第4章 闇黒の瞳 (9)
最初に駆けつけてきたのは、意外にも、あの江国美咲だった。ということは、さっき叫び声を上げた女子生徒は江国だったということか。僕はまだ痛む腹を押さえながら、よろよろと立ち上がる。
あれ? 左手が動く?? 立ち上がろうとして無意識に使った左手が、何事もなかったかのように自由に動く。ついさっきまで全く動かなかったのに、いつの間に治ったんだろう。でもどうせなら、あともう少し早く治っていれば、山田にだってあんなに殴られなくて済んだのに・・・。
「伊藤くん。ここにいるとすぐ先生たちが来るけど、どうする? あそこにいる男子は、私が初めから頼んで来てもらっていた二人なの。だからもし伊藤くんがそうしたいなら、ケンカなんて無かったことにできるけど、どうする? このままここで先生たちが来るのを待つ? それともすぐにここを離れる?」
初めからって、それはつまり、最初からこのケンカを見ていたってことなんだろうか。気になったが、詳しくは後で聞くことにして、とにかく僕もここを離れたほうがよさそうだ。ほとんど僕が一方的に殴られただけだが、先に手を出したのは僕だ。ケンカということになれば、確かに僕も困ったことになる。青葉台は進学校なだけに学内の規則が厳しい。ケンカとして処分されれば、僕も山田も停学処分だ。
「じゃあ、僕はここに居なかったということで。ケンカも何も無かったよね」
そう言うと、僕はすぐにこの場を離れようと歩きだす。すると江国はすかさず僕の腕をつかみ、そのまま僕を引っ張って行こうとする。
「だったら、こっちへ来て。みんなが来る前に、教室本館1階の生徒相談室まで行きましょう。あそこなら救急箱があるし、しばらく隠れていられるわ。それにちょっと話したいこともあるし」
江国に腕を引かれるまま、僕は足早に体育館を離れた。僕は下にうつむいて、なるべく顔を隠しながら歩く。体育館に続く校舎通用口から本館1階に入ると、生徒相談室はすぐ近くにあった。普段は扉に鍵がかかっていて、生徒は自由に使えないはずだが、江国はクラス委員という役職を利用してあらかじめ鍵を借り出しておいたという。さっきの男子生徒の件といい、なんだか手回しが良すぎて不自然だ。
とにかく僕は生徒相談室に入ると、精も根も尽き果て、倒れるようにイスに座り込んでしまった。安心したせいか、さっきまで感じなかったケガの痛みが急に襲ってくる。どうやら口の中が切れて少し出血しているようだ。それに殴られた両ほほが腫れ上がってきて熱い。争ったときに泥が付いて制服も砂だらけだ。あのまま校舎を歩き回っていたら、たとえケンカの現場を目撃されなくても、たぶん教師のだれかに声を掛けられていただろう。
江国は救急箱を持ってくると、手際よく傷口を消毒していく。そして濡れタオルを僕の両ほほに添えると、しばらくタオルを抑えておくように言った。
「ところで伊藤くん。キミは何で私があそこにいたのか、とても疑問に思っているでしょう? それはね、5時限目にメモ書きが回ってきたとき、ちらっと中身を確認したからなの。朝、キミが山田君と揉めているのも見てたし、何かあるかもって、ピンときたの。それってクラス委員としては見過ごせないでしょう。だから念のため男子生徒2人を連れて、あそこで見張っていたのよ。それで適当なところでケンカを止めに入ったってわけ。あれ以上やれば本当に危険だったわよ。山田君って、はっきり言ってバカだし、抑えが効かないのよね。どうして、あんなのがこの青葉台に合格できたのかしら。公立学校だから、裏口入学はできないはずなのにね。これって本当、青葉台の七不思議のうちの一つよね」
それじゃぁまるで、山田が猿扱いだ・・・。
「でもそれって、普通、クラス委員なら先生に言うべきだったんじゃないの? こんなふうに事件をもみ消して、ばれたら君だって注意くらいじゃ済まないと思うけど、いいの?」
「大丈夫。ばれないし。それにもしばれたら、そのときは山田君に脅されたってことにするわ。あの二人の男子生徒にも、最初からそう言ってあるし。だから気にしないで。
それより、さっき話したいことがあるって言ったの覚えてる? ここから先の話は、私の個人的な興味から聞くんだけど、伊藤くんとリリスさんって、昔からの知り合いなのよね。私、リリスさんと伊藤くん、二人のこともっと詳しく知りたくなったの」