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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第3章 〜西の古城 北の口伝〜
29/63

紅蘇

 新しい年が始まった。まだ雪の溶けぬ中、都では新月の祭が夜中なのにも関わらず行われ、城では白虎への祈りの儀式が行われた。夜中から明け方まで続けられたそれに、藍も昴も参加したが、藍はともかく昴は上の空で、読み上げられる祝詞にも水晶や翡翠で出来た煌びやかな白虎の石像にも全く目を向けず、つい先程まで調べ漁っていた緑北国の資料を頭の中で必死に処理していた。

 これまでに読んだ緑北国に関する資料の中に、藍の求める善悪の神に関係するものはなかった。どれも、碧から受け渡された国が緑である――という文字しかなく、細かくは書かれていない。わかったことと言えば、緑には巫女の他に術者が多いということぐらいだ。神祇官とは違い、彼等が崇めるものはない。神ではなく、自らの力と精神を尊ぶ者をそう呼ぶ。

 しかし、それだけでは何の事実も分からない。

 日が昇ると同時に徹夜の儀式は終わった。藍と昴は眠っていないにも関わらず、時間を惜しんで再び書庫に向かった。

 昴が緑北国のことを熱心に調べ始めたことを、藍は意味不明の行動と称していた。今までずっと乗り気でなかったのに、突然書庫を漁りはじめて、やっと真剣に手伝ってくれるかと思いきや、全く関係ない緑北国の資料を漁っている――確かに藍からしてみれば肩透かしもいいところだろう。むしろうざったいはず。もちろん、そんなことには昴は気付いていないふりをしているが。

 新月になっても、どんなに晴れた散歩日和だろうと、誰に何と言われようと、藍と昴は書庫から動かなかった。唯一、外出という外出をしたのは、あまりに篭りきっているのを見かねた王が、市でも祭でもなんでもいいから少しは余興というものを知れ、という書き置きと共に半強制的に藍と昴を守衛に城の外に放り出させたぐらいだろう。もっとも、その書き置きの印と書名以外は、おそらく大司空とかいう偉い人が書いたものらしかったのだが。あえてそこは突っ込まないで、藍と昴はお忍びで都巡りというなかなか緊張感のあるものを体験させてもらった。

 朝起きて書庫へ、昼食を軽くを食べ書庫へ、夕食を食べて松明を持って書庫へ、月が少し昇ってから部屋に戻り、それぞれ幼い頃からの習慣である剣の型の確認をして、感覚を鈍らせないようにしてからようやく眠りに就く。

 そんな生活を繰り返して、気が付けば仁多に来てからひと月半が経過していた。

 恐ろしいことに、使えそうな資料は一切見つからず、藍も昴もいい加減うんざりしていた。一応今日も書簡を手にして眺めているが、全く頭に入ってきていない。かび臭さなんぞとっくに気にならなくなっていた。むしろ今なら昴自身が臭いかもしれない。いや、もうかびが生えているかも。

「……それだけは勘弁だよな」

 一人呟くと、まるで待っていたかのように、藍がこちらを向き、そのまま溜息を付いてばったりと突っ伏した。ごんっというすごい音がしたが、心配する気も突っ込む気も昴には起きなかった。

「なあんで何も見つからないんだ……」

「資料がないんじゃないか?二人合わせてもう数百は見たぞ」

「白西国の考察書にもなかったんだよな……」

 うう~、と唸り声をあげ、藍は目の前の本を嫌そうに押し退けた。

「……やっぱり無理だったんだろうか」

 返答することが出来ずに、昴は腕を組んで藍を見た。

 どこか遠くを見ている藍の考えていることが手に取るように分かった。本当は戦などしたくないのだ。民を救うはすなわち国を取り戻すことを意味し、戦は必須。そして戦には死も付き物。鈴の死を乗り越えるだけの期間も経っていないのに、確実に誰かが死ぬことを承知で全てを任されている。

「……もう少し頑張ろう」

 言って昴は再び書簡を引き寄せた。

「数百で駄目なら数千探せばいい。それでも駄目なら万でもなんでも。そこまでやってなかったら……この書庫燃やしてやろう」

 藍はきょとんとしていたが、すぐににっこりして、ありがとう、と呟き、再び文字の羅列との格闘を始めた。

 官に藍が呼ばれたのは、そのすぐ後だった。王が呼んでおられますという言葉がかけられ、驚く藍と昴に、こちらです、と声がかかる。

「もしかして、会議の結果が出たんじゃないか?」

 昴が言うと、藍は眉をひそめた。訝しんでいるのではなく、おそらくは不安からきている苦い表情。

「……俺も行こうか」

 藍の腕の傷は良い医師の良い治療のおかげで、もはや完全に塞がっていた。まだ本調子ではないものの藍も腕力を取り戻しているし、毎晩剣を振るって稽古もしている。

 藍が巫女だというのもあってか、彼女は気配や周囲の空気には敏感らしく、寝ているときでもそれは変わらないので、最近昴は王に用意してもらった部屋で眠り、護衛の任も少し軽くなっていた。

 月華を常に携え、いつでも戦闘体勢に入れる藍にはもはや護衛はいらないというのが二人の暗黙の了解だった。それに誰かが藍の暗殺を狙っていたとしても、狙うなら今ではなく藍が怪我をして動けなかった時に決まっている。

「いや。いいよ。それより調べておいて。もし本当に会議の結果が出たのなら、此処に来ることももう出来なくなるから」

 昴の言葉に藍はそう返した。

 無理矢理笑みを浮かべるその姿が、高貴で痛ましかった。これからの仁多王の言葉で、碧の民の行く末が決まるのだから、並々ならぬ恐れが鉄の塊みたいに藍にのしかかっているに違いない。

「……わかった」

 今の昴の気持ち――何があっても俺は藍の傍にいるから――とか、柄でもないくさい台詞を言いたい自分がいるから不思議だった。言えないのは目に見えて分かっているけれど。

「王との話が終わったら昴に一番に報告する」

 そう言って藍は官の後に付いて行った。

 ――王の返事が良くても悪くても、俺が藍の傍にいられる時間はもうあと僅か……。

 出ていく藍の背中、そして閉まった扉を見つめながら、とうとう全てを藍に語るときが来たのだと昴は思った。自分の意思で言えたらと思っていたのだけれど、それはやはり無理だったらしい。時間に拒まれるなんて我ながら情けなかった。

「しかもこんな時に自分のことしか考えられないなんて……」

 肘を台に付いて額に手を当てる。藍のことだけを思ってやれない自分に腹が立った。これから藍は現実と向き合って戦っていかなければならないのに、昴は己の望みのことばかり考えていて。

 ダンッと拳で台を叩くと、衝撃で書簡が落ちてころころと転がった。もはや昴に道は残されていない。藍を思うなら、昴の中にある感情を捨て去って、誠実に向き合わなければ。

 落とした書簡を拾うため昴立ち上がった。最後まで開ききったそれを元に戻そうと手に取り、そこである文章に気付く。

「……これだ」

 突然差し込んで来た光に浮かれている自分が、頭の中に浮かんだ。実際は握り潰さんばかりに書簡を握りしめ、凍ったように動かないでいるはずなのに、今の昴にはどちらも大差ないように思えた。

 ――誰に……やはり大司空か……?

 書庫の担当の官に尋ねるのも有りだが、おそらく昴を警戒して詳しく教えてもらえない。もしかしたら官自体がこの意味を分からないかもしれない。

 気が付けば昴は書庫を飛び出していた。大司空に会って話を聞いて、そうすれば何か分かる気がする。ある種の勘だった。

『ただし、どうしても白西国が得ることが出来なかった神々の物語の中に、緑北国の口伝がある。其国には何十年にも渡ってその口伝を文字とさせてもらうことを求めているが、未だ色良い返事は貰えていない。ちなみにその口伝は、緑北国王である橘の姓を持つ者が、王位継承の際に次代の王に受け継がせる、形のない王の証と言われている』

 ――口伝……そんなものが橘に伝わっているのか。

 紅南国は緑北国と国交がなかった。だから昴も緑北国についてはあまり知らないし、碧の国もなかったところを見ると、藍も同様だろう。やはりここは建国当時より関係のある白にしか分からないものがあるに違いない。

 城の廊下を全力疾走していた昴だったが、突然立ち止まった。何も考えずに書庫を飛び出して来たのはいいけれど――。

 ――大司空って普段何処にいるんだ?

 何も知らないで来たことに今更気付き、思わずがっくりとうなだれてしまった。最近自分はどうもぬけている気がする。

 己の未熟さを恥ずかしく思いながら、昴は仕方なく近くにいた女人に声をかけた。


 道案内をしてくれるという好意に甘えて、大司空の部屋まで行ったは良かったが、ほぼ最上階にあるその部屋には誰もいなかった。女人はぽかんとしている昴に、

「大司空は放浪するのがお好きですので。あの方の気が向くまでここで待つか、自ら探すかしかありませんよ」

 という厭な現実を突き付けると、スタスタと元来た道を行ってしまった。

 放浪って――と呟く一人残された昴は、どうしようかとあれこれ考えていたが、結局は探しに行くことに決めた。面倒極まりないが、あんな男の為に時間を割いて待つだけよりかはましだろう。

 好奇心も重なって、昴は城上部の捜索を始めた。昴がいつも休んでいる賓客用の部屋がある階とは違い、此処はかなり閑散としていた。

 ――なんだか……寒いな。

 王族である大司空がいるということは、おそらくは王や王院もいるのだろう。遠慮して誰も近付かないのかもしれなかったし、一般人は立入禁止なのかもしれない。そういえば、ここまで案内してくれた女人は、何やら武器を持った男と話してから階段を登っていた気がする。

 ――王族が住まう場所なら、普通は温かいだろう。

 あまり重ね着をしていなかった昴は思わず身を縮ませた。こんなことになるなら、袍でも羽織っておけば――と思い、角を曲がった所で、昴は思わず立ち止まった。

 目の前には一面の銀が――いや、反射してよく見えないが、これは雪だ。仁多の都が一望出来る、壁のない、手摺りで囲われた廊。

「……すごい」

 寒さの原因は、空気が直接外気に触れているからだと分かったが、もうそんなことはどうでも良かった。目の前の光景に心奪われ、昴の足は自然、もっと良く見える方へと進んでいた。

 ――これが仁多か……。

 はるか遠くの地平線が見えることを考えると、今昴が立っているこの場所の高さは、下手するとそこら辺の山より高いかもしれない。それに気付いて、思わず手摺りから身を乗り出して真下を覗いてみると、想像以上の光景で、一瞬目の前がくらくらした。

「この階に王族が住むのも分かる……」

 思わず夢中になって、自分がここに来た目的を忘れそうになっていたその時、聞き慣れた声が聞こえてきた。あまりに唐突だった為、昴は驚き慌てて脇の廊に引っ込んだ。

「……申し訳ありません。なりも整えずに」

「構いません。ほとんど私的なものですから。よけいな官もおりませんし、自室に招いたのも公式なものではないからです。こちらこそ申し訳ありませんでした……っと」

「あっ。大丈夫ですか?」

 仁多王と藍の声だった。おそるおそる覗くと、王が自らの手で動かしていた椅子の車の車輪が、何かに引っ掛かってしまったらしい。それを藍がなんとか元に戻そうとしていた。

 ――なんで隠れたんだ……俺。

 別に何も悪いことはしていない。昴は大司空を探しに来ただけだ。確かに王の自室傍まで近寄るのは無礼極まりないが、そんなことを言ったら一国の姫である藍を呼び捨てにしている方がもっと無礼だろう。

 ――そうだ。どうせなら王に大司空はどこにいるか聞けばいいんだ。

 二人は兄弟なのだから、お互いの行動を把握しているかもしれない。とっとと聞いて、とっととこの場を離れなければ。王と藍はこれからそれぞれの国に関わる大事な話をするのだから。その証拠に、二人の周りにはあの王にしては珍し過ぎる程誰もいない。

 あ、取れました――と、呑気な声で笑っている藍を盗み見て、昴は足を一歩踏み出した。が――。

「貴女とずっと話したかった」

 という王の言葉を聞いて、再び足が戻ってしまった。

「私もです」

 王と藍は、二人して城下の見渡せる高い廊に並んだ。さっきまで昴が立っていた場所だった。

 こそっと顔だけ出して藍を見ると、彼女は落ち着いていた。そのせいもあるからだろう、纏う雰囲気は柔らかく、温かい。

「美しい都です」

 しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは藍だった。昴は言葉を聞き流さないよう、矜持も何も捨てて、耳をすませた。

「正直驚きました。噂には聞いていましたが、まさかここまでとは……。街を囲む城壁は――」

「第二関です。第三関はずっと遠くにあって、その枠内が仁多になります。第一関は城の城壁ですね。ほら、あれです」

 王は答えながら下の方を指差した。

「完成するまで随分時間がかかったと史実にはあります。第一、第二、第三のこの三つの関のおかげで、仁多は三百年近くの歴史に耐えてこられた」

「立派な先祖をお持ちです」

「……善の神の末裔に言われると、目覚めが悪いですね」

 くすくすと二人は笑いあった。誰もいない廊で、その声は昴の耳によく響いた。

「……わたしも驚きました」

「何にですか?」

「克羅の姫が貴女だということにです」

「それは……そうでしょうか?」

「もっと気高くていらっしゃるのかと……ああ、誤解しないでくださいね?貴女が気高くないと言っているわけではありません」

「言われても私は一向に気にしませんが――」

「気にしてください。わたしが嫌なのです」

「……仁多王は変わっていらっしゃる」

「不本意ながら、よく言われます」

 王は面白そうに言った。それを見た藍は、またもやくっくっと笑った。

「屈託のないことに驚きました。わたしのような青二才にとってしてみれば、貴女に流れる血は、手の届かぬ程高いところにある、敬える存在なのです。おまけに克羅の姫といえば、剣術、舞にも優れ、その容姿と器量から碧の宝だと称えられる程だと聞き及んでおりました。ですから、そんな方がわたしにむかって笑むなんて、考えたこともなかった……」

「それでは私が人間ではないみたいではないですか」

「……それほどの美しさをお持ちなら、仙女に例えられてもおかしくないでしょう」

 藍はきょとんとしてから、次の瞬間真っ赤になった。

「……王は口が達者でいらっしゃる」

「私は思ったことしか言いません。時々兄上のようになれたらどれだけ楽だろうと、気に病むこともあるのですから」

 至極真面目に王が言うので、藍はますます頬を赤くしたが、コホンと咳ばらいしてごまかした。

「王は御歳いくつにおなりですか?」

「十五です」

「本当に?私も十五なんです。奇遇ですね」

 にっこりと藍は笑ったがしかし、それを聞くと王の方は驚いて藍を凝視した。

「え?十五歳?」

「……?ええ。奇遇すぎます?」

「いや……」

 王が口元を手で抑えたのを、昴は遠くから見た。

「……貴女は十五で一人国を追われ、長旅を経て、民を救うべくこの地へやってきたのですか」

「仁多王?」

「恐れ入った。わたしなら絶対に出来なかった。国を維持するだけでも多大な労力を使うというのに、貴女は遥か上を走っておられるのか……百万の民を救う……それを目指して旅をすることなど、とてもわたしには出来ない。同じ歳なのに、こうも違うのか……」

 苦笑する王を、藍はじっと見ていた。自嘲気味のその表情から、昴には彼女が何を考えているのか、手に取るように分かった。

「……最初は復讐したかったんです」

 王が顔をあげた。

「身内や友や民を失い、行き場をなくして私は悲しかった。だから紅南国を怨み、柳瀬王を殺してやろうと思った。そのためには、白西国の力を借りるのが手っ取り早い……」

「克羅の姫……」

「白西国には、紅南国は無慈悲だ、貴国は碧と同盟を結んでいたはず、そもそも悪の神の末裔をほうって置いたこと自体間違いだった――なんとでも言ってたきつけられると思ったのです。非道なのは私の方です。狡猾で愚かだと笑ってください」

 藍は苦笑する。

「しかも私の復讐とは、父母の仇ではなく、私自身から全てを奪い悲しませたことに対しての完全な私怨なんです。それに気付いていながら、日々会う人に無情に接し、時が過ぎれば忘れようとした。結果、一人の女の子の命を奪ってしまった――」

「そのことは……兄から聞きました。あなたのせいではありません」

「私のせいなんです。分かって満足しているわけではないけれど、鈴の命はあそこで尽きるものではなかった……」

「鈴」

「私を庇った子の名です。とても聡明で、優しい子だった……。昴は私とあの子が似ていたと言っていた。だから、私はあなたに助力を求めた。あの子のおかげで、私は道を誤らずにすむ」

 藍は遠くを見つめていた。ほとんど独白に近かった。

「父も母も立派な方だった。自分が死んだからといって殺した者を憎み、未練を残すような人ではなかった。それを一番分かっていたのは彼等の愛情を一身に受けていた私だったのに、私は彼等を弄んで……私情に走った。悲しくて悲しすぎて、涙ではなく怒りでその悲しみを消そうとした」

 けれど、と藍は続ける。

「それはとても虚しいことだと薄々感じ始めていました。昴に会って……うん、昴に会ってから、私は少し変わった……かな?」

 昴は慌てて出していたに頭を引っ込めた。

「私は彼を駒としか見ていなかったのに、昴は私に優しくしてくれた。彼には彼の理由があったのだけれど、でも……私は嬉しかった」

 気付いたのは最近ですけれど、と笑い声を含みながら、藍は言った。

 二人からは完全に死角になった場所に昴がいることは、絶対にばれない。いくら藍が巫女でも、気配が読めてもだ。昴は気配を消せるし、何よりも藍は普段昴を警戒していない。昴の気配に慣れてしまっているから、気付かないのだ。だから、もう一度顔を出して二人を伺うのは訳無いことだったのだが、今の昴にはその気が起きなかった。

 壁に背中を預け、ずるずると座り込む。床が冷たくて、指先が痛かった。

「藍……」

 昴は呟いた。これほど自分の身を憎く思ったことはない。どうして昴は紅南国の者で、どうして藍は克羅の姫なのだろう。苦しくて、情けなくて、今すぐ藍の側に駆け寄って謝らなくてはいけない気がした。

「兄が……喬将軍師をご存知ですか?彼が私を逃がす直前にこう言ったんです。お前にはお前の幸せを掴む権利がある――と。その時はそれどころじゃありませんでしたし、ずっと思い出すこともなかったのですが、今思えばそれが父母を含む私を大切に思ってくれた者たちの全てだったんです」

「全て……」

「克羅の姓を捨て、一人の女として生きてほしかった」

「えっ?」

 仁多王は驚いて聞き返した。

「克羅の長殿が?しかしそれは……」

「克羅の滅亡を意味します。だから誰も口に出しませんでした」

 藍は仁多王の言葉を繋いだ。

「今となっては、父母らにそれを聞く術はないし、聞けたとしても答えてもらえません。けれどこれは事実なんです。……私の思い違いだと笑う人の方が多いでしょう。克羅の姓の重圧に耐えられぬ姫が自己に良い理由を作っている――そう思われても仕方ないし、その方が筋が通っているように見えます。だがなんと言われようと、私は死んでいった大切な者達の為にも、幸せになります。毎日笑って過ごします。それは彼等の望みであり、私の望みでもある。父の為にも、友の為にも……鈴の為にも」

 しん、と沈黙がおりた。聞いていた昴は全く動かなかったし、二人も身動きした気配はなかった。

 長い沈黙を破ったのは、仁多王だった。

「ならば何故わたしに助力を求む?」

「……民を救う為に」

「貴女の幸せは一人の女として生きることではないのですか?」

「結局私は愚かなのです」

 はぁ、と仁多王は溜息にも似た息を吐いた。

「民の為に自らの幸を捨てるのですか」

「必ずしもそうではありません。民の幸せは私の幸せと同義です。綺麗ごとではなく、これは私の心そのものです」

 藍は深く息を吸った。

「王は民の為にあるもの。そして私は最後の克羅であり、巫女であり、碧の宝です。私だけ幸せでいても、目覚めが悪い――これは私の身勝手な心です」

 その言葉を聞いて、昴は顔をあげた。

 ――藍の望みが……民の幸せ。

 では、藍は何も矛盾していなかったのだ。昴はずっと、藍は乃依に言われたことを聞き入れつつ、それを成していないのだと思っていた。藍の幸せが民を救うという重圧にあるとは思えなかったし、むしろ責任と不安とで辛い思いをしているのではないかと、そう思っていたのに。

 藍はずっと藍でいたのだ。彼女の思いのまま。義務や責任といった言葉が藍にとって皆無だったとは言えないけれど、少なくとも己を二分にぶんして混同することはなかった。

 以前よりずっと、強くなっている。

 ですから――と藍は突然言葉を止めた。

 昴はもう一度二人を見た。藍は優雅に片膝を折り、静かに頭を下げる。

「碧の国克羅芝韋が第一子、克羅藍、この場をお借り致しまして今一度、白西国君主、仁多莢生王に申し上げます。我が民を救う為、同盟国としてお力添えを頂きたい。何とぞご助力を」

 決然と藍は言い放った。相手を威嚇するでもなく、譲歩するでもなく、威厳と敬意を込めて。

 藍も仁多王もそのまま動かなかった。遠く離れた位置にいる昴でさえ、息一つしなかった。

「もし……」

 仁多王が口を開いた。藍は顔をあげた。

「もしわたしが、貴女を妻に、という条件をつけたらどうします?」

 えっ――と、昴は驚いて身を乗り出して、慌てて引っ込めた。王の言葉が、口から入って全身を駆け回り、胸にグッサリと突き刺さった。

 ――藍が仁多王妃に……?

 冗談だろう、と思ったが、昴は二人を見てその言葉を飲み込んだ。藍は照れることもなくじっと王を見つめていて、王の瞳にも嘘偽りがない。

「全面的に援助して、貴女の望む碧の民の平和を実現出来ますし、先程おっしゃっていた、一人の女としての幸せ――これも手に入ります。私の足はこの状態ですが、出来ることはたくさんあります」

 藍は唇を真一文字に結んで仁多王を見ていた。

 一生続くのではないかというほど、二人は見つめあい、そして唐突に、藍は笑った。――どこかぎこちない笑みだった。

「貴殿のおっしゃるままに」

 再び藍は頭を下げた。昴はぼんやりと二人を見つめていた。

 ――良かったじゃないか。

 無理矢理笑顔を作って、昴は深く深呼吸した。突然、体に感覚が戻って来て、寒さのあまり鳥肌がたっていることに気付いた。

 ――藍にとっては願ってもない話だ。

 仁多王の人柄は温厚だし、謙虚だし、彼なら、少し無鉄砲な藍を優しく包み、いつでも傍にいて大事にするだろう。会って間もないのに、二人は意気投合しているし、はたから見て二人並んでいても違和感は全くない。むしろお似合いで、小鳥が寄り添っているような、仲睦まじい、そんな雰囲気がある。

 しかし。

「……克羅の姫はお莫迦さんですね」

 は、と間抜けに聞き返す藍の言葉が耳に入った。昴も慌てて頭をあげる。こちらもまた、は、と一人思わず声をあげた。

「優しすぎるのですよ」

 仁多王は優しく笑った。

「民の為とはいえ、貴女の一生に関わることを、返事一つで肯定してはだめです。それにこんな悪どい条件、聞く価値もありません」

「仁多王?」

「全面的に協力致します。これは碧だけでなく、白にも……先には緑にも関わるものになる。紅に関する不穏な動きを我が国は掴んでおります故、利害も一致します。まだ正式に決定したわけではありませんが、会議もその方向で進んでいますから」

「……はい。感謝します」

 今度は、満面の笑みで深く藍は頭をさげた。

「気を付けてくださいね」

 仁多王が真剣な声で言うので、昴も藍も、彼を見た。

「その優しさを利用する者もいるでしょう」

 言葉が見つからないようで、藍は少し困った顔をして王を見ていた。王はそんな藍を見て面白そうに笑むと、では、と頭を下げ、自ら椅子の車輪を回し、廊の向こうへと消えて行った。呆然とその姿を眺めていた藍だったが、突然ハッとすると、慌ててすぐ傍の階段を降りて行った。資料漁りの続きでもするつもりなのだろう。

 昴はようやく大きく息をついた。

 盗み聞きをした後悔が、今更昴に押し寄せて来た。しかしその波はたいしたものではなく、せいぜい潮が吹き付ける程度だった。それよりも、どぎまぎして聞いていた自分を思い出して笑ってしまう方が気分に沿っていた。

 ――阿呆か……。

 何でこんな展開になったんだろう、と思う。確か昴は大司空を探しに来ていたはずだ。それが国の主同士の話を盗み聞きするはめになるなんて。しかも、あの内容――。藍は昴を必要としてくれていて。それを聞いて嬉しいと思った自分の気持ちに偽りはない。仁多王の求婚の言葉に妙な疼きを感じたのも――。

「思ってはいるが伝えられないんだろ?全く、女々しいやつだな」

 心臓が飛び出るのではないかというくらい驚いて、昴はものすごい勢いで振り返った。見れば、壁に背を預け、腕を組んだままこちらをおもしろそうに見ている――。

「大司空……」

「ま、相手が克羅の姫様じゃ、しょーがねーか」

 ニッと興味の対象そのもので昴を見ている祈真に、昴は自分が安堵しているのを感じた。どうやらお咎めはないらしい。盗み聞きの罪で引っ立てられたらどうしようかと、瞬間的に思ったのだが、そんな気配は微塵も感じられなかった。

 しかし、捕まる心配がないことが分かると今度は、祈真の言葉が頭の中で響いた。

「……別に俺は」

「藍姫のことなんか好きじゃないって?」

 言って祈真は大きく笑った。遠慮のないその様子に、昴は少しムッとする。

 藍のことを思っている。それはもちろん当然のことだ。これまで長い時間一緒だったし、昴は彼女の味方。それが藍にとって良いことでないのは分かっているが、だからこそ昴は今だけ傍にいられる。

 しかし、今祈真が言う「思う」というのは、昴が藍に対して――恋心を抱くという意味だ。そんなことは断じてあってはならない。ありうるはずがないのだ。藍に対する「思い」は自分で制御し、抑止している。――昴には資格がない。

 昴が黙っていると、祈真もようやく笑うのを止めた。全てを知っているような、悟ったような表情だった。

 そしてふと、昴は気が付いた。いつもの祈真ではない。冷たく、昴を探るような――今までとは違う警戒するような目。

「好きじゃない、ではなく、好きになれないんだろ?」

 祈真は昴から目を離さない。昴も昴で、祈真に対する警戒心が、一気に沸き上がってくるのを感じた。

だが遅かった。

 祈真は組んでいた腕を解き、腰にあてた。わざとらしくない、むしろ自然すぎる行動だったので、それは逆におかしいと昴は思った。祈真の表情は相変わらず楽しそうで、けれど眼光は鋭く――。

「違うか?紅南国柳瀬嘉瀬村が第一子、紅蘇こうそ柳瀬昴よ」


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