第4章 闇黒の瞳 (13)
〈今月末の学力試験〉
言葉のトリックに気がついたのは、うかつにも、僕が家に帰ってからのことだった。「今月末」と聞いた時、僕は無意識のうちに時間的な余裕を意識していた。江国美咲が言ったように、確かに学力試験は今月末で間違っていない。しかし問題なのは、今日が既に5月23日であったことだ。そして今月末の学力試験とは、5月27日。つまり、わずか四日後なのだ。なぜ四日後の試験を、わざわざ「今月末」という必要があるのか、僕にはまったく理解できない。そこに江国美咲の悪意、いや、独特のユーモアを感じずにはいられない。
あと四日で学年順位を200番以上も上げる方法・・・ それはカンニング! なんてワケにはいかない。仮にそれが可能であったとしても、江国美咲はその不正行為を認めはしないだろう。それに実際問題としてカンニングが可能だとも思えない。試験範囲がせまく限定されている定期考査ならともかく、学力試験はテスト範囲が設定されていない。試験問題の予想ができない以上、事前のカンニング準備は不可能だ。試験中に他人の答案を盗み見る方法もあるが、成績下位のFクラスの教室で他人の答案を覗いても、行き着く先はFクラスだろう。
だから僕は、今、必死になって勉強をしている。そんな僕の後ろでは、ステラがパソコンでネット動画を見ながら笑い転げている。人の必死な努力など気にかけることもなく、お笑い動画を見ては一人でゲラゲラと笑い転げているのだ。自分だけ楽しんでいるステラを見ていると、なんだか無性に腹が立ってくる。居候なら居候らしく、少しは僕に気を遣ってくれてもいいだろう。
ステラは〈武器の墓場〉を脱出した後、行く場所が無いと言って、そのまま僕の部屋に住み着いてしまった。僕の部屋といっても現実の部屋ではなく、夢の世界に僕の意識が造り出した空間のことだ。朝、僕が夢から覚めた後、テリトリーの様子がどうなるのかを僕は知らない。そこが自分の部屋なのか、街の中なのか、大自然の中なのか、僕にはわからない。ステラはそれでも良いと言う。「星を見せてあげる」と言った僕の約束をたてに、彼は無理やり僕の心に住み着いてしまった。どうやら彼は、どこまでも僕について来ると決めているらしい。今は僕の部屋となっているテリトリーの中で、彼はネット動画に夢中だ。
そしてもう一人の仲間、ムーンライトはまだ現われていない。「僕の腕が治るまでしばらくは休養だ」と言っていたから、今日は来ないつもりなのだろうか。それならそれで、僕も勉強するのに都合が良い。なにせあと4日で学年50位以内に入らなければならない。言葉どおり、寝る間も惜しんで勉強中だ。
江国美咲に向かって学年50位に入ると宣言した時、僕には何の勝算も無かったわけじゃない。普通に考えればそれはもちろん無理に決まっている。しかし僕には、まさに反則とも言える絶対の〈切り札〉がある。それは睡眠学習だ。もちろん普通の意味での睡眠学習ではなく、言葉どおりで、睡眠中に夢の中で学習するのだ。《一炊の夢》という故事成語がある。これは《一睡の夢》とも書くが、ある男が夢の中で自分の一生を体験するという不思議な話をもとにしてできた言葉だ。焚き火をしていた若い男が知らぬ間に眠りにつく。男は夢の中で、人としての長い人生を過ごす。やがて年老いて人生に満足した男が死を迎えようとした時、男は長い長い夢から目が醒めるのだ。しかし夢の中では長いと思ったその男の一生も、目を覚ませば現実には、まだ焚き火の火すら消えておらず、時間にすれば、それはほんの数分のことでしかなかったのだ。人の一生など、しょせんは一睡の夢のように儚いことをたとえた言葉だ。ここで重要なのは、夢の中では〈時間〉という概念が一定でないことだ。夢の中の時間は、永遠であり、また瞬間でもある。これを利用すれば、僕は夢の中で無限の学習時間が使えることになる。以前、夢の中でインターネットを利用し、宿題を片付けたことがあった。江国美咲と話をしているとき、それを思い出し、瞬時にこの方法が利用できると思ったのだ。
この思いつきは、ある意味で正しかった。僕は無限ともいえる時間を使いながら、今、夢の中で必死に勉強している。しかしこの方法にも問題が無いわけじゃない。いくら時間が無限にあると言っても、人間の心は無限に勉強し続けられるほど強くはない。夏休み中、いくらでも時間があるのに、けっきょく夏休みの宿題が終わらないのと同じだ。僕はいま、感覚的には十時間以上勉強し続けているが、もはや精神的にボロボロだ。締切りを守らない作家がホテルで缶詰にされ、ただひたすらに原稿を書き続けている気分と言えばわかりやすいだろうか。
それと夢の中で勉強していて、もう一つ気づいたことがある。歴史の教科書を開けたとき、一度でも開いたことのあるページは、現実そのままの状態で本を読む事ができた。しかし現実世界で一度も開けたことのないページは、紙が真っ白で何も読めないのだ。どうやら夢の中で読むことができるのは、たとえ一瞬でも現実の世界で見たことのあるページに限られるらしい。夢の中でも、インターネットなら何でも検索できるのに対し、本ではそれが不可能というのはどういうことだろう。この違いが何なのか、結局僕にはわからなかった。なんでも観察し、なんでも分析してしまう江国美咲なら、この違いが何か説明できるのかもしれない。
そして江国美咲といえば、なぜあんなにも頭の良い人間が、成績下位のFクラスにいるのだろう。頭の良さと学校の成績がいくら直接には結びつかないとはいえ、やはりそこには何かしっくりこないものがある。
結局この夜、僕は夢の中で、数学を5時間、社会を10時間、英語を5時間、計20時間ほど勉強したあと、精神力が尽きて勉強を放棄した。現実世界の勉強時間で考えれば、これはものすごい勉強量だ。しかし残りはあと三日しかない。このペースでは、200人ゴボウ抜きは絶対に無理だろう。明日の晩は、何か他の方法も試さないとダメだ。