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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第3章 〜西の古城 北の口伝〜
27/63

手合わせ

「俺は一度碧の国に行ったことがある」

「……白からの使者が来たのは二年前の新月の祭の際だったと思います」

「そうだ。時の王に命じられて、身分を隠して碧の国の使節に紛れ込んだんだ。先の為に碧を見てこいとのことでね」

 そんなことがあったのか、という声がどこからかあがった。

「巫女姫の舞も見たぜ。遠目で顔はよく分からなかったから、それがお前だと断言することはできねーが、見事なものだった。今この目で見たものとほとんど変わらない」

「二年前よりかは上達していると自負していたのですが」

 抜け目なく藍がにっこり笑うと、祈真もからからと声をあげて笑った。これは失礼――と悪びれなく言う。

「だが……俺も舞だけでは納得出来ないんでね。一つ手合わせ願おうか」

 スッ――と祈真が構えた。再び間がざわめきたち、大司空がっ!?という声がいくつもあがる。普段こういうことはしない性質たちなのだろうか。にわかに信じられないといった風の驚愕を昴は感じた。

「碧を訪ねたその時、俺の剣の師は白の代表として碧の守将喬と手合わせした。確か彼は碧の国随一の剣術士でしかも、碧の姫は彼を師として直に剣を仕込まれたと聞いている」

 藍は祈真をじっと見据えていた。その揺るぎない瞳を見てだろう、祈真も笑いを不意に引っ込め、まるで別人のような声で一言、

「弟子同士の対決になるわけだ」

と言うなり、素早く走り寄った。

 声をあげる暇もなかった。

 藍は鞘で祈真の太刀を食い止め、素早く柄を握ると、刹那に抜き払った。あまりに早過ぎて、昴でさえ目で追うのがやっとだったにも関わらず、祈真は軽々と回避し、後退した。

 もはや誰にも止めるのは不可能だと思われるほど、剣を持つ二人は意識を集中し、とてつもなく鋭い空気を放っていた。武器とは無縁の文官は無意識に後退しているし、今までは心地良かったはずの鉄と鉄がぶつかる音は、今や恐怖の旋律と化している。

 藍は鞘を投げ捨て、剣を両手で構えた。いつもの構えと違う彼女に、昴は僅かな引っ掛かりを覚えたが、その理由を言及するには至らなかった。目の前の攻防に意識を捕われて、事実は忘却の彼方へと忘れ去られしまっていた。

 明らかに藍の方が不利な手合わせだった。男と女。十八と十五。軽くて動きやすい袍と、だらだらと長く重い袿。最初から負けが見えていた。今現在だって押されているのは藍で、表情にも余裕が感じられない。ぶつかる度に火花を散らし、耳につく音をたてる鋼。昴は眉をしかめた。

 ――無理だ。

 大司空の策略だ、と王は言った。少女が真に克羅の姫であると皆に証明する為の。しかし、この状況と状態――むしろ藍を貶ようとしているようにしか見えない。――勝てない。

「くっ……」

 ガキンッと一際強い一撃が祈真から繰り出されて、それを受け止めた藍から、僅かな声がもれた。汗が頬を伝っている。強い力に必死で対抗しているのは明らかだった。

「このぉ……!」

 ここに来て初めて藍は声を荒げ、もはや力任せとしか言いようがない程乱暴に剣を振り払った。さすがの祈真も押し返すことは出来なかったのか、受け流し、間合いを取る。

 連続して続いていた音が止まり、代わりに荒い呼吸だけが響いていた。片方の表情は秋風を浴びているかの如く爽やかで、片方の表情は苦痛に満ちて紅潮している。

「脱げ」

 唐突に祈真が言って、皆の目がそちらに集中した。

「その何枚にも重なる袿、見た目よりずっと重いはずだ。着ていたら動きが鈍る」

「……」

「どうした」

 これほどありがたい言葉ないであろうに、藍は動かなかった。その表情に迷いが生じていることに気付いて、昴は訝しんだ。

 ――何してるんだ。

 声には出さずに、心の中で怒鳴り付ける。

 ――不利が一つ解消されるんだ……早く脱げ。

「脱げ」

 祈真がもう一度急かし、藍を睨み付けた。藍はその視線をじっと受け止めていたが、やがて観念したように、一番下に着ている白の小袖を残して、領巾と二、三枚の袿と表着を剥ぎ取るようにして一気に脱いだ。

「な……」

 声をあげたのは昴ではない。隣にいた王が、驚愕の声をあげた。立ち上がろうとした為か、腕が盃に勢いよく触れ、その拍子で瑠璃の麗しいそれは地面に落ちた。

 カシャリという儚げな音と共に中の飲み物が自分の足にかかる。藍だけを見ていた昴はそれに気付かなかった。驚き慌てる王とは全く対照的に、声もあげず、表情も変えず、あまりのことに身動き一つせずにいる自分は、どよめく広間の中では異色を放っていた。

 藍の右の袖は、真っ赤に染まっていた。

 松明の炎の光とは関係なく、白の絹は色を変えた。鮮血が今もじわじわと広がり、染みを大きくしている。

「彼女は怪我をしていたのですか!?」

 隣で声を荒げる王に、昴は放心状態のまま、縦に首を降った。

「夜叉に掻かれて――」

「なんてことだ……兄上!」

 昴には理解出来なかった。染みの大きさからして、傷口が開いたのは舞い始めてからすぐのはず。深く広い傷は相当な痛みを伴うだろうし、顔色一つ変えずにいた藍は果てしなく無理をしていたのだろうなと思う。

 分からないのはそれだ。何故そこまで我慢する必要がある?一体何の為に彼女はこうして、己が克羅の姫であることを認めてもらおうとしているのだろう。

 怨みを晴らすため――というのは、もはや考えられない。喜瀬村を倒すために白西国に助力を求めるというのは、以前の彼女からなら容易に想像出来たかもしれないが、変わろうとしている今は絶対にそんなことしようとしない。断言できる。

「兄上!もうお止めください!これ以上は――」

 王は息を飲んだ。その原因を作ったのは、祈真ではなく、藍自身だった。

 いつもは右手だけを使って剣を振るう彼女が両腕を使っている理由が今更ながら分かって、昴は怒りを覚えた。気付けなかった自分の愚かさに腹がたった。

 重さが取れて、わりかし自由になったせいか、藍の動きは先程より早かった。祈真の振るった太刀を、おそらくはこれ以上無駄に受けて痛みが広がるのを抑える為にかわし、踏み込みすぎた相手の足を払った。重心を失った祈真は、そのまま背中から崩れ、それに生じて藍は剣を突き立てる――。

 二人の動きが止まった。

「……やったな」

 唇の角度が上がる。

「俺の勝ちだ」

 ほとんど馬乗り状態で藍は大司空を見下ろしていた。剣を振り上げて持った状態のまま、あとは振り下ろすだけなのに、藍は動かなかった。左手を祈真の顔のすぐ横につき、体を支え、髪は肩から流れ落ちて揺れている。

 乱れた息使いが昴のところにまで聞こえていた。祈真のものではない。肩を上下させているのは少女の方だ。

 ガシャン――と、右手から剣が滑り落ちて、赤い右腕がだらしなく垂れた。もう腕を動かす余力さえ残っていないのだ。ピクリともしない右腕の袖口からは、吸い取ることの出来なくなった滴が床に染みを作っている。

「……負け、ましたっ」

 振り絞るような掠れた声をあげると、藍はようやく顔をあげた。そこで初めて、彼女の髪に隠れて分からなかった喉元に、銀色の尖ったものが突き付けられていることに気付いた。少しでも動かせば薄い肌は、簡単に破けてしまうことを承知で、祈真は剣の切っ先をぴたりと藍の肌にあてている。

「良い腕をしている」

 それを終了の合図と受け取ったのか、藍はふらふらと立ち上がった。乱れた服を直そうともせず、左手で右上腕を押さえ、続いて祈真が立つのを魂を抜かれたような表情で見ていた。

 それがどういうことか悟って、気付けば昴の足は全速力で駆け出していた。ここがどこであるかも、誰が見ているのかも考えから弾き飛ばされていて、目に映るのはふらりと揺れる――。

「藍!」

 床に頭をぶつける寸前に支えた肩は、ぴくりともしなかった。

 あまりに短い時間に膨大な量の真実を突き付けられて、詰め込んでも詰め込んでも気付かないうちに漏れでてしまいそうなそれは、まだ昴の中では整理しきれていない。そのくせ、相手のない憤怒とも嫉妬とも取れる感情だけはぎらぎらと輝いて昴の心を埋め尽くしている。こんな風に、隠しきることの出来ない感情を持ったのは初めてだった。

 加えて、そんな感情を与えた張本人の少女は血を流して気絶。混乱の中に再び混乱を投下され、自分の個性ともいえる冷静な判断力はどこかに吹き飛んでしまっていた。

「おい、藍!この莫迦、しっかり――」

「揺らすな。そんなことをしてたら止まる血も止まらないぜ」

 言われて昴は顔をあげた。驚いたことに、いつの間にか玉殿にいたほとんどの人が、藍、昴、そして祈真の周りに集まって、それぞれ好き勝手に声をあげていた。

 祈真は先程藍が纏っていた領巾を手に持っていた。気絶した藍の濡れた右袖に手をのばし、何を――と昴が止める間もなく、ビッと引き千切った。

 傷口はやはり開いていた。

 無理に動かしたせいでかさぶたは破け、めくれた場所から血がじわじわと、しかし確実に流れていた。思わず顔を背けてしまいたくなるほどの有様だった。

「……まさかここまでするとは」

 唸るように小さく言った祈真に、昴は顔をあげた。

 ――まさかここまでするとは?

 みるみるうちに怒りが沸き上がってきて、昴は祈真を睨み付けた。藍に触れようとする手を払いのけて、人目もはばからず大司空を睨み付ける。

「どういうつもりだ」

 領巾を止血の布代わりに使おうとしていたのだろう、それを弾き飛ばされて、ここにきて初めて祈真が驚いた表情を見せた。

 祈真は藍が傷を負っていたことを知っていたのだ。袿を脱げと言ったのも、おそらくはそれを確認する為。先程の言葉がその証拠だ。にも関わらず、祈真はこんなになるまで藍に太刀を振るい続けた。

 気付くことが出来なかった自分へ苛立ちの八つ当たりもあったが、このときの昴にはそれに気付くだけの余裕がなかった。

「ここまでするか、というのはどういう意味だ。知っていたのか」

 祈真は顔をしかめた。

「それより今は止血だ。腕を――」

「触るな」

 言って昴は、今まで祈真に対して好感を持っていたことに気付いた。おおざっぱで自信過剰で、けれど無意識のうちに頼ってしまう、兄貴分な――そんな人だと思っていた。思っていた分、裏切られた衝撃は大きかった。

「じゃあ一生そうやってお姫さんを抱きしめとくか?」

 祈真は面倒くさそうに言った。

「別にいいけど、そのままじゃその女、血の流し過ぎで死ぬぜ」

「それは貴様が――」

「死ぬぜ?」

「……っ」

 昴は祈真から視線を外した。こんな場所じゃなかったら、ぶん殴ってやったと思う。そんなことをすれば大司空に手を出したとして相当な罰が待っていただろうから、結果だけを見れば昴の理性は生きていて良かったと言える。

 祈真は昴に弾き飛ばされた領巾を拾って、藍の腕に巻き付けた。意識のないはずの藍の唇から、苦痛を訴える小さな呻き声が聞こえた。

「来い」

 緊急の止血が終わると、祈真は立ち上がり、集まっていた群集を乱暴に押し退けて出口までの道を作った。

 意味を悟って、昴は藍を抱き上げた。自分が怪力男じゃないのは分かっているから、花のように軽い少女だなんて阿呆みたいなことはかさないけれど、それでもやっぱり軽かった。少なくとも、ただの十六才の男である自分が、重いと感じることは全くなかった。重かったのはむしろ心だ。

 自分の手元にある少女を抱く手に力を込め、昴は祈真の後を追った。


藍が目を覚ましたのは翌日の朝で、思っていたより早かった。

ずっと傍についていた昴は、その時もやっぱり傍にいて、彼女が起きてからの第一声、

「なんで昴がここにいるんだ」

 をしっかりと耳にすることが出来た。私はなんでここにいるんだとか、私は一体どうなったんだとか、そういう疑問に答えるなら大歓迎だが、あまりの言いように昴は怒りを抑え切れず、肩を震わせながら部屋を出た。それだって具合を聞くのを忘れていたことを思い出して、すぐに戻ったのだが。

 昨日、賓客用であろうこの部屋の寝台に藍を横たえた後、誰もいないのをいいことに、昴は祈真の襟元を掴んで壁に押し付けた。抑えていた怒りが爆発寸前で、手をあげずにはいられなかった。

「何故こんなになるまで打ちあった!彼女が怪我をしていたことは知っていただろう!こんな……倒れるまで血を流して――」

「正直言うと計算外だった。傷口が開いて血が流れればいい結果が待っていると思ってたんだけど、普通ここまで莫迦じゃないよなあ?倒れるまでやるか」

 首元を絞められていることなど全く気にせず、いけしゃあしゃあと同意を求める祈真に、昴は激高した。

「藍が血を流すことを望んでいたというのか……」

「そうだとも」

「この下道っ!」

 拳を思いっきり引き、勢いよく振り上げた。女にきゃいきゃい言われるという面に向かって飛んだそれは、昴の意に反して、直前で受け止められた。思っていたよりもずっと強い力を祈真が持っていることを知り、それが表情に表れたのだろう。

 祈真は余裕の顔付きで、

「これだから子供がきは嫌なんだ」

 と言うなり、昴の鳩尾に勢いよく拳をぶち込んだ。

 激痛が腹から全身に広がり、情けないことに自力で立っていられなかった。手加減していたようだが、確実に、気絶させる為の急所を突いている。意識を保っているのが精一杯で、よろよろと後退するなり昴は壁に寄り掛かった。

「いちいち説明すんのもめんどくせーが、寝込みを襲われない為、言っといてやる」

 祈真は襟元を直しながら、本当に億劫そうに言った。

「この姫さんには自分の正当性を示す決定的な証拠がない。だからどうしても、この国を信用させるにはこいつが持つ意思が重要になってくる。現にこいつは怪我を隠して舞を舞った。怪我がばれても俺と戦った。それだけ自分が克羅の姫であることを証明したかったんだろうし、ぶっ倒れるまでやろうとした以上やっぱりそうなんだろ。けど、こいつが怪我してなかったらどうなった?」

 祈真は言う。

「舞を舞いました。見事でした。大司空と戦いました。負けました。それで一体どれだけの官吏を信用させられるってんだ」

「……藍が、お前に勝ったかもしれない」

「それはねーな」

 昴の言葉を祈真は即座に一蹴した。

「いくら剣の腕が良くても俺には勝てん。伊達にこの歳で大司空兼白軍軍師やってるわけじゃねーし、万が一こいつが俺に勝ったとしても、それが何になるんだよ。見事な剣術の使い手と認められる?はっ。尚更警戒されるだけだろ。大司空との手合わせには負けてしまったけれど、己の意思を貫く為に怪我を隠して痛みを殺して向かって行った、青き髪と月華の剣を持つ麗しい舞姫――これで信用しない官がいたら、そいつは相当の疑心暗鬼だぜ。そしてお前。わざわざこの姫の為に舞台を作ってやったってのに、その大司空様に対してこの仕打ちか。恩を仇で返すってまさにこの事だよな」

 あー忌ま忌ましい、と毒づいて、祈真は部屋を出ていこうとした。慌てて昴は痛む腹を押さえながら、何処に行く気だ、と警戒を解かずに尋ねる。

「医師呼んでくる」

 そう言って祈真は出て行ったと思う。昴の方は腹が痛くて痛くて、藍と同じ状態にならないようにするのがやっとだったから、その後医師が来て藍の腕の様子を診たのも治療したのも、あやふやにしか覚えてない。

 結局食べるものも食べてないし、寝床もないし、腹は痛いしの三段攻撃で、昴は寝ようにも眠れなかった。加えていろんな意味での自己嫌悪が重なり、揚句の果てには目を覚ました藍から、なんでここにいるんだ、の邪魔者扱い。泣いていいだろうか――と本気で思った。

 仁多へ来てからまだ一日しか経ってないのに、もう百年もここにいるような気分だった。上半身を起こしてぼんやりとしている藍も、先程二度目の診療に来た医師に、未だ寝台から動くことを許されておらず、やっぱり昴と同じような気分なのだろう。ぼんやりとしていた。

 昴は藍から少し離れて、部屋の片隅の壁にもたれて座り込んでいた。まだ少し痛む腹をさする以外、別にすることもないから、頭の中でこれまでのことを整理出来るのはありがたかった。

 ――藍は琴音じゃない。藍は姫。俺が探していた克羅の姫。

 ――俺は紅の上級役人の息子。三年前に祖国を捨てた。留まっていれば戦を止められたかもしれないのに、さっさと逃げた。

 ――紅は碧の仇。俺は藍の仇。そして藍はそれを知らない。

 間違ったことは何一つないと思う。こうやって一つ一つ考えてみると、自分が相当な愚か者だということに気付かないわけにはいかなかった。

 そもそも、克羅の姫を助けたいと始めに思ったことが間違いだったのだ。

 昴は自分の役目から逃れた。今ではそれを後悔している。だから克羅の姫を助けたいと思ったのだけれど、その克羅の姫はほとんど昴のせいで国を失った。藍からしてみれば、全てを失った元凶に纏わり付かれているも同然なのだ。

 それを思った瞬間、昴は自分がここにいてはならないことに気付いた。藍は昴が仇であることなど露とも知らず、信用している。これ以上ない彼女に対する残酷な仕打ちは、昴が藍の傍にいること。

 愕然とした。昴が己の枷から逃げた代償はこんなにも大きかったのだ。自分の存在が何よりも人を傷つけるなんて――。

 ――こんな……今更気付くなんて。

 もっと早くに自分の愚かさに気付きたかった。気付いていれば躊躇う事なく藍から離れることが出来たであろうに、彼女の存在が自分の心を大きく占める今更になってから――。

 ――こんなことってないだろ……。

 離れなければならないという感情に対する、別の感情が心の内にある。その思いをなんというのか昴は知っている――。

「昴……?」

 近くで名を呼ばれて、ハッとした。顔を上げると、寝台から動くなといわれたはずの藍がすぐ近くに立っているのが目に入った。髪をおろして、胸元の布も取り払って、どう見ても少年とは見て取れない少女は、心配そうに昴を見ていた。

「どうした?」

「……別に」

 近寄って来た藍から視線を反らし、昴は体を少しだけ移動させた。――傍にいることさえ許されないのに、ましてや触れることなんてあっていいはずがない。

「……ごめん」

 藍は小さく言うと、昴の隣に付かず離れず座り込んだ。天竜の村で夜叉と戦う前に昴が取った行動と同じだった。

「何が?」

「全部」

「だから何が」

 昴が問うと、藍は困ったように笑った。

「全部は全部だ」

 出会ってからの間ずっと、と言葉を付け足して自由に動かせる左腕だけで藍は膝を抱え込んだ。裸足の足が冷たそうだった。

「騙していたことだよ。無償で助けてくれたのに……なんで私ってこう我が儘で子供なんだろう……って、これ昨日も言ったか?」

「言ったな」

「……そんな顔してるのは私のせいなんだよな」

 昴が振り向くと、藍は食い入るように昴を見ていた。くりくりと大きな瞳で見られると、自分の醜さを嫌というほど自覚させられた。

「そうだ」

 昴は視線を反らし、立ち上がった。寝台の方に歩いていって、置いてある布を掴み取る。

「全部お前が悪い」

 言って布を投げ付けた。突然のことに対処出来なかったのだろう、布は藍の顔面を直撃した。

「羽織ってろ。怪我人がそんな所にいたら体が冷える」

 再び、昴は元の場所に――藍の隣に腰をおろした。

 ――全部お前が悪い。

 この言葉は間違ってない。全部藍が悪いのだ。昴の心を占めている藍が悪い。昴にこんな感情を持たせた藍が悪い。こうやって傍に近寄る藍が――。

「……俺はお前が思っているような聖人君子じゃない」

 無意識に延ばした手を、昴は引っ込めながら言った。藍はその意味を理解していないらしく、昴の不可解な行動には何の興味も示さなかった。

「自分の為だけにお前を救って、自分の愚かさに気付いた莫迦なやつだ。だから――」

「昴」

 藍は昴の言葉を遮った。今まで見たことのないような、強く、けれど悲しい瞳で、昴を見る。

「傍にいて」

 しんと静まる部屋の中で、確かに藍と昴は見つめ合っていた。

 初めて藍が自分の意思を昴にぶつけて来た。言い付けられたり、強制的に彼女が自分の意見を貫くことはあったけれど、哀願はなかった。それが何よりも強い気持ちを昴に与えた。が――。

「……無理だ」

 ようやくの思いで視線を反らし、昴は絞り出すように言った。

「俺はお前を傷つける」

「知ってる」

 藍は動く左手で昴の右手を取った。

「私も巫女だ。それぐらいは分かるよ。昴は優しいから」

 その手を彼女は自分の頬に持って行き、そっと添えると瞳を静かに閉じた。巫女が何かを捜し当てる時の――例えば心を読む時とか、そういうときにする仕種なのかもしれないし、何の意味もなく、ただ藍がしたくてしていることなのかもしれなかった。ただある紛れも無い現実は、昴の掌は藍の頬に触れていて、熱を感じていることだけ。

「私を気遣って、自分のしたいように出来ない。違うか?」

 昴は答えなかった。

「昴にどんな事情があるか分からないが、私が思っているのは一つだけ。傍にいてほしい」

「……藍」

「何よりも私のことを思ってくれるなら、傍にいて。これから私のやろうとしていることは……とても大きなことなんだ。大きすぎて自分でもどうすればいいのか分からない。本当言うと、不安でしょうがない。だから傍にいて。お願いだから……」

 言われて昴は気が付いた。藍の言うこれは、多分昴の思う感情とは違う。藍は家族を求めているのだ。無条件に愛してくれて、無条件に傍にいてくれる、昴が奪ってしまったものを昴に求めている。

 もしかしたら、この少女は家族とは違う愛情を知らないのかもしれない。いや、おそらくそうなのだろう。だから尚更、この感情は向けていいものじゃない。

「俺はお前を傷つける」

 昴はもう一度言った。

「前に約束したこと覚えてるか?俺の全てをお前に話すと言ったあの約束。藍が全てを話してくれたのだから、俺もそうするべきだと思うんだ。けれど、決心がつかない」

 酷ければ藍は元の誰も信用しない状態に戻りかねない。乃依の言葉のおかげもあって、ようやく光が差し始めた藍を、真実は再び闇に突き落としかねないのだから。

 それが主立った理由だった。なのに今、拒絶されることを恐れている自分がいるのも確かで、もしかしたらこっちが本心なのかもしれない。

「決心がついて、それでもお前が傍にいてほしいというのなら、俺はそうする。俺も藍の傍にいたい」

 おそらく、そうなることはないだろうけれど――。

 取られていた手をそっと外して、昴は部屋を出た。豪華に装飾された廊を見て、あの殺風景な灰色の石の世界に行きたいと、漠然と思った。


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