第4章 闇黒の瞳 (24)
一方その頃、僕たちは学生食堂にいた。僕、リリス、江国美咲、出来杉英才、いずれも十月には同じAクラスの仲間だ。「伊藤伊織の妻です」という笑えないリリスの冗談のあと、話題は自然と一ヶ月後の期末考査のことになっていた。出来杉がAクラスの授業ノートを僕に見せてくれるという話から始まって、次にお互い妨害工作はしないという協定を結び、更には学年二位の馬鹿田はじめの情報など、話題は次々に移っていった。そんな中、僕はふと、あの野比伸太のことを思い出していた。いい機会なので、出来杉に彼のことを聞いてみる。
「のびた君はね、小学生時代からの僕のライバルなんだ。あっ! ごめん。この呼び方は小学校時代の彼のあだ名なんだよ。昔の彼は、今とは違って、すいぶんとのんびりとした性格でね、彼の名前をもじって〈のびた〉って呼ばれていたんだ。でもね、彼はある日、突然、性格が変わってしまった。理由は今でもよく分からないんだけど、彼は突然、ものすごい努力家人間になってしまったんだ。自分は誰にも負けないくらいのスゴイ人間にならなきゃいけないんだって言って、勉強でも運動でも、全てのことに頑張るガムシャラ人間に変わってしまった・・・。それ以来、もう誰も彼のことを「のびた」とは呼ばなくなったけどね。たぶんそれは大人の目から見れば素晴らしいことなんだろうけど、僕は、いつだってのんびりとマイペースだったときの彼がとても好きだったから、彼が変わってしまったのは、ちょっと残念だと思ってる。とにかくそれからの野比君は、誰にも負けないくらいの努力を続けてるんだけど、彼はその目標として、僕を意識しているらしいんだ。彼が言うには、出来杉はきっとすごい人間だから、その出来杉に負けないくらいの人間になれば、いつかきっと自分もスゴイ人間になれるに違いない、ってそう言うんだ。僕なんか全然大したことないんだけどね。一方の僕はというと、彼に追い抜かれないよう、毎日必死に勉強もスポーツも頑張っているってわけなんだ。ライバルを宣言された以上、あっさりと負けるわけにはいかないからね。だから僕と彼は、小学校時代からのライバル同士ということになるんだ」
「へ~、ある時期を境に変わったいう点だけをみると、野比君とイオリ君って、なんか似てるところがあるかもね。でもイオリ君は、あんまり努力家って感じはしないけど・・・」と江国美咲。
「努力はしてるさ! 人知れずだけど・・・」と言いながら、このとき僕は忘れかけていた重要な質問を思い出した。
「それはそうと、まえに約束していた答えを教えてくれよ。江国さんから見た僕の価値って、どんなところにあるのか、教えてくれる約束だったよね」
この約束のために、僕は苦労したのだ。ついにその答えを知ることができる。彼女に見える僕の価値とは、いったいなんだろう。僕なんかに、価値と呼べるものがあるのだろうか。
しかし江国美咲の答えは、僕の期待を大きく裏切るものだった。
「え~~? そんなヘンな約束したかしら? 覚えてないな~。でもその答えなら簡単。イオリ君の価値は、やっぱり人知れず努力してる、ってとこだと思う。努力してるところを人に見せないって、すごいな~。うん。ほんとに偶然だけど、実は私も前からそう思ってたような気がする。努力こそが一番の才能よね。でもイオリ君の人間的な価値だなんて、私なんかに聞くより、恋人のリリスちゃんに聞くほうがよっぽど正しいと思うけどな~」
どうやら江国美咲はまじめに答える気がないらしい。だいたい「思ってた」「ような」「気がする」って、日本語として意味がわからない。推量の言葉を三つ並べたら、それはもはや推量ですらないだろう。それに以前、ムーンライトがリリスに似たような質問をしたとき、リリスは答えるのを拒否していた。リリスが今更そんなことを答えるはずがないだろう。
しかしどうした気まぐれか、リリスはにこやかな微笑みを浮かべて僕を見ている。僕はリリスのその表情に、なぜか妙な不安を覚えた。
「え~ なんだかよく話が見えてこないんだけど、イオリ君の価値なら、世界で一番私がよく知っているわ。人間って、自分のことは自分じゃよく分かんなかったりするのよね。でもね、私はイオリ君のこと、いつだって見てるし、イオリ君は気づいてないだろうけど、授業中だってイオリ君のことしか見てないのよ。だから、イオリ君のことなら何だって知ってる。イオリ君はワタシの全て、いいえ、イオリ君の全ては私のものだから」
はたから聞いていれば、まるで愛の告白にしか聞こえない台詞だ。しかし僕は、この後に「殺してでも手に入れる」という言葉が続くことを知っている。それによく考えれば、授業中、後ろからずっと見られていたら、誰だって怖いはずだ・・・。超ストーカーだろ! とツッコミを入れたくなる。しかしそんなことは誰も気づかないのか、出来杉や江国美咲、そして周りで聞き耳を立てている生徒たちは、興味ありげに熱い視線を僕らに向けている。
するとリリスは僕に向ってイタズラっぽい笑みを浮かべると、みんなの前で更にとんでもないことを言い始めた。
「ねぇ、イオリ君。イオリ君は、本当に自分の価値が分かってないの? 知りたい? もしあなたが望むなら、もちろん教えてあげてもいいのよ。でもその代わり、イオリ君は、私の愛が本物だってことを信じてくれる? そしてイオリ君が、私への永遠の愛を誓ってくれるなら、イオリ君の知りたいこと、な~んでもおしえてア・ゲ・ル。イオリ君の望みを、な~んでも叶えてア・ゲ・ル」
そんなこと、もちろん誓えるわけがない! 僕は、彼女の愛が本物だなんて一ミリだって信じちゃいない。しかもここは学生食堂だ。いまや大勢の人間がギャラリーと化し、横目でチラチラとこちらを見ている中、そんなハズカシイことができるはずもない。
「愛の誓いについては、こんな学生食堂の中なんかじゃなくて、もっとロマンチックな場所で、もっと愛を語るにふさわしい場面で語り合うべきだと思うな・・・」と、ロマンチックを殊更に強調しながら誤魔化しておく。まぁ、そんな場所に二人で行くことはあり得ないし、ましてそんな場面も永遠にこないだろうけどね・・・、と心の中で更に付け足しておいた。リリスはちょっと不満げな様子で、「じゃぁ、続きはこんどのデートでね。きっとだよ!」と切り返してくる。
愛の名場面が見られそうもないとわかり、周囲の生徒達は興味を失くしたようだ。みな自分達の会話に戻り、もう僕らの会話にもあまり注意を向けている気配がない。
そんな頃合を見計らっていたのか、山田の子分格ともいうべきあの成山龍一が、さりげない様子を装いながら、なんの前ぶれもなく僕らのテーブルに近づいてきた。いつもと違って、今日の成山は珍しく一人だ。成山は僕の近くまでくると、声を細めてつぶやいた。
「山田からの伝言だけど、今日の放課後の五時、青葉台駅前の公園で、話したいことがあるから来てくれってさ。公園奥のベンチ前だってよ。男同士の話だから一人で来いってさ。俺はそれを伝えにきただけだから。じゃあな」
それだけ言うと、成山はすぐに立ち去ってしまう。
食事を終えて教室へ戻ると、山田良治の姿はなかった。そればかりか、その日の五時限目と六時限目、山田良治は、ついに教室に戻ってくるとこはなかった。