第5章 バベル (5)
その晩、僕は現実から逃れるようにして眠りについた。これまでの僕は、ただ目の前にある物を、見たまま感じたままに信じれば、それで良いと思っていた。正義は正義だし、悪は悪だ。しかしその常識が通じなくなったとき、僕は何を信じれば良いのか、わからなくなってしまったのだ。現実と夢、真実と嘘、正義と悪、どれも当たり前だと思っていた世界のバランス。そのすべてはまるで蜃気楼のように、あるように見えても実はそこに無いのかもしれない。
眠りに落ちる瞬間、僕はそんなことを考えていたと思う。そして夢の中で目を開くと、そこにはムーンライトが待っていた。彼女に会うのもずいぶんと久しぶりな気がする。ムーンライトの首には、クロスが揺れていて、彼女はとても穏やかに、そしてしなやかに僕へと近づいてくる。そんな彼女を見ていると、僕の苛立つ心もなぜか落ち着いてくる。これまでにも何度か感じたことだが、彼女の存在は僕の心を穏やかにする。もしかしたら、ネコを飼うというのは、こういうことなのかもしれない・・・。いや、こんなことを考えると彼女に失礼だろう。たぶんそれは、彼女の〈優しさ〉ゆえの効果なのだと思う。
「ちょっと様子を見るだけのつもりできたが、予想以上に腕の調子は良いようだな。安心したぞ。その様子なら、もう肩慣らし程度には、外に出ても大丈夫そうだ。どうだ、すこし街にでも出かけてみるか?」とムーンライト。
しばらく中断していたが、いよいよ夢の世界を本格的に旅するときが来たようだ。ドリームウォーカーになってからの僕は、皮肉にも現実世界ばかりが忙しかった気がする。
「街? この世界には街があるのかい?」と僕。
「もちろんある。現実世界にあって、この夢の世界に無いものなどない。ゾーンに行けば無数の都市や街がある。そこには、夢の世界の住人だっている。ただし、私が行ける場所は限られているぞ。前にも言ったが、私が行けるのは、過去に旅したことのある場所だけだ。だが、おまえもそろそろ行動範囲を広げ、この世界に慣れていく必要がある。そして可能であれば、我々はさらに遠くの世界を目指さなければならない」
夢世界の新参者である僕は、もちろんこの世界のことを何も知らない。きっとそこには、文字通りに〈夢の世界〉が広がっているに違いない。もし街に行けば、僕以外のドリームウォーカーにも会えるかもしれない。それに夢の世界の住人とは、どんな人たちだろう。
「みんなでお出かけ? やった~~! ねぇねぇ どこへ行くの? 私のおすすめスポットは、やっぱり〈崑崙〉あたりかな。あるいは〈イス〉とかも楽しいよ。〈バベル〉の2階にはとってもラブラブなカフェがあってね、あっ、それと、」
「まてまて、まずは図書館のある小さな街から行くべきだろう。こやつにはまだまだ知識が必要だ」とムーンライト。
「ねえねえ、その〈コンロン〉とか〈イス〉ってとこは、星が見えるのか? オレ、すっごい星が見えるとこ行きたいんだ。それと、できれば美少女レンジャーにも会ってみたい。どこの街に行けば会えるかな?」とステラ。
「え~ 図書館なんてつまんないよ~。だったらバベルのグラウンド0にある量子コンピュータのほうが便利だし、地下1階に行けばゲームコーナーだってあるよ~」
「ところでリリスよ。おまえは、なぜ当たり前のようにして我らの会話に紛れ込んでいるのだ?」とムーンライト。
・・・ ・・・ ・・・
・・・ ・・・ ・・・
ムーンライトの言葉に、一瞬、誰もが言葉を失う。
そこには何事もないかのような顔をしたリリスがいた。
「えっ? だって当たり前なんだもん。私とイオリ君は、もう永遠の愛を誓い合った関係なのよ。二人は、身も心も離れられない関係なの。ねっ、ねっ、そうだよね? 伊藤伊織君? 私とキミはラブラブなんだよね」
いきなり、そうきたか!!! たとえ言葉だけとは言え、そんなことを言ったのは事実だ。しかし言葉だけなら、結婚詐欺師なんか毎日、愛の言葉を口にしている。そもそも現実世界で言った口先だけの誓いに、いったいどれだけの拘束力があるのだろうか。
「・・・ ・・・ あっ、あのときは、確かにそう言ったけど、あれはそんな意味じゃなくて、ただリリスを元気づけようと・・・。それよりケガは? 見たところ大丈夫のようで安心したよ。って、そんなことより、あの山田の事件は、君が何かをしたのか? 君は僕をかばってくれたと思ってたけど、あれは君が仕組んだのか! いや、そもそもキミは人間じゃないんだろ。キミの正体は何なんだ」
僕はかなり混乱している。彼女に言うべきことが多すぎて、何を言いたいのか、要領を得ない。
「あれ~? イオリ君、なんで突然そんなこと言い出すの~? もしかして誰かに何か言われたのかな~?」
!!!
もちろん、僕は江国美咲から事件の全てを聞いている。しかしここは用心すべきだと、僕は直感的に思った。江国美咲から聞いた話をリリスに突きつけ、リリスを問い詰めるのは簡単だ。しかしそんなことをすれば、不要な情報を僕に漏らした江国美咲をリリスは敵とみなすだろう。リリスがどういう存在かも分からない状況で、彼女の名を出すのは正解でないような気がする。
「いや、そんなことはないんだけど、ただよくよく考えてみると、何だか不自然なことがたくさんあったような気がするんだ。だから聞いてるんだけど」
「え~ 私は何もしてないよ~。そんなこと、イオリ君だって見ていたからわかるよね? それに私は本物の人間だよ。頭のてっぺんから足の先まで人間だよ。それこそ私の全てを知っているイオリ君が一番よくわかっているはずよ」
これは会話の収拾がつきそうにない。リリスはとぼけているのか。それとも本当に何もしてないつもりなのか。僕には、彼女の言葉の意味がまるでわからない。しかも見えない会話に業を煮やしたムーンライトまでもが会話に入り込んでくる。
「ちょっと目を離していればこれか! 〈永遠の愛〉とはなんのことだ? 契約の危険性については十分に説明しておいたつもりだったのだがな! 伊藤伊織よ。おまえはいったい何をしたんだ! まさかリリスと本当に契約したわけではあるまいな?」
「ねぇねぇ、マスターの名前は、イトウイオリに変わったのか? オレは〈マスター〉っていうほうがクールだったと思うんだけど」
「あら、これがイオリ君の新しい武器? ずいぶん小さくてカワイイのね。さすがは私のイオリ君、目の付け所が違うわ。私と同じで可愛さ重視ってこと? 早くイオリ君のために、立派で強い武器に育ってね。ハイ、カワイイからこの飴あげるね」
「オレの名はステラだ。オレはマスターと一緒に星を見にいくんだ。本物の星だぞ! そのかわりマスターを守ってやるって決めたんだぜ。それより美少女レンジャーのことは知ってるか? あっ、それともう1つアメくれる?」
「おい、女よ! 手のりトカゲのことなど、どうでもいい。それよりおまえの目的は何だ。おまえは何者なのだ。それになぜこいつとの契約に、そんなにこだわるのだ」
「あら、ムーンライト。あなたはいつまで、そんなババくさい言葉遣いを続けてるの? 私はもう、イオリ君に合わせて高校生バージョンに変えたわよ。それとアナタを殺すっていうのも、しばらくは延期してあげる。だってイオリ君のペットを勝手に処分するわけにはいかないものね。でもあんまり反抗的だと、どっかの世界に捨て猫にしちゃうかも~」
もう話の収拾など、つくはずがない。みながみな、自分勝手に質問し、そして誰も質問には答えない・・・。