第5章 バベル (1)
(第5章)
山田の事件があったその日、意識を失って病院へ運ばれた僕は、そのまま一晩ほど検査入院することになった。翌日の朝には退院し、学校に登校したのは昼休みからだ。
わずか一日にして、事件はすでに学校中の知るところであった。県下に知られた進学校である青葉台の傷害事件となれば、外部に漏れれば新聞ざたは避けられない。昨晩から今日の午前中に至るまで、教師たちは職員会議や事件に関わった生徒との面談が続いていて、今日の一時限目と二時限目は全学年とも自主学習だったらしい。僕は登校するなり、そのまま会議室に呼び出され、学校長、学年主任、担任、心理カウンセラーらに取り囲まれながら事件の詳細を説明するはめになった。とはいえ、事件を重く見た学校側の対応は早く、すでに事件と関わった何人もの生徒と面談が済んでおり、事件から一日が過ぎた今、事件については僕が語る内容よりも、むしろ僕が事件の事後報告を聞いて驚くことのほうが多いぐらいだった。
事件のおおすじについては、関係者全員の話がほぼ一致しているらしい。昨日の朝、学力試験の結果発表のときに山田が僕にインネンをふっかけてきたことや、野比伸太を交えての言い争いになったこと。これらは周囲にいた数十人の生徒が目撃していた出来事であり、山田が僕に対して歪んだ悪意を抱いていたという証言が数多く寄せられているという。次に昼休みに成山が伝言をよこした事。これも出来杉や江国美咲だけでなく、テーブル周辺の生徒達からも確認が取れているという。そして事件のあらましについては、杉下と成山が全てを証言していて、その内容は僕の話とほぼ完全に一致しているという。更に言えば、彼ら二人は山田がナイフを所持していたことを知らなかったと話していて、知っていればまさか事件に加担することはなかった、事件現場でも自分たちは山田を止めたんだ、という供述を何度も繰り返しているらしい。この点については、確かに二人の言うことは間違ってない気もするが、あえて彼らの弁護をする必要もないだろう。僕は黙っていることにした。
そしてここから先は僕も知らなかったことだが、事件を警察に通報したのは、江国美咲だという。彼女のほかに男子生徒が二人いたというが、先生から聞いたその名前に僕は聞き覚えがなかった。もしかしたら以前、山田に殴られたとき、江国美咲と一緒にいたあの二人の男子生徒なのかもしれない。江国の証言によれば、昼休みの一件で僕を案じた江国が、用心のために男子生徒二人に頼んで一緒に見に来てくれたのだという。彼らが来たときにはすでに事件が起った後で、驚いた彼らがすぐに警察に通報したらしい。彼女は血だらけのリリスを介抱して救急車にも同伴したという。幸いにもリリスのケガは急所を外れていて、ナイフは内臓の重要な器官をさけるようにして刺さったらしい。彼女の命に別状はなく、一夜明けた今日、既に彼女の意識も回復しているという。
そして事件を起こした張本人である山田については、駆けつけてきた警察官にすぐに取り押さえられ警察署に留置されたらしい。本来ならそのまま未成年による傷害事件として、家庭裁判所へ送致されるはこびとなるらしい。しかし今朝になり、佐藤莉理栖の親から弁護士を通じて警察に連絡が入り、今回の事件は刑事事件として告訴する意思が無いことを告げられたという。山田は弁護士立会いの下で、身柄は保護者に引き渡され、今は家に帰されているそうだ。なるほど考えてみれば、この事件に最も深く関わっているはずの僕が、いまだ警察から何の事情説明も求められていないことが不自然だったのだ。今回の一件が、事件として成立していないならそれもうなずける。
先生たちは、僕に公園での細かいいきさつや、なぜ山田があのように常軌を逸した行動をとったのか、僕なりの説明を求めてきた。しかし、僕には山田の行動が全く理解できないとしか言いようがなかった。被害者側である佐藤莉理栖が、今回の件で、伊藤伊織の行動には一切の非がないことを強く主張しており、それを学校と加害者側が認めることを条件に、山田良治を刑事告発しないことを提案してきたという。事件が公になれば、山田はもちろん学校側としても非常に困ったことになる。そのようなこともあり、今回のことは、山田のカツアゲ行為を僕が拒否し、それが山田の理不尽な怒りをかう原因になった、というやや強引な理由でもって事件を決着させることとなった。山田の両親も、告訴しないでくれるのであれば、全ての非を受け入れるそうだ。だが刑事事件にはならなかったとはいえ、もちろん山田への処分がなくなることはない。山田の自主退学は避けられないだろう。早く事件を収束させたい学校側の思惑もあって、傷害事件という重大事件のわりには、教師たちの僕への追求はことのほかあっさりとしたものだった。それでも教師たちとの面談は二時間近くにもおよび、僕が会議室を出る頃にはすでに六時限目の授業が終わって放課後となっていた。会議室を出て僕が廊下を歩きだしたちょうどそのとき、前方の壁から一本の手が突如突き出してきて、こっちこっちと僕に向って手招きしていた。
妖怪マッドハンドか??!!
しかしよく見ると、手は部屋三つ先の生徒相談室のドアのすき間から突き出している。しかもその手は女子のものだ。ということは、妖怪マッドハンドの正体は江国美咲と考えて間違いないだろう。