第4章 闇黒の瞳 (27)
ナイフが腹に突き刺さる瞬間、突然、何かが僕の上に覆いかぶさってきた。僕は訳もわからぬまま、その何かと一緒に地面に押し倒される。そしてその何かは、僕の上に覆いかぶさったまま、動こうとしない。それは何か温かくて、なんだかとてもやわらかいものだった。
我に返った僕は、自分がリリスに押し倒されていることに気がついた。リリスが横から飛び出してきて、僕に抱きつくかたちで僕をかばったのだ。僕の上に覆いかぶさったままのリリスの体は、とても温かくて、なんだかとても優しく感じられた。そして彼女の体から流れ出た血が、彼女と僕の服を紅く染めていく。彼女は僕をかばい、代わりに刺されたのだ。見上げれば、正気を見失った山田が、真っ赤な手を振り払いながら嗚咽のような奇声を上げている。杉下と成山は動くこともできず、その場に立ち尽くしていた。
僕の上に覆いかぶさったままのリリスは、僕を抱きしめたまま、弱々しい声で話しだす。
「もう少しだけ・・・、このままでいさせて。お願い・・・。でも、これで私の愛が本物だって・・・、イオリ君・・・信じて・・・くれるかな・・・。こんなふうに二人で抱き合って、なんだか・・・、とてもロマンチック・・・だよね。もしかしたら、私・・・、このまま死んじゃうかもしれないね・・・。ねぇ、昼間に約束してくれたよね・・・。ロマンチックな場面で、永遠の愛を誓ってくれるって。お願い・・・、私のこと、ウソでもいいから、好きだって言って・・・」
リリスはそれだけ言うと、目を閉じて動かなくなった。
僕は、彼女の愛情を疑い、最初から信じようともしなかった。いま、それを後悔している自分がいる。彼女の愛をもっと信じてやるべきだったのだ。彼女は何度も僕のことを好きだ、愛していると言ってくれた。それなのに僕は彼女に対して冷たい態度をとり続けた。そんな僕をかばって、彼女は身代わりになって刺されたのだ。今、その彼女が僕に愛の言葉を求めている。僕には、今、彼女の愛情に応える義務がある。たとえそれがウソの愛情であったとしても・・・。
すでに動こうとしないリリスに向って、僕は必死に語りかける。
「ごめん。ごめんよ。僕はキミの愛情を信じようとしなかった。ほんとにひどいよね。ごめんよ、リリス。でも今は信じるよ。キミの僕への愛情を信じる。リリスが僕に永遠の愛を誓えって言うのなら、誓うよ。キミが、もしこんな僕でも愛してくれるっていうんなら、僕もキミのことを愛するって誓うよ。本当だ」
彼女に、僕の言葉が聞こえているのか分からない。でもきっと思いは伝わるはずだ。いまの僕にできるのは、彼女の無事を祈り、ただ気休めの言葉をかけるだけだ。早くリリスを病院に運ばないといけない。
だがそのとき、リリスがゆっくりと目を開く。
そして静かに、そして満面の笑みを浮かべながら彼女は囁いた。
「もちろん、あなたへの愛を誓うわ、永遠の愛を。伊藤伊織クン。これであなたは私のもの。もう決して離さない。もう私からは逃れられない。永遠に・・・」
そして、またそれは起った。僕にだけ見える不思議な幻覚。僕の目には、現実と幻想が二重に重なって見える。幻想の中で、リリスの身体を緑の蔦が這い、伸びた蔓が幾重にも彼女の身体に巻きついていく。蔦は幾重にも幾重にも巻きつき、リリスの体を覆い尽くして彼女を強く縛り付ける。それは呪縛だ。そして蔦は更に伸び続け、やがて蔓は彼女の体だけでなく、僕の体にも巻きつき始める。僕の体は蔦に巻きつかれて、体の自由が奪われていく。蔦の蔓は強く、どんなに強く引っ張ろうとも決して引きちぎることはできない。リリスの体と同様、呪縛の蔓は僕の体を縛りつけ、僕も完全に自由を失う。二人を縛る蔦は、果てしなく永遠に、僕たち二人を縛り続ける。二人を縛る永遠の愛・・・。
しかしその幻覚も長くは続かない。ほんの一瞬で幻は消えていく。僕はリリスの美しい顔を見つめる。すると、僕を見ていたリリスと視線が重なる。僕の目に映る彼女の瞳には、その奥に果てしのない深い深い闇があった。僕の心は彼女の美しさと深い闇に包まれ、そのまま果てしない闇の中へと落ちていった。
その後のことは覚えていない。僕は気を失ったらしい。意識を失う瞬間、どこからかサイレンの音が聞こえてきたような気がする。そして次に目が覚めたとき、僕は病院のベッドの上だった。目が覚めるまでの数時間、僕は夢を見ることもなく、眠り続けていたようだ。この数時間の間の意識が完全に欠落している。しかしなぜだろう。ふとこの時、僕は見てもいないはずの夢の何かを思い出しかけたような気がした。僕はリリスと・・・。
(第4章終わり)