第5章 バベル (2)
生徒相談室には予想通りに江国美咲がいた。テーブルの上にはコーヒーカップが置かれ、お菓子が散乱している。この部屋は既に彼女の私室と化しているようだ。僕が部屋に入るやいなや、彼女は待ちかねたように話を始めた。
「昨日は大変だったわね。たぶんキミなら公園に行くだろうと思ってたけど、やっぱり行っちゃったのね」
「ごめん。弱虫のくせに、変なところで意地を張っちゃって。みんなにも迷惑かけたね。反省している。ところで先生から聞いたんだけど、キミが警察に連絡してくれたんだよね。ありがとう。おかげで助かったよ。リリスのことも介抱してくれたって聞いたけど、本当にありがとう」と僕。
僕の話の最後の部分を聞いて、江国美咲の顔が心なしか怪訝そうな表情にかわった。
「ふ~ん。いつもと違って、ずいぶんリリスさんに対して優しいのね。これまでの態度とちょっと違うような気がするんだけど、リリスさんとの関係に何か変化でもあったのかしら?」と、江国美咲は奇妙なことを聞いてくる。
「そんなの当たり前だろ! 彼女は僕をかばって刺されたんだ。僕の命の恩人なんだよ。気づかって当然だろ!」
「命の恩人・・・なのかしら? イオリ君は本気でそう思ってるんだ。いや、キミならたぶんそう思ってる気がしてたけど・・・」
江国美咲は更に奇妙なことを言いながら、少し困ったような顔をしている。彼女は何が言いたいのだろう。何か妙に歯切れの悪い様子で話を続けた。
「あのね、イオリ君。突然に妙なこと聞くようだけど、イオリ君はリリスさんに婚約指輪とかあげたりしてないよね?」
僕はドキッとした。婚約指輪はあげていない。しかし愛の誓いは口にした。どうしてそんなタイムリーなことを聞いてくるんだろう? やはり彼女は人の心が読めるのかもしれない。僕の返事を待つことなく江国美咲は話を進める。
「なんか心当たりがあるって顔してるわね。リリスさんのことを話すときの口調が妙にラブラブだし、結局二人はそういう関係になっちゃったってところかしら?」
「なってない! 婚約指輪だってあげてない。優しい言葉でちょっと彼女を気遣っただけさ! 僕の代わりに刺されたんだ。それくらい当然だろ!」と、僕はなぜか必死に弁解している。なぜこんなにドキドキしているのか、自分でもよく分からない。江国はそんな僕を見ながら、疑わしそうな目つきで再び話し始めた。
「ふ~ん。なんかすっごくあやしいな~。まぁいいわ。とにかく話を元に戻すけど、リリスさんは本当にアナタの命の恩人なのかしら? 今回の事件について、イオリ君は誰が悪者で、誰が被害者だと思ってる? もしかしたら基本のところで勘違いしてないかと思って」
「勘違いなんかするわけないだろ。山田のバカがナイフなんか持ち出して、自分勝手なことばかり言って、最後はリリスが僕の代わりに刺された。山田が悪者で、リリスが被害者。そんなこと小学生でもわかるだろ! 江国はさっきから何が言いたいんだよ」
「やっぱりそう思ってるんだ。だからそれが勘違いなんだってば。これを見て」
そういうと、江国は自分の右手を僕にさしだす。 ??????・・・?!
指輪?
良く見ると、江国の右手薬指に銀の指輪が光っている。その指輪は、確か以前にリリスがしていたはずの指輪だ。リリスがオモチャだとか何とか言っていた記憶がある。
「それって、リリスがしていた指輪だよね。なんでそれを江国が持ってるのさ」
「もらったのよ、救急車の中で。こんなオモチャはもういらないから美咲ちゃんにあげる、って言ってた。私、本当は、リリスさんが刺されたとき、どさくさに乗じて、彼女の指からこれを盗むつもりで救急車に乗ったの。気づかうふりをしながら彼女の手を握ったの。そして指輪を抜き取ろうとした。だけど、彼女それに気づいてたみたい。いきなり目を開くと、幸せそうな顔で、――あなたはこれが欲しいんでしょう? こんなオモチャ、もういらないから美咲ちゃんにあげるね――そう言って、まるで本当のオモチャみたいにこれをくれた。確かに以前、彼女は言っていたわ。イオリ君から婚約指輪をもらったら、こんなオモチャはもういらないって。つまり、彼女は今回の事件を通して、目的のものを手に入れた。だから、こんなオモチャはもういらない。そういうことになるわ。だからさっき私はあなたに聞いたの。イオリ君は彼女に婚約指輪をあげたのかって。私は興味があるの。いいえ、私は知らなきゃならないの。彼女が手に入れたのものが、何なのかを!」
話がまったく見えてこない。こんな指輪がいったい何だというんだろう。彼女の話を聞いていると、まるで指輪欲しさに、火事場泥棒のようにして救急車に乗り込んだように聞こえる。まさかとは思うが、江国美咲はこの事件を最初からどこかで見ていて、リリスが刺されたタイミングでやってきたということなのか。そういえば以前、江国が出した三つの課題があった。あのときの僕は学年五十位に入ることを選んだが、違う選択肢に、指輪を手に入れるという課題があったはずだ。もしかしたらあの時、江国は僕に、本当はリリスの指輪を持ってこさせたかったのかもしれない。こんなものが、いったい何だというんだろう。