第4章 闇黒の瞳 (26)
「伊藤、返事だ! 早く返事しろ!」
僕には何も答えられなかった。この状態で何を言えば良いのかわからない。いや、正直に言えば、怖くて答えられなかったのだ。夢の中で鬼に対峙したとき、僕にはそれが夢だとういう非現実感があった。格闘ゲームの対戦で、戦闘を恐れるプレイヤーはいない。それと同じだ。あのとき僕は、その危険性を理解してなかった。死んでもリセットできるゲームと同じように思っていた。だから鬼とも戦うことができた。しかし今、僕は現実のナイフを前にして、恐怖で足がすくんでいる。ナイフで刺されれば人は死ぬかもしれない。その本物の恐怖が僕の足を止め、口を動かなくする。
「おいおい。昼間の偉そうな態度はどうした。怖くて、口もきけないのかよ。だらしね~な~。だったら沈黙五秒で、イエスとみなすぜ。このインチキヒーローが! いくぜ、イ~チ、ニ~、サ~ン、シ~」
僕は無理やりに自分の口を動かす。どんなに怖くても、何もしないで屈服するわけにはいかない。何もしないで負けてしまうのだけは、もうイヤだ。
「ぼ、ぼ、僕、僕が、僕は、」
「はぁ~? 僕がなんだって~? 弱虫僕ちゃんがなんだって~? ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、僕ちゃん?」と、山田は僕をあざ笑う。。
僕の恐怖心を打ち消したもの、それは怒りだった。ナイフを人に向けながら、人を弱虫呼ばわりする山田。ヤツは自分こそが最も弱くて、最も卑怯であることに気づいてさえいない。その山田の愚かさへの怒りが、僕の恐怖心を上回ったのだ。それまで恐くて動かなかった僕の体は、ようやくその呪縛が解ける。
「ぼ、僕がオマエに服従するのはかまわない。それでオマエの気が済むならそうしてやってもいい。でも試験でイカサマはしていない。もしそれがイカサマだとしてもオマエの能力ではマネできない。だからオマエがAクラスに行くのは無理だ。そして前にも言ったけど、リリスの行動を決めるのは彼女自身であって、彼女は僕の所有物じゃない。彼女は何にも束縛されない自由な存在だ。だから彼女をオマエに差し出すなんてこと、僕にはできない。オマエは彼女に手をだすな」
「はぁ??????????? なに偉そうなこと口走ってんだぁ??? 反論は許さないって言っただろう!!! おまえ、自分の立場が分かってないようだなぁ~。おまえ、俺がただの脅しでナイフ持ってるって、勘違いしてるだろう?! このイカサマ野郎が、言うに事欠いて、俺様の能力じゃマネできないだと~。俺様がオマエに劣るって言いたいのか~? 女に手ぇだすなだぁ~~?? もういい。もういい。もういい。もういい。もういいや。やっぱオマエは殺すしかないようだな。やっぱそうなるんだな?? なんかそんな気がしてた~~」
山田は僕に向けてナイフを身構える。その目が狂気に染まる。山田は本気だ。
「やめて~~」
叫んだのはリリスだった。リリスは必死な声で山田に話しかけた。
「山田君、やめて! 私でよければ、あなたの彼女になってあげる! だからやめて。お願い。イオリ君に手をださないで! 誰もあなたに逆らわない。あなたの彼女にだってなる。だからもうやめて! イオリ君を殺すだなんて言わないで!」
リリスの口から出た言葉は、僕にとってまさに予想外のものだった。リリスが僕を愛してなどいるはずがない。これまで僕はそう思っていた。しかし、今の彼女の言葉と行動は、彼女の愛が真実であったことを証明している。もしかしたら、僕は彼女に対して、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
このリリスの言葉を聞いて、山田の手はその動きを止める。
「そうさ! それでいい。それでいいのさ。莉理栖、オマエは俺の女になるんだ。これからはいつも俺のそばにいるんだ。おまえみたいな美人は俺様にこそふさわしい。こんな伊藤なんかより、俺様のほうが、おまえをもっともっと可愛がってやる。今からお前は俺の女だ! だけどな~~。この伊藤は俺に逆らった。反論は許さないって言っておいたはずなのになぁ。こいつにはオシオキが必要だ。なぁ~に、殺しはしないさ。ズブっと刺すだけさ。二度と逆らえないよう、こいつの心と体に恐怖ってやつを刻み込んでやる。この俺様への恐怖心をな~~!!!」
山田はナイフを構えて僕に近づいてくる。その様子を見ていた成山と杉下も、ようやく事の重大さに気づいたようだ。あわてた様子で、山田に声をかける。
「おい、山田。もうそのへんで十分だ。佐藤もオマエの彼女になるって言ってるんだし、もういいだろ。そこまでにしておけ!」と成山。
「そうだよ。良ちゃんのスゴさは、もうみんな分かってるから。伊藤だって、もう声も出せない程、オマエの怖さがわかってるって。それ以上やったら、マジでシャレじゃ済まないから!」と、震えた声で杉下も山田を止めようとする。
それを見ていた僕はというと、なぜか彼らの動揺を見ているうちに、逆に自身の落ち着きを取り戻していった。人間の心理とは不思議なものだ。この緊迫した状況の中、僕はまだ山田に言い残した言葉があると考えていた。
「山田。オマエは勘違いをしている。怖いのは、オマエじゃなくて、オマエが持っているそのナイフだ。僕が恐怖するのはオマエじゃない。そこを勘違いするなよ。オマエは自分の力だけじゃ何もできない卑怯者だ。だから、ナイフという武器を使っている。オマエが強いわけじゃない。それを忘れるな。そして僕がオマエを恐れているだなんてバカな勘違いはするな」
もし刺されるとしても、何も言わずにただ刺されるのはダメだ。僕は山田を恐れてはいない。怖いのはナイフだ。山田への恐怖を認めることなど絶対にしない。
「そうかよ~~~~~ テメエはマジでむかつくぜ~~ 言いたいことはそれだけだな~~~~!!!!!! やっぱオマエは殺すわ」
山田は僕に向ってゆっくりと走り寄って来る。現実の世界は、夢のようにはうまくいかない。ナイフを持った人間に素手で立ち向かうのは、よほどの訓練でも積まない限りは無理だろう。しかし僕の意識は、この緊急時の中で、妙に研ぎ澄まされて冷静だった。時間の感覚が通常の何倍にも引き伸ばされて感じられる。緊急時に脳内のアドレナリンが引き起こす現象だ。刺されるなら、胸ではなくて、腹にしよう。胸に刺されれば命にかかわる。しかし腹ならナイフで刺されたくらいで死ぬことはないはずだ。山田が確実に僕に近づいてくる。もう逃げることは不可能だ。僕は引き伸ばされた時間の中で、刺されることを覚悟した。