理由
紅南国には、王の妃――宮号妃が八人おり、それぞれに宮がある。位の高い妃の宮から順に、蘇芳、躑躅、萩、椿、藤、撫子、木槿、そして若紫。現在、正妃は六人しかおらず、ゆえに木槿と若紫の宮は使われていないことになっているが、そこには嘉瀬村の妾がわんさかといることは、周囲の知る所であった。
そして王の子だが、これは名の他に生まれを示す号を与えられる。紅、緋、朱、赤の四つと、母親の宮の名を合わせて二つの漢字で作られる。例えば、躑躅の宮の第一子ならば紅躅、藤の宮の第一子なら紅藤、続いて第二子は緋藤、第三子は朱藤、第四子は赤藤となり、紅、緋、朱、赤の文字で生まれた順番を表し、蘇、躅、萩、椿、藤、子、木、紫の文字でどの宮号妃の子かを表すのだ。これは生まれた子が女でも男でも変わらないが、同じ妃から産まれた第五子以降の子は王宮に住むことは許されず、上級役人の養子に入り、臣下となって時代の王を助けるのが普通だ。しかし現実を言えば、同じ妃から五人も子供が産まれることなど滅多にない。
全部で三十二ある号の中で、最も位の高い――つまり、次代の王に最も近いのが、最も位の高い宮号妃、蘇芳の上の第一子、紅蘇になる。
昴は呆然と立ちすくんでいた。
心臓がはちきれそうなほど、凄い勢いで波打ち、そのせいで吐き気を感じた。急に喉がからからになり、何日も食べ物を口にしていないみたいに身体がふらふらし、視界が揺れる。
「莫迦な……」
ようやく出て来た一声がそれだった。祈真は、ありきたりな台詞だな、と呟いたが、そんなもの昴の耳に入らない。混乱しないよう自分自身を制御するので精一杯だった。
「俺が……紅蘇だって?そんな、何をおっしゃるんですか。大司空は人をからかうのがそんなに――」
「生憎、俺は非凡なんでね」
髪を掻き上げながら祈真は言った。
「弓の腕は百発百中、十八の若さで超上級役人、女にもてるわ王に信頼されるわ……真の姿を見抜けるわ?」
「……」
「これほどの逸材いるか?まぁ、藍が横に並ぶと俺の輝きが目立たなくなっちまうがな。あいつ天性で、人を引き付けるもんなー。羨ましいぜ。ったく」
「大司空……」
「おやおや。紅と白の王族同士、仲良くしようぜ。大司空なんて妙な呼び方するな。祈真でいい祈真で」
本能的に、昴は腰元の柄に手を伸ばした。
「……いつ気付いた」
「おっ。認めるんだな。いやー、否定され続けたらどうしようかと思ってたけど、案外あっさりと事が進んじまった……うん、まあおもしろくないけど、とりあえず良しってことで」
「俺の正体を確かめてどうする気だ」
すらりと昴は剣を抜いた。
「紅南国に返すか……それとも今この場で潰す気か」
「潰す、と言ったら?」
相変わらず祈真はおもしろそうに昴を見ている。そしてあろうことか、さっきまであった昴に対しての警戒が彼の瞳から完全に消えていた。本気で面白がっているのが分かって、昴は言葉に怒りを含ませる。
「させない」
言って昴は構えた。普段より速く波打つ鼓動も、こうなれば聞こえてこない。全神経を目の前の男に集中させ、相手の呼吸の間隔を頭に叩き込む。止まったり、早くなったりすれば、昴は剣を振るわなければならないのだから。
「おい待てよ。そう殺気立つなって」
しかし祈真はその呼吸をまったく変えずに、短気なやつだな、と昴を見る。
「冗談に決まってるだろ。じょ・う・だ・ん。本当に潰す気なら臣下集めてその辺に隠れさせとくぜ。気配あるか?ん?ないだろ」
確かに、昴の周辺にあるのは、目の前の男だけだ。だが安心は出来ない。気配なんて訓練すれば誰でも隠せる。
「お前を捕まえる気なんてないし、殺す気なら俺だって武器の一つぐらい持っておくさ。警戒されないようにわざわざ文官の服盗ん――いや、借りてきたのに、これじゃ俺の心優しーい気遣いは何処へ行けばいいっていうんだよ」
言われて祈真を上から下まで目を凝らして見る。確かに武器は持っていないし、袖に重そうな物を隠している様子もない。それでも昴は剣をしまわなかった。
「だったら何故わざわざここに来る?」
「……別に。単なる知的好奇心」
その時、祈真の表情に僅かに暗い色が走ったのを、昴は見逃さなかった。祈真も自分の面に油断の色が出たことに気付いたのだろう。
深く息を吐くと、分かった、と呟いた。手をひらひら振りながら、いとも簡潔に言う。
「莢生は俺の弟で王だ。普通なら長子である俺が王にならなきゃならんのに、俺の我が儘であいつになってもらった。二子が王になるだけで不満を持つ者もいるのに、加えてあいつは足も悪い。命を狙われやすいんだよ。藍姫はともかく、お前は得体が知れなかった。だから調べさせてもらった」
随分と時間がかかったんだぜ、と祈真は溜息をついた。
「今日になって俺の部下が報告してくれてね。随分上手く撒いてるみたいじゃねーか」
「……もう三年経つ。俺のことを良く知る者は、俺を探そうとは思わない」
昴は一応剣をしまった。この光景を誰かに見られたらまずい。端から見たら話をしているよう、しかし祈真には未だ警戒していることを分からせるよう、柄から手は離さないでおく。
「そんなに柳瀬は酷いのか」
「酷いなんてものじゃない」
真面目くさって聞く祈真に、昴は吐き捨てた。
「あいつは人間じゃない。外部には漏らされないようになっているが……一日に一人は必ず殺す。適当に人を選んで来させて、女でも子供でもなりふり構わない。そして突然正気になって、何でこんなことをしてるんだ――とか、呆然自失したかと思えば、次の瞬間には高笑いして、次に殺す人間を想像して血も拭かないで剣を撫でる」
祈真は思いっきり顔をしかめた。
「柳瀬王が?」
「ああ。一重に王の位から引きずり落とされないのは、神の血を引いているからというのと、あとは政だけは碧にも劣らぬ程円滑に進める力を持っているからだ。それにだけ関して言えば、あいつは並ならない力を発揮する。そのおかげで紅南国は碧の国の次に夜叉の出没が少ない。だから誰もあいつを討たない」
小さい頃からずっと見て来た――と、昴は呟く。誰にも言ったことがない言葉が、次々に口から飛び出していた。
「あれが自分の父親だなんて認めたくなかった。後を継ぐなんて、死んでも嫌だった。だから祖国を捨てた。俺がいなくても、野心家の弟がいるから、多分あいつが跡目を継ぐだろう」
「紅躅か?躑躅の雅美宮号妃の一人息子、宏夜?」
「そうだ。よく出来た弟だよ。お前の弟と同じ年だ」
祈真は顎を押さえると、何やら考え始めた。勢いに任せて喋った昴は、大きく息を吸った。冷たい空気が喉から肺に入って、少し苦しかった。
――嫌なこと思い出してしまった……。
柳瀬嘉瀬村。紅南国の王にして、昴の父。何よりも忘れたい、抹消してしまいたい事実なのに、それだけは叶わぬ願いなのだ。昴が生きている限り、自分は紅蘇であり、嘉瀬村は父であり続ける。
「いつ藍姫に告げるんだよ」
祈真の言葉に、昴は鋭く反応した。
藍から全てを奪った嘉瀬村の息子が自分であると、善の敵である悪の神の血を自分は引いているのだと、昴は告げなければならない。どうしても話す決心がつかないのはそのせいだ。藍を苦しめることになるだろうし、傷付くのは多分昴も同じだろう。拒絶されて、そこで全てが終わる。
「……関係ないだろう」
視線を反らして、昴は呟いた。自分でも分かる程、声には苛立ちと焦躁が篭っていた。
「ま、そりゃそうだ」
しかし、祈真は拍子抜けするほどあっけからんと言うと、昴に寄ってくるなり、ばしばしと肩を叩いた。
「これはお前の問題だもんな。例え何があっても俺は口だししねーよ。まあ、殺し合いになったらさすがに止めるけど。ほら。俺って一応大司空だし」
しっかりと嫌味を言っておきながら事実を付いているので、昴は反論出来ずに睨み付けるしか出来なかった。
「安心しろ。知ってるのは俺と絶対口外しないと信頼出来る部下が一人だけだ。報告書も既に処分してある」
「……そうですか」
ここになってようやく、昴は警戒を解いた。祈真といると本来の調子を失う昴だが、信頼は出来ると思う。どちらかというと、藍と同じような直球型の親切家のような、そういう人物だ。ただし、今後の祈真の動向と自分の周囲の気配には必ず注意することにする。
「ああ。んでさ、お前俺に用があったんだろ?」
まるで今までのことは全く気にしていないようだった。いや、それどころか、昴が王族であることも、もはや祈真にとってはどうでも良いことらしい。楽しそうに笑いながら、そういや莢生のやつ求婚してたなあ――などというどうでもいいことを呟いていた。
「はい。緑北国について聞きたいことがあるんです」
祈真が何事もなかったかのように、今まで通り振る舞うのであれば、いちいち昴が態度を変える必要もない。彼が昴の身の上を明かさない限り、ここでは大司空と克羅の姫の従者だ。――ありがたいことに。
「藍姫が、紅が次々と戦を仕掛けているのは善悪二つの神が甦ったからだと言っています。その二つの神を探していると。ですからこのひと月の間、城に閉じこもって情報を集めていました。二つの神について緑が何か知っているということに気付いたのは、随分と前です。そしてつい先程、緑には口伝が伝わっているという文脈を見つけました」
今頃は書庫に戻った藍も、置きっぱなしになっている書簡を見ているだろう。
「緑北国の口伝ね」
祈真は反復した。昴は頷いて、更に追い討ちをかける。
「先程、仁多王もおっしゃっていた。白にも緑にも関わる紅の不穏な動きを掴んでいると。それは緑の口伝と関係があるのではないですか?紅南国の動きの不可解さは、緑の口伝で説明出来るのでは?……何れにしても、緑なしではこの変わりゆく禍の世を説明出来ません」
ふうむ、と祈真は顎に手を当てて考えていたが、わざとやっているのは目に見えて分かっていた。
「教えていただけますか?」
昴はもう一度訪ねた。
厳しい顔を崩さない昴を祈真は見ると、お得意の悪戯をする子供のような笑みを突如として浮かべた。
「いいぜ」
そして承諾する。
「……本当に?」
「ああ。お前らの探している資料は書庫にないからな。国の秘密事項として、一般人は閲覧出来ないようになっている。いくら探しても、お前らが情報を引きだすのは無理だったってこった」
祈真の口から飛び出した爆弾発言に、昴はあんまりのことに言葉を失った。
――じゃあ、一ヶ月近く調べて来た俺達って……。
霧を掴もうとしていたも同じなのだ。なんて無駄な時を過ごしていたのだろう。
「そんな気を落とすなって。誰にでも失敗はある。うん。それより目指すは未来だ。だろ?」
悲しいを通り越して泣きたい昴は、深く脱力した。けらけらと遠慮なく笑いながら昴をばしばし叩く祈真も、白西国一の景色もどうでも良かった。
「おい昴。お前らは今から白西国の機密情報が見れるんだぜ?もっと嬉しがれよ」
もう消えてくれ、と誰かに懇願したいくらい祈真は陽気に言った。微かに顔をあげると、目の前の男は得意そうな笑みを浮かべて、声高らかに言った。
「俺の先祖が書いた書物には、善悪の神について多少の情報が載ってるぜ。白西国に伝わる二つの神についてはそれしかない。北の口伝だが……北に行かないと分からん。緑の王はけちでねぇ、文字にすることを許してくれないらしい……。うん、仕方ない。芽月に入ったら橘の都へ出発するか。うわ、そんな嫌そうな顔すんなって。俺も付いてってやるから。ほら、直に橘王に請えばなんとかなるだろうし」
――雪になって太陽に溶かしてもらう方法はないものか……。
既に現実逃避を始める昴には、もはや祈真の言葉は飛び交う邪魔な虫も同様だった。
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