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天錦宝史伝 〜新戦記編〜  作者: 花歌
第3章 〜西の古城 北の口伝〜
25/63

西の国

大司空が都に帰ることを村長に伝えたのは、夜叉の襲撃から丸々一週間後のことだった。

 その間、小さくて大きな出来事がたくさん起きた。

 徨来が「かあさま」という言葉を覚え、今年初めての雪が降り、白軍による夜叉の片付けも終了し、琴音が鈴の墓に一人で向かった。

 あの時の琴音はただ一言、鈴に礼を言いたい――と、昴に言った。彼女の胸中を知っていた昴は、場所だけを口答で説明し、彼女についてはいかなかった。多分誰も付いていかなかったと思う。ゆえに、琴音が鈴に何を告げたのか知らないし、何を思ったのかも分からない。それでも、戻って来た琴音に、以前のような悲愴感はなかったことが全てを物語っていて、だから昴は笑って出迎えた。

 それ以外の小さくて大きな出来事は特にない。塵みたいに小さすぎるだけのことを挙げれば、大司空祈真が実は十八歳だと白軍の兵に教えられたことぐらいで、逆に大きすぎて掌握することの出来ないのことをあげれば、明日の太陽は東から昇るということだけだ。

 明朝、白西国からの援軍は仁多へ帰る。出発の前夜である今、昴は村長の家でぼんやり庭を眺めているだけだった。結局琴音に何も伝え切れてないし、それが出来る状況にあるのかどうかさえ定かではない。

 当の本人は、そんな昴のことなど全く気にせず、あの時乃依と話して以来、自分の意志で好きなように動き回るようになっていた。他人から見ればその変貌ぶりは、唖然とするものであって、だから彼女が頑張っていることは周囲の知るところではないのだろう。今では昴の方が室内に篭り、以前と立場が全く逆になっていた。

 もう夕方だから、もうすぐ琴音は帰ってくる。まだ癒えぬ彼女の腕のことを考え、昴は包帯を持ったまま、壁に寄り掛かっていた。

 すぐに琴音は帰って来た。相変わらず頭に布を巻き付け、相変わらず男物の分装服を着て、それでも顔付きは優しく、以前のような刺々しさはなくなっている。すぐに変われるはずもないし、まだ自信がないのか、頼りない風でもあるが、その方がかえって可愛らしくさえあった。

「お帰り」

 昴が言うと琴音は微かに笑って、ただいま、と答えた。これが数日前だったら、昴はひっくり返って驚いたと思う。

 琴音は軽い足取りで昴の元へと寄って来た。

「昴は外に出ないのか?」

「いや、俺はいい」

「どうして?」

「……気分が乗らない」

 そっか、と呟く琴音に、昴は息を吐いてから琴音の怪我の手当に取り掛かる。

 腕を取っても袖を捲くっても、琴音は何も言わなかった。いつの間にか手当をすることは昴の担当になっていたし、琴音もそれについて納得しているようだった。

「最近は眠れるようだな。痛みでうなされるのもじきに終わる」

「昨日は唸ってた?」

「ぺらぺら寝言を言ってただけかな」

 にやりと笑うと、琴音はムッとして昴を睨み付けた。いちいちそんなことを言わなくてもいい――と、顔に書いてある。

「……無理はしてないんだな?」

 昴は手を止めて琴音を見る。琴音は少し困った様子で昴を見ていたが、やがてこっくりと頷いた。

「無理はしない。したら父母らが強制しているみたいだから」

「そうか」

 昴も笑って、再び怪我の手当を開始する。

「だったらいい」

 やはりこの少女は変わろうとしているのだ、と昴は思った。自らを強いと称し、だから弱さをひた隠しにしてきたけれど、弱さを認めることこそが実は強さなのだと既に気付いている。

「今日、大司空に会った」

 作業を続行している昴に、琴音はまるで鶏が卵を生んだ、とでも言うように、果てしなく興味なさそうに言った。

「それで?」

「乃依様からの願いもあって、村を助けた褒美を取らせたいんだって。昴と私に」

「へぇ~」

「希望はあるかって聞いてくださった。昴はどうする?」

「希望……って言われてもなあ」

 最後に清潔な包帯を巻き付け、琴音の腕の手当は終わった。ありがとう、と琴音は言ってから昴を見上げる。急かされている気分だったが、昴は正直に答えた。

「すぐには思い付かないな。大司空からの直々の褒美なんてそうあるもんじゃないし。考える時間が欲しい」

「そうか……普通はそうだよな」

「何?琴音はもう決めたのか?」

「うん」

 事もなげに頷く少女を目の前にして、昴は溜息をついた。無欲というか単純というか、普通は目を輝かせて何を頂こうかと、あれやこれやと考えるはずであろうに。

「で、何をもらうんだ?」

 どうせ大したものは願ってないのだろうな――と考えていた昴だったが、琴音の口から飛び出したのは、ある意味黄金の冠よりも珠の首飾りよりもふてぶてしい言葉だった。

「仁多王に謁見させてもらう」

 自分の口があんぐりと開いたのを感じたが、閉めようという気が起きなかった。正確には、閉めるという言葉を忘れた。

 ――仁多王に会う……だって?

 一体全体何を言っているのだこの娘は。そんなこと大司空ともあろう者が許すはずがないではないか。そもそもどうして琴音が王に会いたいのか、そこから既に分からないというか間違っているというか――。

 言葉の止まってしまった昴を、琴音はしばらく観察するように見ていたが、ふと表情を引き締めると、姿勢を正して昴を見据えた。

「もう私の名を呼ばないでほしい」

 右から左に抜けようとしていたその言葉を、昴は無理矢理押し止めて、意識を現実に引き戻した。

「なんだって?」

「もう昴に嘘をつきたくない」

 話が読み込めない昴は、思わず眉間に皺を寄せた。琴音は表情を変えることなく、前から思っていたことだと言わんばかりに、スラスラと言葉を並べる。

「昴には感謝している。本当に。初めて会った時から、世話になりっぱなしで、頼ってばかりで……たくさん迷惑もかけたし我が儘もいっぱい言った。それでも昴はずっと傍にいてくれた」

 それは――と、思わず口を開いた昴を、琴音は手で制す。

「昴が何を思って私を助けたかは関係ないんだ。昴がいなければ、私は色んな意味で助からなかった。こうして……気付かなければならなかったことに気付くことが出来たのも、昴のおかげだと思う。だから名前を呼ばないでほしいんだ」

 琴音は苦笑した。

「私は嘘をたくさんついている。黙っていることもある。昴にはそれを伝えておきたい。伝えれば、今までと同じように接してくれなくなるかもしれないけれど、伝えないよりかはずっと良い」

 嘘は嫌いなんだ、と笑う。

「昔から嘘だけは嫌いだった。つかなければならないことはとても多かったけれど、どうしてもそれに必要性を感じられなくて。今私は改心しようとしているから、昔のその感覚も戻って来たみたいだ。――仁多に着いたら……」

 昴は驚いて琴音を見た。目で問うと、琴音はこっくり頷いた。

「昴にも一緒に仁多に来てほしい。言葉をころころ変えて悪いと思うのだけれど、もし昴がいいと言うなら……そこで全部伝えたい」


 翌朝、昴と琴音は白軍と共に、村を出た。

 別れは思っていたよりも簡潔で、特に乃依と琴音の別れは、昴でさえ疑ってしまうくらいあっさりしていた。乃依は何か書かれた紙を渡し、好きなように使ってください、と言葉を添え、対して琴音は、感謝します、とだけ言葉を述べた。

 村の人々が背後で手を振るのを琴音は見ず、馬を御しながら前方をぼんやりと眺めていた。雪が降っているから、軍の者も昴も琴音も笠を被り、中には藁で出来た羽織りを身につけているものもいる。その笠のせいで、琴音の表情はあまり伺えなかったが、本人は隠しているわけではなさそうで――。

「おい、大丈夫か?」

 昴が問うと、琴音は、え――と顔をあげた。

「手綱。離れてるぞ」

 ぶらぶらと揺れている手綱を指差すと、琴音はハッとしてから赤くなってそれを握った。馬に乗っておいて手綱を握らないなんて、戦に素っ裸で行くのと同じくらい莫迦な話だ。琴音が恥じるのも当然だろう。

 ぞろぞろと行列になっている兵達は、規律こそ揃っているが、好きなように言葉を交わしていた。自然昴も寒さを紛らわすのもあって、口を動かしてしまう。

「えらく簡潔だったな」

「何が?」

「乃依様との別れ方」

 ああ――、と琴音は思い出す風に言ってから今度は、そうだな、と肯定する。

「もうお互いに話すこともないと思った。あの方は私を分かってくれたし、私もあの方からいろいろ感じたから……」

 白い息を吐きながら琴音は言う。

「あの人、泣いたんだ」

 昴は琴音を見つめる。

「昨日、最後に宮で会った時。今のあなたなら、私が泣いても大丈夫でしょう――って。言ったら乃依様、本当に泣き出したから驚いたな。……鈴を亡くして初めて泣いたんだって」

 少し瞳を潤ませている琴音を見て、昴は肩をすくめて――思いっきり琴音の笠の前方を叩いた。

「いっ――!?」

 笠に薄く積もっていた雪が琴音の馬の縦髪に吹き飛び、茶の毛並みが白くなった。琴音は琴音でずれて取れかけた笠を慌てて抑えながら、

「何するんだ!」

 と声をあげる。

「手綱を持っていなかったくらいだから、笠も妙なの被ってないかと思ってな。――穴の開いたやつとか」

「お前……」

 ふるふると琴音は震えている。

「そんなに寒いならまた俺の袍貸してやろうか」

 からから笑って昴が言うと、琴音は目の前の馬の縦髪に積もった雪を昴に勢いよく投げ付けた。


 仁多が出来たのは今から約三百年前。葦原から改名して紅の国となっていた北西から南東に走る山脈より南西にある地は、悪の神の末裔である柳瀬によって治められていた。が、当時の暴君に反発した者が西の都で挙兵しそれに続く者達が次々に現れ、軍を南下させた。南と西とを分ける大河を挟んで、南の勢力と西の勢力は睨み合い、内戦が始まった。血で川が朱く染まったことから、その川は今、朱川しゅせんと呼ばれている。

 戦は引かず押されずで、長引いた。月日が経つとどちらも続けるのが困難になり、ついに柳瀬が折れて、朱川を境に南を紅の国のものとし、西を反乱の首謀者に与えた。これに際して紅の国は紅南国と名を改め、西の国は白西国と名乗った。この時から世界は今まで続いており、また北は玄武、東は青竜、南は朱雀、西は白虎の信仰が始まったとされている。碧と紅は神である先祖という信仰の対象があったものの、当時建国から間もない白西国や、緑北国には対象が存在しなかった。故に民は、自国も神に守られている、という安堵を覚え、国も丸く治まったという。

四大国の中で白西国が建国から最も幼い国であることは誰もが知っている。同時に、白西国がどの国にも引けを取らない、優れた国であることもまた有名だった。

 昴がこの国に入るのは二度目だ。初めて仁多に入った時、その堅牢さに驚いた。王の住む城は、大きな岩を背にして建てられていて、城よりはるかに高く幅の広いそれには、細い小さな抜け道がいくつもあり、城に通じているらしい。戦で都が危険な状態になれば、都の人々は城に集まり、そこから逃げるのだという。無論、白西国の生まれでない昴は、その道が何処に続いているのか全く知らない。

 都を囲う城壁は三重にもなっていて、一番外側の第一関から仁多城を囲む第三関まであり、堅固で、外から見るとかなりの威圧感がある。

 その第一関の城壁にたどり着いたのは、村を出てから半月近く経った頃だった。雪は勢いを増して降り続いており、なんとか都に到着するのに間に合ったといった有様だったのはおそらく、夜叉との対峙という予定外の任務が急にやってきたからに違なかった。昴も、そして初めての仁多来訪であろう琴音も、感動より、雪に埋もれずにすんだ安心の方が大きかった。

 琴音といえば、仁多王に会うというのはやはり真実のようで、大司空にあれやこれやと尋ねられたり、逆に尋ねたりしていた。昴が二人の会話に加わることはなかったが、見ていれば分かることも大分あり、琴音が乃依から譲り受けた紙は、何かを認める証書だったらしい。それを見せると、大司空は驚いたように紙を見て、琴音を見て、紙を見て、もう一度琴音を見た。それから、まるで楽しいお遊びでも見つけたかのようにニヤリと笑って、それ以来琴音と会話はしていない。

 祈真が十八歳だと聞いて驚いた昴だったが、確かに彼は戦場にいなければ、少し悪戯好きの豪放な青年だった。既に白軍の兵は分かっているのか、祈真が突然現れて、

「お前、もう少し痩せないと、そんなでけえ腹してたら女に嫌われるぞ」

 とか、

「仁多に戻ったら俺はもう訓練せんからなー」

 とか、なんだか酔っぱらった親爺みたいなことを言っても、からかわれても、つつかれても、

「はいはい。勝手に言っててください」

 と、軽くあしらっている。そこには大司空というものに対しての敬意も何もあったものじゃなかったが、皆が皆年下の祈真を可愛がるという、ほほえましいものが存在していた。

 第三関から第二関までの距離は半日、第二関を過ぎるともうそこは仁多の都の大路になる。

 白軍の活躍と到着の報せは、既に届いていたらしく、軍にくっ付いて大路に入った昴は、向けられる歓声と音に面食らった。

 自分は白軍の者ではないのだから、この歓声と全く関係ないのは百も承知で、出来るだけ目立たないよう笠を深く被り、馬を降りて顔を伏せているに務めた。琴音も同様、まるで大司空の馬の世話係であるかのように、彼の馬の横を歩いていた。正面きってあるく大司空の傍にいれば、皆そちらに視線がいくから逆に目立たなくてすむことを、昴も琴音も心得ていた。

 普通で一の時間がかかるとすれば、凱旋して大路を歩くのには、十の時間を要した。第三関、つまり、仁多城の城壁をくぐった時には、既に陽は西へ半分沈んでいた。

 白軍の兵が全員城の内へ入ると、祈真は手をあげた。それを合図に、ざわざわと騒がしかった兵は皆しんと静まる。どうやらしめのお言葉らしきものがあるらしい。昴と琴音は顔を見合わせて――皆にならって馬上の大司空を見上げた。

「皆、ご苦労だった」

 声は上に立つ者らしく、聞く者を引き付ける勇ましいものだった。

「東城視察という簡単な任務が、少々長引いてしまったな。突然夜叉と対峙させ、さらにその始末をさせてしまったことを詫び、同時に見事やってのけたことに感謝する。今宵は王から直に感謝の意が伝えられるはずだ。酒も食べ物も振る舞われるだろうから、城の中に残りたい者は残っていいし、早く妻子に会いたいという者は門が閉まる前に出ろ」

 そして、お得意のあの悪戯っぽい笑みを浮かべると、

「楽しむんだぜ」

 と心底楽しそうに言った。

解散が宣言され、兵は高揚して城の奥へ入っていったり、外へ出ていったりと動き始めた。その様子を、全くの部外者気分で見つめていた昴は、祈真がこちらに寄ってくるのを見て、ハッとした。

「で、お前、どうすんの」

 馬を使用人に預け、祈真は着ていた鎧を外し、それを傍らに控える別の使用人に慣れた様子で渡しながら琴音にこともなげに問う。

「もう時間も遅いし、明日にしとくか?俺も疲れたし、お前も結構――」

「今からじゃ駄目ですか?」

 鎧を脱ぎ、こきこきと肩をならす祈真を、琴音は笠を取って真剣に見つめる。

「無礼は承知しています。普通ならこんな唐突にお目通りは願えないことも……。ですが……っ」

「お目通りって……」

 昴は思わず声をあげた。

「まさか琴音、今から仁多王に会うつもりか?そんな無茶言うな!一国の王にそんな暇……大体――」

「ねじふせられる自信があるんだな?」

 昴の言葉を遮り、祈真は琴音を見下ろす。

「出来なくはないさ。だが、そんな急だと、さすがの俺でもお前をあまり庇ってやれないぜ。明らかに不利になる。臣下が喚く場合もある。それでもいいなら会わせてやるよ」

 話が読み込めなくて、昴は祈真と琴音を交互に見た。

 ――一体全体琴音は何を……。

 しかし昴のことなど全く気にせず、琴音は即答した。

「お願いします」


 城の中には靴のまま入った。外から見ると、この城は岩で出来ていて、中から見てもやっぱり岩で出来ていた。足を進める度に足音が長い入り組んだ廊に反響し、それが昴に緊張を与えていた。朱雀城は木製の為、朱の柱や白い壁なんかが多かったけれど、この城は灰色しかなくて、全てが簡潔で。寂しいところだな――とぼんやりと思っていた昴。もう少し飾りを多くしてもいいんじゃないかなんて、余計な心配をして、そしてものの見事に自分の浅はかさを思い知るはめになった。

 階段を登り、次の階に立って目に入ったのは、彩色見事な天井と、行き交うたくさんの人。女は皆ずるずると長い表着を羽織り、よく見ればそれだって全部使用人らしきものだった。忙しそうに廊を行ったり来たりしている。

 対し男はそんなに多くなかったが、それでも色とりどりの女服の合間に見える、厳格な黒い色は、目を引き付けるものがあった。

「あれは官服だ。一応、仁多の役人」

 昴の視線に気付いた祈真が、説明してくれた。はぁ、と呆気に取られる昴を見て、祈真はにやりと笑う。

「お前ら二人こっちに来い……あ、おい、お前」

 呼び止められたその役人は、訝しげにこちらを見たが、祈真の顔を見た途端、ハッとすると慌ててこちらに小走りに寄って来て――深々と頭を下げた。

「これは大司空祈真様……東野よりの無事のご到着、何よりでございます。今回は突然の夜叉の襲撃から民を保護したと聞いて――」

「宴の準備はもう出来てるよな?」

「え、は、はい。玉殿にて王が貴殿の到着を――」

「んじゃあすまんけど、こいつをそこに連れてってくれ」

 はあ――と、役人は祈真が指差す琴音を、まるで襤褸ぼろでも見るような目で見た。

「この少年を――ですか?失礼ですが、とても王の目に入れることの出来るなりではありません」

 本人の目の前でどうどうとそれを言われた琴音は、何も言わず、無視していた。祈真の方はというと、おもしろそうにその役人を見て、それはいいから――と言葉を加える。

「夜叉の襲撃から東野の巫女を救ったのはこの二人なんだよ。特にそっちのちびは俺が保障する。王には大司空からたっての願いですとかなんとか言っておけ。俺はお前の言う大事ななりを整えてから行くから、それまで王にそいつらを紹介しておけよ」

 じゃっ、と手をあげて祈真は廊を駆け出した。それを見た女人達が、

「まあ、大司空様!」

 とか言いながら頬を赤らめているが、それは見なかったことにしておく。

 祈真に命令された役人は、隠す事なく嫌そうな顔をして、琴音を上から下までなめ回すように見た。それに何故か腹がたって、昴は男を睨み付けたが、それに気付いた様子はなかった。

「来い」

 一言そう言うと、男は歩き出した。琴音は無言で男に付いていく。昴はたまらず息を吐き、なんで俺はこんなところにいるんだ――と一人呟いた。しかもこれから仁多を治める王に何故か会わなければならない。そもそも、何故昴まで王に会うことになっているのだろう?そうだ、今からでも遅くはない。別に昴は王に会いたいわけじゃないし、今からでもあの役人に、

「俺は結構です」

 とかなんとか言えば、さっさと帰してくれるだろう。あのような人となりを見ようとしない者からしてみれば、昴なんてごみみたいなものだから、いるよりいない方がいいに決まっている。


「いいか、王は正面の階段の一番上におかけになられている。この扉の向こうはかなり広く、しかも今から宴が始まることになっているから、文官も武官も左右にうじゃうじゃいるんだ。その間を通って階段の一番下から約二十歩の位置まで行く。そして膝をつき、頭を下げるんだ。それまで絶対に王を見たり顔を見たりしたら駄目だぞ。見たら首がちょん切れると思え。それから、自分から言葉を発してはいかん。それをしても首が飛ぶ」

 先程の男が先に中に入り、ことの次第を王に説明しに行った。扉の前で待たされている間、昴も琴音も、扉を守護しているらしい兵から、中に入ってからの礼儀を事細かに教えられていた。

 昴の辞退は、琴音によって却下された。というより、琴音の方から、

「何があっても何も言わないで、静かに聞いていて。驚くのは自由だけど、声は挙げないで」

 と、何やら意味深なことを言われて、引くに引けなくなったのだ。琴音が何をする気なのか、昴にはさっぱり見当もつかないけれど。

 首がちょん切れるだの、飛ぶだの、恐ろしい言葉が次々と飛び出していたが、昴はそう構えなかった。ようは何も言わないで頭を下げていればいい話。琴音が何かしでかしてとばっちりを食らうかも――と、少し心配したけれど、彼女はいたって真剣な表情で集中しており、昴はほっと息をついた。

 扉が少し開いて、中から先程の男が出て来た。相変わらずしかめっつらで、琴音と昴を見ている。

「礼儀作法は聞いたな?」

「はい」

「……来い」

 ギィ――と重い音がして、途端、夜とは思えないほど明るい松明の光と、がやがやとざわめく人の声が耳に入った。

 始めに酒の匂いがつんと鼻をつき、続いて料理のいい香りがして、ああ腹減ったなぁ――と、緊張とは程遠いことを考えている自分に気付いた。床に敷かれた赤の絨毯だけを見つづけて、音だけを耳で拾う。

 ほう、あれが東野の巫女を救ったという――。

 大司空直々のお招きらしいぞ――。

 まだ子供ではないか――。

 予想通りの反応で、何もおもしろくなかった。

 たくさんの視線を浴び、階段から約二十歩。まさにその通りの場所で、昴と琴音の前を歩いていた役人が膝をついて頭を下げた。昴も急いでそれに習う。

「大司空より王へ直に送るようにと、言付けを承りました。なんでも、此度こたびの東野の夜叉出没に関しまして、白軍の到着が遅れた際、村に留まり剣を振るったとの――」

 ざわざわと周りから声があがった。まさかこんな子供が剣を振るうなんて、とでも思っているのだろうか。もしそうならいささか失礼ではないか。十八の祈真は大司空で、十六の昴はなんで剣も振るえないと思われなければいけないのだろう。

 しかし、ざわめきは段々と大きくなり、総状していた男の言葉も止まった。何かがおかしい、と昴は顔をあげないようにしながら、こそっと辺りを見回した。そして――。

 昴は我が目を疑った。

 琴音が突っ立ったまま、階段の上――つまりは王を睨み付けるようにして見ていたのだ。緊張で我を忘れたわけでもない。場の雰囲気に呑まれ、放心しているわけでもない。彼女は自分の意思で、王を見据えていた。

 あまりのことに、昴も官も、王でさえも上手く対処出来ていないようだった。呆然と琴音を見て、ぽかんと口を開く。なんとも間抜けな光景だった。

「ぶっ、無礼者!」

 誰かが声をあげたのを期に、ざわめきが一気に大きくなった。それでも琴音は王から視線を外すことも、膝を折ることも、頭を地面にこすりつけることもしなかった。

 そしてあろうことか――。

「どきなさい」

 そう言って、目の前の男を押し退け、王と向き合う形で自分が前に出た。

「なん……!」

 男の頬は赤く染まったが、それでも動くことは出来なかった。もはやこの場の誰もが狐に包まれたような、魂を抜かれたような気分で、薄汚れた少年を見つめている。

「そいつを引っ捕らえろ!」

 しかし例外もいるようで、数人が琴音をこの場から叩き出すべく、飛び出して来た。ハッとした昴は思わず腰元に手を伸ばすが、それより早く琴音の右手が己の頭に伸びた。

 ふわり――と、漆黒の線が流れ落ちて、辺りがしんと静まった。

 取り払われた布。現れる美しい髪。

 これを見るのは初めてじゃない昴でさえ、呆然としてその姿を見つめるしかなかった。彼女が髪を降ろしている姿は何度も見たことがある。しかしそれは暗い場所での話だ。夜とか、部屋の中とか雨の日とか。明るい場所でその色を見たのは初めてで、だから視線は釘付けになる。

 松明の炎に合わせて、青い光沢は月の光を映す水面みなものごとく揺れていた。美しい以外のなんと言えばいい。漆黒の中に交じる青は、儚く、しかし強く惹かれる――。

「このようななりで御前に立つことをお許しください」

 優雅に頭を下げる――。

「信じていただけぬかもしれませぬが、貴国を頼ってこうして遠路より訪ねてまいりました。どうかお目を置きください」

「あなたは……あなたはまさか……」

 段の最上にいる王が初めて声をあげて少女を見つめた。少女は稟と優しく笑む。

「碧の国長、克羅芝韋が第一子、克羅藍」

 碧の宝がそこにあった。

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