演舞
「でたらめだ!」
長い沈黙の後の第一声がそれだった。
「でたらめに決まっている!何故碧の姫が今更……!大体その格好は何だ!善の神の末裔で三千の歴史を持つ国の姫なら、それ相応の形をしておるだろう!」
飛び出してきた男に、少女は辛辣な目を向ける。
「身一つで都を飛び出し、銭も持たずに旅をしてきたのだ。使えるものは我が身のみ。頼れるものはこの国しかないと、間を惜しんでここまで来た。それでどうやって身なりを整えろと?」
ぐぬ、と男は言葉に詰まった。しかし今度は違う場所で声があがる。
「克羅の姫は亡くなったと聞いている。あなたが姫であると証明するものはないではないか」
「紅南国の兵に見つかる可能性が高くなるのを承知で、この時の為に髪を切らずにいた。貴殿は私の命懸けの結果を愚弄するのか」
冷たい言葉に、相手は何も言うことが出来なかった。
「その者は」
自分の事を言っているのだと分かって、昴は硬直した。
「関係ない。旅の途中で出会っただけだ」
――関係ない。
昴は少女の言葉を反芻した。
――関係ない。
「では、碧から逃れた時、あなたは一人だったというのか」
「そうだ」
「共もなく?」
「そう」
「夜叉は?追いはぎだって出るはずだ。どうやって――」
「私は克羅藍だと言っている」
反論するものはなかった。克羅の姫――碧の宝である娘は、剣術、舞にすぐれていることで有名だ。夜叉の一匹や二匹がなんだというのだ。
「……しかし、それだけでは証明になりませぬ。青き髪を持つ者がこの世に一人しかいないということがありえましょうか」
少女は声をあげた主を見つめた。貫くような眼差しに、射ぬかれた方は絶えられなかったのか、さっと視線を反らす。
と、突然、少女が腰元から抜き取ったので、皆がぎょっとして半歩引いた。しかしそれに全く構わず、少女は鞘と柄に巻き付けてあった布を巻きとり――。
「我が国の宝重をご存知か」
というなり、剣を床に突き立てた。
キィーン――という耳に纏わり付く音が辺りに響く。岩で出来ているはずの床に、碧玉の輝く剣は突き刺さっていた。
碧の国宝重――月華の剣。
その昔、天神より授かり、善の神が振るったという伝説の剣だ。克羅の都の東殿――つまり、巫女しか出入り出来ぬ場所に祭られているということは誰もが知っている。その巫女は克羅の姫である克羅藍だということも。
もはや誰もが声をあげられずに、少女を凝視するしかなかった。よく見なくても分かる、整った顔立ちや、この年まで襤褸を着て育って来たにしては白すぎる肌。そして、凡人にはない覇気、威厳、空気、人を引き付ける何か。それら全てが誰の目にも明らかで、だから昴は誰よりも驚愕した。
――琴音が……克羅の姫だって?
探していた少女。昴が己の罪を償う為、ずっと探していた少女――それが目の前に立つ、昴のよく知る人物だというのか。辛い過去を今まさに乗り越えつつある、意地っ張りで、けれど優しくて、温かいこの少女が――。
そんな莫迦なと思う一方で、納得してしまう自分がいた。そう、琴音が姫であるなら、昴の中にある全ての疑問は簡単に解けてしまうのだ。この少女が世を知らないわけも、出生を教えてくれないわけも乃依と交わしていた不可解な言葉の意味も。
縺れていた糸は一つの答えによって簡単に解れてしまった。同時に、昴の中に、重くて暗いなにかが一気に広がる。最初から存在していたそれは、昴でも気付かない程小さかったはずなのに、琴音が碧の民ではなく、碧を統べるものだと分かった途端、急激に膨らみ、否応なく昴に現実を突き付けた。
――俺はこいつから全てを奪った紅南国の……。
少女が碧の民だと思っていたから、昴は自分の非道をあまり気にせずにいられた。民が失うものは、統べる者に比べればずっと少ないから。それだってこじ付けのようなものでしかないけれど。
「それが揃っていても……」
沈黙を破ったのは、他でもない仁多王だった。
「例え青き髪をもち、国宝の月華を握っていたとしても、それだけで信じることはできません。紅の間者とも限らないし、例え岩を切れても、その剣が月華という証拠は見た目でしかありません。盗んだ可能性もある」
昴はその時になって初めて、王がまだ年若いことに気付いた。年の頃は昴と同じか少し下かといった具合で、声にもまだ幼さが残っている。喋り方も、ただ敬語を使っているだけのようで、こんな状況でなければまじまじと観察してみたいと思ったかもしれない。
少女は王をじっと見つめた。見つめられれば呑まれてしまうであろう黒真珠のような視線をしかし、王は同じように見つめていた。二人にしか分からない言葉がその場で交わされているような気がして、邪魔にならないようにというわけでもないのだが、息も殺して音をたてないよう緊張した。
「私には……」
ようやく少女の方が声をあげた。
「私にはこれ以上、自らを証明出来るものは何もありません」
と、昴は彼女がわずかに震えているのに気付いた。本当に近くで見ないと分からない程、微かに、だが。
「ですから、これ以上何かで証明しろと言われても、無理ですとしか答えられません。あとは王の心のままに、私が真に克羅であるか、否であるか考慮していただき――」
「まだ出来ることはあるぜ」
場違いに明るい声が響いて、昴は振り返った。
「大司空!」
パッと王の表情が明るくなった。
「無事の帰還、何よりです」
「感謝いたします。……ちょっと失礼」
おそらくは全員の注目を集めているのに、祈真は全く意に介した様子もなく、着替えた絹の衣をうっとおしそうに払いながら、王の横に膝まづいた。
王の着る衣の色は白。祈真の着る服は黒。全く正反対の服を着ているし、見た感じ性格も間逆であろうに、二人が並ぶとそれで一つという感じがした。王と大司空としてだけでなく、個人的にも仲がいいのかもしれない。
「王、これは東野の巫女である乃依女君からの証書です」
「乃依女君……天竜の?」
「はい。失礼ながら先に確認させていただいたのですが、筆質も印も、本人のものに間違いありません。彼女が直にこの者に渡しているところを見た部下もおります。かの偉大な巫女が克羅の姫ではない小娘を仁多に送るとは思えなかったので、こうして王との謁見を独断で許しました」
「……それで、あなたは何を考えているのです」
もう毎度のことだ――と、溜息をつく王に、臣下はにやりと笑ってみせる。
「お忘れですか?今宵は宴の席ですよ。舞ってもらうのです。適材適所――なんて素晴らしい言葉なんでしょうね」
「してやられた」
苦笑いを浮かべながら、それでも琴音――いや、藍姫は満足そうだった。話し合うからとかなんとか言って、玉殿から追い出され、こぢんまりした脇の部屋に二人仲良く詰め込まれても、全く気にしなかった。中に見張りが一人と、外にもう一人見張りがいる。中の見張りの方は藍を興味津々で眺めていた。
「大司空……最初からその気だったんだ。私に舞を舞わせるつもりで……舞えるかな。恐ろしいほど自信ないんだけど」
見張りの兵と相反して、昴は全く目の前の少女を直視出来なかった。不自然に壁に目を向け、口を閉ざす。石像にでもなった気分だった。
そんな昴を見て、藍は深く溜息をついた。そして恥ずかしげもなく昴にスッと近寄り耳元で呟く。
「関係ないなんて言ってすまない。昴ほど私に関わりのある者はいないのにな。――だからこそ、前にも言った通り、昴に全てを見てもらいたい」
見張りを気にして藍が言っているのは明らかだったが、その距離の近さに昴は怒りを覚えた。
「……分かりました」
明らかにその怒りが表に出ていたのだろう。藍は寂しそうに笑った。
「今だけでいいから。終わったら、もう私のことなんか二度と思い出さなくていい。捨てて……自分のしたいことをして、好きなように生きてくれ。借りていた馬も衣も全部元の銭にして返す。忘れていいから」
――出来るものか。
昴は心の中で毒づいた。こんなに近くにいて、こんなに自分を見てくれる少女を忘れるなんて、昴には出来ない。
「黙っていて、本当に悪かった。嘘をついていてごめん。それから――傍にいてくれて、ありがとう」
そしてようやく、昴は藍を見た。前とは異なり、美しい光を宿した瞳。出会ったとき、昴はこの少女の愛に満ちた姿を見たいと思った。あの頃は興味本位だった。なのに今は――。
「藍姫……」
どうしてその瞳に自分を映してほしいだなんて、望んではならないことを思っているのだろう。
「やめて。姫なんて付けないで」
――期待してはいけない。
「私のことをどんなに恨めしく思ってもいい。散々昴を莫迦にしてきたくせに、嘘まみれで――」
――望めば、この強くて脆い少女を壊してしまう。
「けれど昴には分かってもらいたいから。私は善の神の血を引く最後の一人だけれど、それ以前に……何も出来ない小娘だから」
――俺は仇だ。
昴は自分自身に言い聞かせた。
嘉瀬村が碧を滅ぼし、少女から全てを奪った。嘉瀬村を止めなかったから、少女は一人になった。嘉瀬村を止めることが出来た昴が逃げ出したから、藍は今まで傷付いて来た。
――全部、俺のせいじゃないか。
今ここにいる自分に吐き気がした。
藍が舞うのは剣舞。しかも月華を使って舞ってみろとのことだった。考えなくても、祈真の差し金だということは分かったし、藍も藍で、
「やるしかないよな……」
と独りぼやいていた。
舞の準備の為、大司空が用意したのは、湯浴みと着替えと化粧だった。化粧と聞いて藍は隠しもせず嫌そうな顔をしていたが、化粧は当然しなければならないだろう。舞に必要不可欠といわれる三つの要素は、音楽と長袖の衣と初く見せる為の白粉と言われているのだから。もっとも昴からしてみれば、そんなものをしなくても藍は初いと思うが。
女人に急かされて、藍は渋々部屋の中へ入っていき、それを他人行儀で見ていた昴だったから、まさか自分にも火の粉が飛んでくるとは思ってもみなかった。
同じように女人に急かされ、別の部屋に閉じ込められた昴は、あれよあれよという間に湯浴みをさせられ、服を着替え、髪を整えられて、再び玉殿にほうり込まれた。
恐ろしい程の勢いで身なりを整えられたため気付かなかったが、昴が今着ているのは絹仕立てだった。麻とは違い、触れる布地の感触はさらさらと流れるようで、否応なく自分の過去を思い出させられた。
――紅にいた頃はこの布地しか知らなかった……。
突然現れた昴を見て、その場にいた諸々の人は、期待した目でこちらを見たが、やってきたのが昴だと分かると、なんだ――といった様子で視線を反らした。どうやら昴の登場は期待外れだったらしい。
「よお~!昴。……なんだお前、そうやって立ってるとその辺のやつらより全然気品があるぞ」
砕けた口調で寄って来たのは、他ならぬ大司空だった。紅南国でも上級の政関係者を父に持つ昴だから、気品はあって当然なのだが、まさか三年経った今になって言われたのは不意打ちだった為、昴は思わずギョッとして聞き返した。
「気品なんてあります?」
「あるある。気品があるっていうか顔が良い。お前女にちやほやされるの得意なんじゃねーの?」
「いえ」
昴は即答した。寝耳に水の話である。
「されないのか。俺はよくきゃいきゃい言われるぜ?」
それはあなたの性格が――と言い返そうと思って、昴は止めた。これでも相手は白西国の大司空だ。不況を買いたくはない。代わりに、
「酔ってます?」
とだけ聞いておいて、視線を周りに戻した。
酔ってねーよ、と隣で呟く祈真は、先程とは違い、別に注目を集めてはいなかった。宴が始まっているからか、皆がやがやと煩いし、自由に盃を交わして顔を赤くしている。王も王で臣下と笑って食事に手をのばしていた。
「お前の分もあるぞ」
祈真が来いと招くので、昴はついていった。考えてみれば大司空直々に食事に招かれているのだから、至極名誉なことなのかもしれない。
大司空の席は、やはり王の席に近かった。というか隣だった。さっきまで階段の一番上に座っていた王は、今は降りてきて官と同じ高さの場所で食べている。近寄って見ると、やっぱりその姿は昴より年下に見えた。
「おい、連れて来たぜ」
「わざわざありがとうございます」
「こいつのこの服、何の服だよ。色は黒だけど、俺が着てるのよりなんか豪勢じゃねー?」
「賓客用です。それぐらいの知識、頭の中に入れておいてくださいよ」
二人の交わす言葉を聞いて、昴は我が耳を疑った。
――ちょっと待て。
確か王と大司空とでは絶対に王の方が偉かったはずだ。なのにどうしてここでは王が敬語を使っていて、 大司空が尊敬のかけらもない下っ端に話し掛けるような言葉を使っているのだろう。
信じられなくて、昴は二人を交互に見て思わず聞いた。
「あの……仁多王であらせられますよね?」
「そうですが?」
やはり敬語を使っている方がこの国を統べる、この国で一番偉い人なのだ。癖なのだろうか。
「昴殿でしたね。どうぞおかけになって下さい。遠路よりの旅、ご苦労様です」
「……私は姫に仕える従者の身分です。このような厚き待遇は……」
「いいから座れって。飯が冷える」
ぐい、と肩を押されて、昴の抵抗は空しく終わった。はあ、とか、すいません、とかわけもなく恐縮して、それでも昴はいくつかの疑問を隠せない。
「不用心すぎませんか?得体の知れない者をこんなに王に近付けて……」
正直な感想を言うと、王と祈真は目を合わせて、その後で祈真は溜息をつき、王はおもしろそうに笑った。
「あのな、俺は飾りじゃねーんだぞ。この国一番の武人だぜ?何の為にここにいると思ってんだよ」
「しかし昴殿自ら指摘して下さるとは、これは大司空も必要ないかもしれませんね」
二人の言葉に、ああそうかと昴は簡単に納得してしまった。敵を王から遠ざけるよりも、王を絶対守れる者を傍に置いておけばいいということなのだろう。一応昴も警戒されているらしいが、それにしても王の祈真に対する信頼はなかなか厚い。
「仲がよろしいんですね」
目の前においしそうな料理が運ばれてきて、昴は自分の腹が空っぽだったことを思い出したが、箸は手に取らなかった。気分的にあまり食べたくなかった。
「仲良いもなにもなあ」
祈真の食べ方がガツガツなら、王の食べ方はパクパクだった。どちらも上級役人らしく上品なのだが、この二人が並ぶと、どうも全てが対比しているように見えてしまう。二人の着ている服が黒と白というように、夏と冬、炎と水、山と川など、全く違うものなのに対になっているというか――。
言葉使いの件も含め、何故だろうという疑問が湧いたが、思いのほか答えはすぐ出た。
「わたし達、兄弟ですしね」
「えっ!?兄弟?」
「あれ、知らなかったっけ?」
食べる手を止めて祈真が驚いたように言った。
「俺言ったぞ。いや、言ってないけど有名だぞ。お前そのぐらい知っとけよ」
「兄上、人にあれこれ言う前に、貴方のその何ごとも適当に済ませようとする性分の方をなんとかしてくださいよ。昴殿、困っています」
「お前は律義すぎるんだって。毎回毎回小煩くて耳がおかしくなりそうだ。ホント、ピーチクパーチク騒ぐ嫁みたいだよな」
「わたしは男です」
「女にモテないくせに」
「女性より猿に人気があるあなたに言われたくありません」
「ぬわぁにおー!?」
昴はげんなりして息を吐いた。この二人が兄弟というのは本当らしい。この歳でここまで幼稚な喧嘩が出来るというのも、ある意味羨ましいかもしれない。白西国は一応一夫多妻制ということになっているが、基本的に妻は一人しか取らないし、特に白の先代の仁多王尋命は、たった一人の妻である華栄を大変寵愛したことで知られている。彼女が亡き人になったと同時に、仁多莢生に実権を譲り、今は王院として王を補佐しているという。二人はおそらくその二人から産まれた同じ腹の兄弟だろう。二人で一つに見えるのは、多分そのせいだ。
まだあれやこれやと言い争っている二人を止める者は誰もいなかった。既にこの手の喧嘩は定着済らしい。昴は間に挟まれながら、ただすることもなくてぼーっと考えていた。
――弟が王位を継ぐなんて……珍しい。
弟の方を見ながら、昴は息を吐く。
――俺もこのまま国に戻らなかったら、多分あいつが父上の跡を継ぐのだろうな……。
つい自分と重ねてしまう辺り、昴は相当参っているのかもしれなかった。
と、広間の扉が開いて、皆が皆そちらを向いた。ついに来たか――と思いきや、入ってきたのは楽器を持った男数人だった。太鼓と笛と琴と、その他諸々。しかし、楽器を持つ者が入って来たことは、克羅の姫の準備が整ったことを意味していた。
「おおっ!そろそろだな」
先程までの喧嘩は何処へやら、祈真は顔を広間の中央に向けると、妙に青年らしさを醸し出嬉々とした表情で、きちんと椅子に座り直した。王も楽しみのようで、しかし少女を克羅の姫と認めるか否かの決断もかかっているせいか、祈真のようには純粋に楽しめないようだった。先程より少し眉の角度が厳しくなった気がする。
音楽師が席に着くと、辺りは一気に静まった。ごくりと生唾を飲む音がいくつか聞こえて、それがわけもなく昴の耳に入る。
やがて扉が開く音と共に現れた少女に、昴は頭を金槌でぶん殴られたような衝撃を受けた。
誰もが絶句して場に音はないはずなのに、ジンジンと近くで何かが鳴っている。それが耳鳴りだということには、一生気付かないまま終わることも知らずに、昴は瞬きもせずに見つめていた。
長い漆黒の髪は大部分を金の簪に結われていたが、全体の半分程度残された垂れた髪は、ひらひらと黒い絹地のように靡いていた。克羅の姫と名乗るからには青を中心とした衣が似合わなければならないのだろうが、この少女以外に青を纏える者など何処に存在するというのだろう。
あまり見ることのない紺の袴と、純白の小袖を元に、長くて涼やかな袖の長い袿と表着を羽織っている。下は男ものなのに、上は女性の服装だということに気付いて、これこそ貫禄だと漠然と思った。それを着こなしている所もまた一筋縄ではいかないと思う。首から下げられた見事な彩色の珠や、ゆらゆらとゆれる領巾が透けて美しい。
だが結局は、どれも少女自身を引き立てる道具でしかなかった。長い睫毛と白い肌と。その肌だって軽く白粉がしてあって、その白さを一層際立たせていた。薄い唇に塗られた紅だけが、唯一の赤で、彼女の表情を伺おうとすれば、自然視線はそちらに吸い寄せられた。
段の上に王がいなかったことで、藍は少し困ったような驚いたような顔をした。キョロキョロと辺りを見回して、黒の中にある唯一の白を見付けると、にっこりして歩み寄って来た。
藍が言葉もない程の麗人であることに、昴は今の今まで全く気付かなかった。確かに藍の笑った顔や寝顔を見て、綺麗だとか可愛らしいなとか、そういう極々一般的な感想なら持ったことはある。しかし、目の前に来て声もかけられないなんて、一体今まで自分が見て来たものは何だったのだろう。
「仁多王、このような機会を与えて下さったこと、心より感謝したします」
藍は片膝を折って挨拶した。それは相手と自分が同等の位にいる時に使う挨拶だった。普通なら誰かが、無礼だ――と声を荒げるであろうが、今は誰もそれをしない。正確にはそんなことに気付く余裕は誰にもなかったのだが。
「しばらく舞っておりませぬ故、いささか醜い場所があっても、目をおつむりくださると嬉しいのですが」
「……え?あ……ああ、はい。分かりました」
「感謝します」
言って藍は、誰にも分からないように昴を見た。風が靡くか靡かないかというような一瞬だったけれど、昴はその目が何を言っているのか分かった。だからハッとして、慌てて辺りを見回す。
『大丈夫そうかも』
なんということだろう。藍は皆の心が既に自分の方に傾きつつあることを知っているのだ。安易にいつもそうだったからと思っているのか、それとも敏感に周りの空気を察知しているのか。どちらにしても、あとは確実性を高めるとどめを指すだけ。彼女にしてみれば、夜叉と戦うより簡単なのかもしれなくて、そのことに気付いた昴は、この少女の持つ何かに、ある種の恐怖を覚えた。
スラリと白刃の輝きを放つ月華を右手に持ち、鞘を左手に持って、藍は低く構えた。
低く音楽が流れ出すと同時に、藍は緩やかに動き出した。
この時の――藍が舞っている時のことを、昴はよく覚えていない。白昼夢のようなぼんやりとした空間で、少女は見た目に相反して力強く剣を振るっていた。軽かったのは動く度に風に揺れる絹と髪だけで、ああ髪を全て結い上げなかったのはこの時の為か――と、動いているのか分からない頭で考えた。
フワリ――と衣が舞う音と、剣を素早く振るたびに耳にはいる鋭い音が、真逆であるのに音色となって耳に深く響いていた。碧の国の宝重月華にふさわしく、やわらかに、軽やかに舞う少女。二つの存在が、まるで元来一つであるかのようで――。
幻から現実に引き戻される時間は、本当にあっという間だった。
藍が剣を鞘にしまい、動きを止めた。しかし、万雷の拍手の中で、というわけではない。この場にいる全員がその凛とした可憐さに酔ったわけでもなかった。未だ音楽が響く中で、たった一人、昴の隣に座っていた男が立ち上がったのだ。
「さすが碧の宝と呼び声の高い、自称克羅の姫だな」
その声を聞いて、途端冷水に頭を突っ込んだような感覚を覚えた昴は、慌てて今少女が置かれている状況を思い出した。
――信じさせなければならない。
少女が克羅の姫であると言い出した張本人が、疑問を投げ掛けた。それにより、取り付かれていた玉殿の間は、祈真の言葉をきっかけに再びざわめきだす。
――確かに見事な舞だが、あれだけでは……。
――舞は女なら誰でも一度は習うものなのだろう?
――大司空は最初から疑っておられたのか……。
そしてあろうことか、祈真は腰元から剣を抜き払った。どよめきが場を包み、しかしそれとは正反対に、間の中央に立つ藍は身動き一つしなかった。舞っているの美しい微笑の影はもはやなく、相手の動きを探る冷えた視線を祈真に向けている。
「大司空!」
昴は立ち上がり、藍の方へと歩み寄る祈真を止めようと声をあげた。殺す気なのかもしれない。いつもと変わらない悪戯めいた笑みが、今だけ恐ろしく見えた。
「お待ちください!彼女は――」
「昴殿」
足を踏み出した昴を、傍らにいた王が、袖を引っ張って止めた。邪魔をするな――と振り払おうとして、昴はそこで動きを止める。王は全く動じていなかった。
「あれは兄の策略です」
「なんですって?」
「彼女が普通の者とわけが違うのは、私に対する臆することのない真摯な態度で最初から分かっておりました。兄も同様だと思います。歴史の浅い白のものとはいえ、まがりなりにも私と兄は王族。それくらいは」
「ならばなぜ……」
「私や兄だけが分かっても意味がないのです」
王は昴から再び二人に視線を戻した。
「臣下にも分からせねばなりません。この国は王のものではなく、民のものなのですから」




