位を継ぐということが目下決まっていたのだろう。だから、昴の登場は邪魔以外の何ものでもなかったはずだ。なのにどうして――。
「他の者は下がれ」
嘉瀬村が言うと、座っていた役人達は皆席を立った。昴を一瞥し、何故今更のこのこと現れた――と視線に言葉を含ませ去っていく。
しかし昴は平然とした表情を保ったままで、その役人たちを見送った。己の命と富が惜しいばかりに嘉瀬村の言いなりになっている腑抜けたやつらだ。彼等のように逃げ回っている我が身が可愛いと思う者達なんか、闘う為に戻って来た昴から見れば、噛まれても全く痛くない存在。
深く息を吸って、昴はもう一度正面を見据えた。
闘う相手は実の父だ。他の誰も関係ない。
「何故戻って来たのか」
責める口調ではなかった。それが逆に昴に緊張を与えたが、構える必要なんて何処にもなかった。
「王位を継ぐべく戻って参りました」
「……ほう」
突然、御簾がバサリと持ち上がり、男が姿を見せた。
「勝手に出て行きよったというに、よく言えたものだ」
細身の身体に、真紅の衣を纏った嘉瀬村は、昴を見据えた。
削げ落ちた頬の肉と、白髪まじりの髪と口髭とが、三年という短いようで長い月日を物語っていた。外に出ず日に当たっていないせいで青白くなった皮膚には、年の数の皺がくっきりと浮かんでいる。それなのに切れ目を大きく見開くから、異様とも言える覇気だけは充分伝わってきた。
「儂はそちを探しておった」
一歩一歩近寄ってくる嘉瀬村を、昴は瞬きもしないで見つめた。
「そちが此処を抜け出た理由が未だに分からぬ。子の中でも儂は特にそちを可愛がっておった。何不自由なく日々を過ごしていたはず」
「……その通りです」
「そちしか儂の跡目を継ぐ者はおらぬと、それなりの教養も付けさせた」
「……はい」
嘉瀬村は昴の目の前に立った。
「何故姿を消しおった」
一瞬、押さえ込んでいた感情が沸き上がってきて、昴は動揺した。
本当は叫びたい。お前が全ての元凶だと。たくさんの人々を殺す『戦鬼』だと。藍の家族を奪ったのだと。
おそらく藍なら言ったはずだ。感情のままに、思うことを嘘偽りなく言う素直な彼女なら。だが。
――俺は藍じゃない。
今嘉瀬村を怒らせても何もならない。昴が大事に思う紅の民の為にも、敵である善の神の血を引く藍の為にも、昴はこの国を治める王にならなければならないのだから。
感情を殺してでも、昴は自分の望みを遂げる。
「……幼心に……外の世界が見たくなりました」
風の音もしない沈黙が暫く続いた。
嘘だったけれど、ありえなくはない理由だと思って言った。世間を知らず外の世界を憧れるという貴族の子供は多いと思うのだが。見破られただろうか――?
「……そうか」
堅くなって言葉を待っていた昴はしかし、拍子抜けして思わず嘉瀬村をまじまじと見た。嘉瀬村は昴を見て、ありえないことに、笑った。
「これまでのことは不問に処そう。だがもう儂に心配をかけるな」
瞬間、背筋がぞっとした。
完全に仕切られた風の吹かないこの場所で、なぜか嘉瀬村の衣だけがふわりと揺れた。肌に感じるものではなく、奇異な獣がうごめくような、生温い空気。こんなに近くにいるというのに、昴と嘉瀬村の間には見えない壁が存在していた。やつはその壁の向こうから、昴を凝視している。
――嘉瀬村……?
姿も、声も、彼の纏う気配も、何一つ変わっていない。きっと殺しを好む性癖も健在しているはずだ。それに対して感じる吐き気はもう昴自身承知している。
なのにどうして今更、この男の奥底が気になるのか――。
「儂にはお前が必要だ」
父と視線が交わる。自分とは全く似ていない彼の黒い瞳の奥を見て、昴は愕然とした。
ぎらぎらと光る敵意の色が、まるで鋭い槍のごとく昴に突き付けられていた。奥の奥まで探るような、すべてを見透かそうとしているような、好奇心とは取れない気味悪い威圧。
有り得ない優しさも、それを隠す為のものなのだろう。藍の存在を知ってしまった今、この男に対する憎しみは増しているはずなのに、実の父親に疎まれるという悲しさもまたあった。よく帰って来たと言葉をかけられて不覚にも――嬉しいと思ってしまった。どうあがいても、彼は昴の父親で、それが悲しい。
「今宵はゆるりと安むといい。蘇芳の宮は開いておる」
嘉瀬村はそう言うと、再び御簾の向こうに戻って行った。
城内には、八の建物と少し離れて兵舎がある。西門と北門から城内に入ることが出来、北門から一直線に主道が走り、先にあるのが王の私舎である主堂院だ。その中には九つの宮があり、うち主舎と呼ばれるものが王の住まう場所になる。あとは後宮で、一番高い位である蘇芳の建物は主舎に近い。
基本的に王以外の男が後宮に入ることは許されていない。仕えているのは女だけだし、宮号妃は王のもので、誰かに手出しされてはならないからだ。しかし唯一の例外が、その宮の主の子である。
蘇芳の宮号妃を母に持つ昴は、後宮の蘇芳の宮にだけ出入りを許されており、住まいも宮の一部になる。
主のいなくなった宮だというのに、塵一つない廊も調った庭も香りも、何も変わっていなかった。どこまでも美しい彩色と趣ある造りを見て、昴は苦笑した。その素晴らしさを褒める人はもういない。皮肉なものだと思う。紅蘇は帰って来たけれど昴にそれを愛でる気はない。
女人達が用意した衣に着替えて、昴は深く息をついた。今頃、嘉瀬村の臣下が説明を聞いている所だろう。紅蘇をどうするのかと。
――ここに戻ってきたんだ。
朱雀城。紅南国の王宮にして、政の中心の地。権力への醜い争いと、己の富への執着というどす黒い空気を纏う場所。
「おもしろいじゃないか」
昴は薄く笑った。
その争いに乗ってやる。絶対に王位を継いでやる。この城にまともな人間はいないから、まともなやり方でやっても駄目だ。狡猾にしたたかに、賄賂や罪着せなど、例え昴自身が罪深さに染まったとしても、紅の民の為になるのなら、それは悪くない。
――ごめんな、藍。
きっと藍はこんな自分を望まない。藍自身が自己犠牲に努めていたくせに、昴が自己犠牲に努めようとすると、怒りだす理不尽な娘だった。謙虚も過ぎると嫌味になるだろう。
だが昴はもう藍の為に存在しているのではない。昴は紅の民の為に全てを捧げる。藍の為ではなく、藍から学んだことの為に、昴は生涯を捧げるのだ。
「ごめんな……」
昴に笑いかけてくれた少女が、瞼に浮かぶ。
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