第4章 闇黒の瞳 (15)
鏡を見ると、顔の腫れは心配したほどのものではなかった。もし誰かに聞かれても、これなら、ついうっかり壁にでもぶつかったと言えば誤魔化せるだろう。左腕も治ったことだし、僕は今日からジョギングで学校まで通うことにした。
青葉台高等学校は、生徒の通学を制服と定めているが、部活の遠征やクラブ活動などの利便性に配慮して、学校指定のジャージに限り通学時の着用を認めている。だが実際には、ジャージがダサイという理由から、ジャージ姿で通学する生徒などいない。だが僕のように初めからダサイ系の人間であれば、他人からどう見られるかなど、そもそも気にする必要もないだろう。着替えの制服と教科書をリュックに詰めて背負うと、僕はジャージ姿で学校に向けて走り出した。
朝のジョギングは爽快だ。新鮮な空気を吸い込むごとに、なんだか体中の細胞がリフレッシュしていくようで、体の動きも徐々にスムーズになっていく。鬼に追われたあのとき、僕はスーパーマンは無理でも、せめてスポーツマンにはなろうと決意した。だから僕はスポーツマンを目指して、まずはジョギングから始めることにしたのだ。体が温まってくるに従い、調子に乗った僕は走る速度を上げていく。これまで運動などしたことのない僕は、自分の体が予想以上に動くことに感動していた。走ることが、こんなにも楽しいこととは思わなかった。これはけっこうクセになるのかもしれない。学校までの所要時間は約三十分だった。自転車で行くのとたいして変わらない。
学校の門を走り抜けると、僕はそのまま更衣室へと向かう。そこでシャワーを浴びて制服に着替える。汗を流したことで、全身がすっきりした感じで気分爽快だ。ふとその時、更衣室の鏡に映った自分の姿が目に入った。なんだか顔つきも引き締まったようで、ちょっとだけ精悍になった気がする。そしてそこには、いつもうつむいて下ばかり見ていた以前の僕ではなく、まっすぐ前を見つめ希望と生命力に満ちあふれた若者の姿があった。
これは僕じゃない! いや、もちろん僕であることに間違いはないのだが、鏡に映る自分は、僕が知っているかつての伊藤伊織ではなかった。このとき僕は、江国美咲が言うように、自分が急速に変わりつつあることを初めて自覚した。そしてその急激な変化に、僕自身が戸惑いを感じていた。
朝の時間が早いせいだろう。教室に着いても生徒の数は少なく、まだ五、六人しか来ていない。その中の一人に、あの江国美咲がいる。僕はめずらしく、自分のほうから彼女に話しかけてみることにした。
「江国さん、おはよう。昨日はありがとう。今朝は来るのがずいぶん早いね」
「おはよう、イオリ君。私はいつもこの時間には来てるわよ。イオリ君こそ、こんな時間に来るなんてめずらしいわね。もうすぐ学力試験だけど、勉強進んでる?」
ちょっとイタズラっ子の顔つきで、江国美咲が聞いてくる。その顔は、暗に、50番以内は大丈夫かと聞いているのだろう。
「う、うん。まぁまぁかな・・・。頑張ってるよ・・・。ところでちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい? ちょっとした心理カウンセリングみたいなもんなんだけど、親しい友達に聞かれて困っていたことがあるんだ」
「へぇ~ 友達ねぇ~。まぁ、ちょっと面白そうだから、話してみて」
「ありがとう。じゃぁ聞くけど、友達が夜寝てるとき、変な夢を見たって言うんだ。その夢について聞かれたんだけどね、彼はその夢の中で、ある本を読んでいたらしいんだ。彼がその本をよく見てみると、現実にある実物の本と1文字も違わず、ちゃんと字が書いてあって、普通に読むことができたっていうんだよ。ウソみたいな話だよね。でも現実で一度も開いたことのないページに進むと、そこから先は、紙がすべて真っ白だったらしいんだ。夢の中では、これって普通なのかな? 友達から聞かれたんだけど、これってどう答えたらいいと思う? あっ、あと、インターネットの検索画面とかの場合はどうなるのかな?」
怪しさ爆発の、かなり苦しい質問の仕方だ。でもまさか自分のことだとは言えないから、こう話すよりほかに仕方がない。江国美咲はあからさまに不審そうな目つきで僕を見ている。
「ふ~ん。変な質問ね。でもこの質問なら、カウンセリング料は昼食1回分、イオリ君の奢りだけど、どうする? それでもいいなら答えてあげる」
「え?! 料金とるの?」
「うん」
「・・・ ・・・ 友達のことでも?」
「うん」
「無料カウンセリング、友達の初回利用とかじゃダメ?」
「う~ん。残念だけど、無料のおためしキャンペーンは、昨日までで終了だったの」
やっぱり化粧品の無料サンプルだったんだ・・・。
「・・・ ・・・ うん。わかった。じゃぁ、昼食1回分でよろしく頼むよ・・・」