第5章 バベル (4)
「指輪のことは理解してくれたようね。そんなバカな、とか反論してこないところは、さすがにイオリ君ね。理解が速くて助かるわ。さて、指輪のことが分かったところで、今回の事件を改めて考えてみると、そこには新しい見方が可能になるの。誰が悪者で、誰が被害者なのか? それは別の言い方をすれば、誰が得をして、誰が損をしたのかってことよね。まず山田君だけど、結局こんどの件で一番損をしたのは彼だわ。全ての責任をかぶって舞台から消されるスケープゴート(生贄)の役回りってとこね。事件の流れを表面的に見れば、彼が一番の超悪役って感じに見える。でも、彼はなぜあんな無茶なことをしたのかしら。山田クンはほんとのバカだけど、妙に小ズルイところがあった。ああいうズルくて器の小さい人間は、器用な小悪党になるのが精一杯。彼が事件を起こしたことの責任は、むしろ彼を精神的に追いつめた周囲の責任のほうが大きい。山田君の嫉妬心をあおり、理性を狂わせ、周囲の人間を操って彼を徹底的に追い込んだ人間がいる。果たしてそんなことのできる人間が誰だったのか。そして、今度の件で得をした人間は誰か。私が見た限りで、こんな事件があって何かの利益を得ているらしい人間は、一人しかいないの。もっともその報酬が何だったのか、私にはまだイマイチ良くわかってないんだけど・・・。
もうこれ以上言わなくても分かってるはずよね。今回の件で、果たして誰が一番の悪者なのかを。そして私が知りたいのは、その悪者はなぜこんな手の込んだことをしたのか、何を手に入れたのか、それにどんな価値があるのかってこと。もう一度聞くわ、イオリ君。あなたはリリスさんに何を与えたの? この指輪がオモチャにしか見えない程の価値あるものって何?」
僕には何がなんだか、頭が混乱してわからない。いや、理性では分かっているのかもしれない。しかしリリスに愛の誓いまでした僕の感情が、理解することをさまたげているのだ。しかも目の前にいる江国美咲のことも僕にはわからなくなった。以前から妙に怪しい人間であることは、薄々気がついていたのだ。頭が異常に良い人間であることも気になっていた。しかし今の話を聞いて、彼女への疑問が、すべて彼女への不審に変わっていく。
江国美咲はなぜ、指輪のことをこんなにも詳しく知っていたのだろう? 彼女は何の目的があってここにいるのだろう? 彼女はなぜ僕にこんなことを聞かせるのだろう? 僕はリリスを信じて良いのだろうか? 江国美咲を信じて良いのだろうか? リリスの愛は本当なのだろうか? 僕のリリスへの感情は何なのだろうか? 江国美咲は僕に何を求めているのだろうか? ・・・頭が混乱して、何が何なのか本当にわからないのだ。
「僕にはなんにもわからないよ。だから今は何も言えない。ごめん。誰を信じていいのかわからないんだ。今日はもう帰るよ」
僕は立ち上がり、そのまま急いで生徒相談室を出ようとドアへと向う。そのとき、後ろから追いかけて来た江国美咲が僕の腕をつかむ。そして振り返った僕の口に、彼女は自分の唇を重ねてきた。
え?! ・・・ ・・・ ・・・
・・・ ・・・ ・・・ ・・・
僕は動くこともできず、ただ驚いてそこに立ちすくむだけだった。すると彼女は言った。
「ごめんね。イオリ君が混乱するのはわかってた。でも、どうしてもイオリ君に伝えなきゃならなかったの。あなたが何も知らずに、リリスさんのものになってしまう前に。指輪のことだって、本当は話しっちゃいけないことだったの。だからお願い。私を信じて。これが本当の私の気持ち・・・」
見ると彼女の目には、涙が浮かんでいる。そしてそのまま、彼女は部屋を飛び出していってしまう。
―― これが本当の私の気持ち ―― それはどういう意味だろう。彼女なぜ突然こんなことを・・・。一人、部屋にとり残された僕は、ただとまどうばかりで、彼女を追いかけることもできなかった。
しかしこのとき僕が動けなかったのは、彼女の突然の行動に、ただ驚いていたからではなかった。彼女のやわらかい唇に触れたとき、僕はなぜかその感触が、初めてではないような気がしたのだ。キスなんて初めての経験のはずなのに、まるでデジャブーのような感覚とともに、なぜかリリスの顔が脳裏をよぎったのだ・・・。
僕は、呆然と部屋に立ち尽くす。見れば部屋のテーブルには、彼女が飲み残したコーヒーカップとお菓子がそのままになって置いてある。僕はテーブルに引き返すと、カップとお菓子を片付けてから生徒相談室をあとにした。