命
それからの会話は一切なかったが、沈黙は嫌なものではなかった。どういういきさつかと問われれば、成り行きで、としか答えようがないし、戻った村で朝を迎えた人達に何かあったのかと問われても、あいまいに頷くしか出来なかった。
昴と琴音は言葉を交わしていなかったが、これから何処に行くのかはお互い承知していた。
馬を降り、階段を登って、昴は傍らの女に声をかける。
「琴音が会いたいと」
弥生月は頷き、宮へと入って行った。昴はその間に、そっと琴音を伺う。
乃依に話してもらわないと、彼女に全ては伝えられない。鈴の気持ちや琴音の肉親の思いを理解し、本人に言うことが出来るのは、乃依という巫女だけだ。
「大丈夫か?」
僅かに震えている琴音に、昴は小さく聞いた。彼女の思う誰かに似ているであろう乃依。彼女を庇って死んだ鈴の母親である乃依。どちらも、琴音にとっては辛いものでしかなく、特に後者は今までにない感覚となって押し寄せているはずだ。琴音の心情に言わせれば、自分が殺した子供の母親にこれから会わなくてはならないのだから。
「……いいか、琴音」
昴は琴音の手を取った。
「思ったことをそのまま言うんだ。泣いてもいいし、怒鳴ってもいい。礼儀も世間体も常識も気にしなくていいから、心のままにいろ。矜持も義務も捨てて、我が儘になれ。あの人は分かってくれるから」
長い間一緒にいた昴にも見抜けなかったことを乃依は瞬時に見抜き、琴音の心を把握した。今、琴音に必要なのは昴の心ではなく、乃依の心だ。乃依にしか分からないことが、琴音の心を光へと戻す唯一の方法であることを、昴は知っている。
「昴、いいって。それから――」
弥生月が出て来て声をかけた。
「その子だけじゃなくて、昴も来てくれと」
「俺も?」
昴は驚いて弥生月を見る。彼女はこっくりと頷くと、廊を走って行ってしまった。これから何が話されるか、弥生月は知っているのだろう。
昴は握っていた細くて小さな冷たい手をそっと離した。
「琴音」
「……分かってる」
ついさっきまで泣いていたせいで、まだ瞼は厚いし、目は赤い。それでも、一つだけ大きく深呼吸すると、琴音は自ら宮の中へと入って行った。
――あいつなら大丈夫だ。
その背中を見やりながら、昴も続いた。
思えば、昴と琴音の二人がこうして並び、乃依の前に腰を降ろすのは初めてかもしれない。昴も琴音もそれぞれに何度も乃依と話しているはずなのに、こうも緊張するのは多分そのせいもあるのだろう。もちろん、別にある主な理由は重々理解している。
「あなたを呼んだのは他でもありません。話がしたかったからです。心配なさらないでください」
開口から、乃依はいつもと変わらない優しい口調で、琴音にそっと言った。茶を三人分入れ、琴音の前に、昴の前に、そして自分の前に置くところまで同じだった。
「私のお話をしようと思ったのです」
ずっと伏せていた顔を、琴音は突然あげ、そして――額を地面にこすりつけた。
「申し訳ありません……っ!」
掠れた声で声になっていなかったが、何を言っているかは明白だった。思い違いを誠実に琴音は伝える。
「私のせいで……鈴を死なせてしまった……。あなたに謝っても、許されるはずのないことはわかっています……ですが――」
「私にはね」
乃依は琴音の言葉を遮った。表情を変えず、しかし声が奇妙に高かった。
「前世の記憶があるのです」
琴音は顔をあげた。
「幾度となく転生を繰り返して、今の私があるのです。その全てというわけではありませぬが、私は私を覚えています」
琴音は驚愕をあらわにし、信じられないといった様子で乃依を見つめていた。
転生とはすなわち、死した魂が再び別の肉体に宿り、生まれ変わることで、記憶も精神も前のものとは別にある。だから、前の自分である前世を覚えているはずがないし、乃依の言うそれは普通では考えられないことなのだ。琴音の驚きも最もである。
「つまり、私は私の死を覚えているのですよ。何を思い、何を感じて死んでいったか。何を願って、息絶えたか。けれど今の私しか私ではなく、だから私の前世は他人なのです。……そうですね、例えば、私の一つ前の前世は加恵という女性でした。その魂は今の私と同じですが、親も兄弟も生まれた場所も性格も生き方も、全てが乃依という私とは違います。ですから私と加恵の意思は別にあり、他人なのです」
乃依は琴音を見た。琴音も泣かないよう歯を食いしばっているようで、唇を真一文字に結んでいた。空気と一体化したような気分でそんな二人を見つめている昴は、それだけで勘違いの逸脱をしているように思えた。
「加恵は小さな村の娘でした。とても貧しい村だったけれど……とても幸せだった。いつか夫を持ち、子供を授かったら慎ましく平凡な生活を送るのが夢の、どこにでもいる年頃の娘。けれど村同士のいざこざに巻き込まれて深い手傷をおって……右腕が動かなくなるほどに負傷してしまったのです。加恵の両親は都から有名な医者を呼んだり、術師に頼ったりと手を尽くしましたが、結局切り落とすしかありませんでした」
乃依は右腕を左手でそっと押さえた。
「薬草で眠らされて、起きたら左腕しかなかったのです。悲しかったけれど、悲しみ続けるのは得じゃないと加恵は思いました。むしろ、生きていることに感謝した……。右腕を失ったのなら、左腕を駆使して生きていくまでだと。気丈で強い女性だったのですよ」
「……亡くなったのですか」
察した琴音が独り言のようにきいた。
「……切り落とすのが遅かったのです」
乃依は肯定の言葉を吐いた。
「治療法を探すのに時間を使い過ぎて、その間に腕は半分壊死し、彼女は体力を消耗してしまったのです。切断してから一度は回復したものの、再び床に着く他ありませんでした。医者には命は長くないと伝えられ、彼女の両親は娘に怪我を追わせた者を怨み、そして、早くに決断を下せず、結局は娘を死に追いやる羽目になった自分達を呪ったのです。……今のあなたのようにね」
乃依の眼差しが琴音を捉らえた。琴音にとっては鉤爪よりも頑丈であろうそれは、深く食いつき、互いを一本の太い縄で繋いだ。
「両親は娘をとても愛していました。その分怨みは深く、加恵の命がなくなる頃には加恵の言葉を理解しなくなっていた。いくら加恵が――私は幸せだったし、これからも幸せでいたいと思います。そのために、父様も母様も笑ってくださいな――と、心の底から思うことを言っても、彼女の両親は――お前は優しい子だ。だが、お前があの者を怨むのも私達怨むのも当然なのだから、無理しなくていいのだよ――と、不合理を押し付けるだけでした」
彼女が何よりも悲しかったのはそれです――と、乃依は言った。
「本当に心の底から、加恵は両親に幸せになってほしかったのです。苦しまなかったとは言わないけれど、それよりも幸せであったことを心に留めてほしかった……。加恵が死ぬまで願い続けたのは、両親の笑顔でした。けれど、それを見る事なく、加恵の命は尽きた」
誰も何も言わなかった。息すら耳に入らず、昴は自分の心臓の鼓動だけを音として拾っていた。規則正しく聞こえる波は、いつもより遅い気がした。
「もちろん、私の前世が全て人間だったわけではないし、人間であっても、全てが加恵のように願っていたわけではありません。ある者は自分に巣食う病魔の苦痛しか感じられないままだったり、戦で自分を殺した者を恨みながら死んでいった者もおります。けれど、死は必ずしも憎しみや恨みしか生まないものではない……。私である加恵の記憶はそこで終わっています。命が尽きたのだから当然ですが、私は……乃依としての今の私は、とても辛い……。結局、生を強く持つ者には、消えて行く者の思いが分からないのかもしれません。加恵は大切な人に幸せになってほしかっただけです。それだけが全てで、他には何もなかった。加恵を大切に思う者はしかし、おそらく加恵の望んだことは成せなかったでしょう。加恵の両親は、加恵の心が分からなかったのだと思いますが、もし分かったとしても、最愛の娘を失った残りの人生を笑って過ごすなど、出来なかったに違いない」
「でも加恵を本当に愛していたなら、笑ってすごさなくてはいけないのでしょう?」
「加恵は強制したわけではないのです。だからこの場合、加恵とその両親、どちらも間違ったことは何もしていません。両親が加恵の仇を取りたかったのも自分達を責めたのも、人の心の一つです。加恵が笑ってほしいと願ったのも、また人の心でしょう。――貴女は納得出来ませんか?」
琴音の表情を窺いながら、乃依は言った。琴音は小さく言う。
「……だって、それではどちらも幸せになれていません。加恵様の願いもかなっていないし、彼女の両親は加恵様の心すら分からないなんて……そんなの悲しすぎます」
「ならどうします?」
「……」
「あなたが遺された者なら……加恵の両親なら、どうしますか?」
琴音は言われて震えた。おそらくは、焦燥からくるもの。
「……加恵様の気持ちを汲み取ります」
「加恵は強制しているわけではないのですから、無理矢理幸せに振る舞っても、それは逆に加恵に対する裏切りになりますよ」
「だったら本当に幸せになればいい。なれなくても、なれるよう頑張ればいい。それば多分とても難しいことだけれど、本当に愛しているのなら出来るはずです」
声は弱々しかった。だが意志は明瞭で、琴音が口先だけの綺麗事を言っているのではないのは明らかだった。琴音はまだ気付いていないが、これが琴音自身のすべきことなのだ。
「なら、なぜあなたはそれをしないのです?」
突然自分のことに話を振られ、琴音は怯んだ。びくりと肩を揺らし、衣を強く握る。
「あなたの今の立場は加恵の両親と同じです。同じ境遇にあり、同じ道を歩もうとしている。貴女自身が悲しいといった道を」
「……そうかもしれません。でも……」
対し、今度の言葉に意志は感じられなかった。
「私は……私のせいでたくさんの者を苦しめて……守らなくてはいけなかったのに――」
「守るというのは――」
乃依は琴音の虚ろな言葉を遮った。
「無条件に愛するという事ではありません。相手に頼られるということです。束縛されてもいいということ。あなたには確かに、頼られていただろうし、守らなければならないものがあったのでしょう。ですが、それは本当に貴女自身の気持ちなのですか?あなたは何を己としているのです」
問い詰めたいことが多々ある言葉だったが、もちろん、昴はそんなことをするほど愚かではなかった。琴音はこれまでになく衝撃を受けた様子で乃依から視線を反らさなかったし、指先が白くなるほど衣を強く握っていた。
「あなたの大切な者達は……鈴は……自分の死を受け入れられぬ程、愚かでしたか?あなたのことを思えない程、死にいたらしめたものを憎み、怨み、同じ目に合わせなければ収まらぬほど、己だけを大事に思う者達でしたか?」
長い間があって、その間誰も動かなかった。時が永遠に止まり、世界の全てがこの宮を――乃依と琴音を見つめている。中心はこの場所でしかありえなかった。
「……私は」
永遠と時に見つめられ、ようやく琴音が唇を動かした。動かしたといっても、花びらほど薄く口を開けただけで、声は春風に揺れる木葉程もなかった。
「私は許されてもいいのでしょうか……?」
乃依は笑った。愛おしさで琴音を柔らかく包む。
「許すも何も、あなたを怨む者など最初からおりません」
やや間があって、ふと、琴音は泣き笑いのような笑顔を見せた。寒い冬が終わり、微かな春の訪れを告げる、木々の新芽のような――全てのわだかまりが消えた小さな笑み。今まで見たどんな表情よりも綺麗で、少女らしい少女のもので。その時昴には、場の空気が温かくなったように思えた。
「……なんとなくは気付いてたんです。私のしていることは虚しいだけだって。でも認めたくなかった。何も出来ないのだけは耐えられなくて……一つの強い意志がないと……私は弱かった。それにずっと気付いてた……」
笑顔を貼付けようと琴音は頑張っていたが、おそらく緊張が切れたためだろう。涙は止まることを知らず、次から次へと溢れ出す。拭うことも忘れて、放心したように乃依を瞳に映していた。それでも無意識に喋り続けている。もしかしたら、沈黙が怖いのかもしれない。
「泣くのは弱い証拠だと思ってて……なのに……おかしいな……なんで私……」
「……私は誰に似ておりますか?」
唐突なその言葉に、一瞬琴音の瞳に恐怖の色がよぎったが、すぐに消えた。以前の琴音からは考えられないことであるだけに、昴の心も自然温かくなる。琴音は静かに目を閉じた。
「……母です」
沈黙の中、乃依は琴音を抱きしめた。まさかそんなことをされるとは思っていなかったのだろう。彼女の上着の袖が琴音の頬に触れた途端、驚いて瞳を開いていたが、すぐにその表情も昴からは見えなくなった。
「よく……頑張りましたね」
今この時のみの琴音の母親を、乃依がかってでたのは明らかだった。突然のことに琴音は対応しきれていなかったが、やがてそのぬくもりを思い出したのだろう。しがみつくように両腕を乃依の肩に回した。
「乃依様……」
「……今だけでよろしければ、甘えてください」
琴音は少し躊躇って、しかし小さく呟いた。
「母……上?」
「なんです?」
「……母上……母……っ!」
乃依は琴音を強く抱きしめる。
「母上……私、ごめんなさい……本当にごめんなさい。我が儘ばかり言っていました……母上――」
琴音のくぐもった声が部屋に響いた。ようやく泣くことを許してもらえたのだ――。
二人の姿を見て、昴は席を立った。この場に残る必要は、多分もうない。
「……あの娘、本当に苦労していたのね」
外に出た昴は、弥生月と階段に座り込んで話していた。今も白軍の人々は夜叉の死骸の片付けを続行している。手伝うことも出来たが、とうていそんな気にはなれなかった。
「……本当はまだ子供なんです。そのくせに無理してばかりで――。悪いことじゃないが、あいつの場合は度が超していたんだと思います、多分。子供らしく振る舞いたくなかったか、あるいは――」
「……出来なかった?」
弥生月の言葉に、昴は深く息を吐いた。
「俺、実は琴音のことよく知らないんです。お互い旅の途中で会っただけで……」
そう、昴は琴音に関しては無知に等しい。知っていることといえば、彼女が碧の国出身で、紅南国との戦の際に肉親を亡くしていることと、あとは克羅の姫と面識がということだけ。接しているうちに、良家の娘だということはなんとなく見て取れたが、琴音の生い立ちや生活、身分なども何も知らない。そもそも、何で仁多に行きたいのかも昴はよくわかっていなかった。喜瀬村を殺す――、と吐いていたそれが本気なら、最終目的地は柳瀬の都のはずだが――。仁多で一度身の安全でも図るつもりだったのだろうか。彼女なら、なりふり構わず柳瀬へ直進しそうだけれども。
「子供なのに子供らしくないなんて……似ているわね」
弥生月の呟くそれが、琴音と鈴のことを言っているのだと分かって、昴は頷いた。
「二人とも、子供なのに子供になるのを許されず、けれど大事なところで誰よりも子供になる……」
鈴は琴音を守り、琴音は村に残って村を守るのに務めた。二人のどちらにも、利己を考える暇などなかったはず。自分の利益を考えない生き物はそうはいない。
「……この間あの娘に言われたことを色々と考えてみたのよ」
「どうでした?」
「それはもう腹が立ったわ」
弥生月は平然と言った。
「なんで巫女でもない男の子に、あんな風に言われなきゃいけないのか、全然分からなかったわ。そりゃあ、少し大人気ないなぁとは思ったけれど、乃依様にもしものことがあったらって考えると……」
分からなくもない。昴は先を促した。
「だから自分の言ったことは正しいと思っていたの。でも鈴が……鈴が、弥生月お姉ちゃんが巫女様になったら、喬お兄ちゃん、びっくりするよね――って。私が巫女になれないことを指しているのか、逆に立派な――喬の言葉を聞き入れて立派になった私のことを指しているのか……分からなかったけれど、どっちにしても喬の言葉の意味を考えない限り、私は巫女にはなれないと思ったのよ」
それで、考えたのだけれど――と、弥生月は面白そうに昴を見る。
「私、あの娘とはもう話さないことにしたの」
「一応尋ねますけど……どうしてですか?」
少し信じられなくて昴が言うと、弥生月は、失礼ね、と言いながらそれでも笑みを崩さない。
「見返してやるわ。自分の信じることも大切にして、けれど人を信じることも忘れない。私の意思だけで全てが動いて、それで村が危ない目に合ったりしたら嫌だもの」
結局は琴音の意見を受け入れていくということらしい。琴音が言ったからという匂いを感じさせず、むしろ対抗するみたいに見せ掛けて。
弥生月は立ち上がり、伸びをした。カラッと晴れた空に拳を突き上げ、ふー、と大きく深呼吸する。
「これから昴とあの娘はどうするの?」
言われて昴はハッとした。
――そうだ……忘れてた……。
琴音を思うばかりに、自分のしたいことと、これからのことをすっかり忘れていた。琴音に昴の生まれを説明しなくてはならないし、何よりも、自分たちはこの村で別れるのだ。
それを思うと、気持ちのよかった青空が、急に薄く淋しく見えて、思わず息を吐いた。
「この村で別れます。もともと俺が勝手に仁多まで送ってやるって言い出して……だからもういらないと言われれば、それまでなんだろうし、それに反論出来ない程酷いことをしてきてましたから――」
克羅の姫を琴音の中に見ていたこと。今は琴音自身を見ているけれど、昴のしてきたことは、一見何でもないようで、実際は槍で石を刺すより愚かだし、咲き乱れる花々を炎で焼き払うことより残酷だ。
弥生月は黙り込んだ昴をしばらく見ていたが、これ以上踏み込むのは不粋と考えたのだろう。宮の廊を渡っていってしまった。




