第4章 闇黒の瞳 (8)
放課後、体育館の裏へ行くと、山田はすでに待っていた。山田の後ろには、まるで子分のようにいつも山田と行動を共にする、杉下京介と成山龍一がいる。ヘナチョコの僕一人と会うのに、わざわざ仲間を引き連れてくるところが、いかにも山田らしい。そうやって数の力で相手を威嚇しているのだろう。数日前の僕なら、この3人を見ただけで彼らを恐れ、萎縮して、ろくに口も聞けなかったに違いない。でも今の僕には、数に頼って相手を脅そうとする山田の行動が、本当は一人では何もできない心の弱さと、集団の力で個を倒そうとする下衆の卑劣さであることに、なんとなく気が付いていた。
「この俺を呼び出すなんて、貴様もずいぶんでかい態度とるようになったもんだな。おまえ、まさか女がいるかっらって、自分が偉くでもなったつもりかよ? もしかして能ミソ腐ってんじゃねぇのか? それとも女の前だからって、カッコつけてるつもりか?
ところで、俺が連れてくるよう言っておいた女はどこだよ。おまえのオシオキは後でたっぷりすることにして、まずは重要なオンナの話だ。俺のオンナになる佐藤莉理栖はどこにいる。なんで連れて来なかったんだ」
俺のオンナ! 思わず吹き出してしまいそうになる台詞だが、ここで笑うのはさすがにマズい。
「彼女は来ないよ。なんか誤解してるようだけど、僕は彼女に何かを頼める立場じゃないし、ましてや頼む気なんて全くない。もし彼女に用があるなら、それは自分で言ってくれないか。僕はそこにいる二人みたいに、キミの仲間じゃないし、ましてや子分でもない。キミの言うことをきかなきゃならない理由は何もないしね。ここにはそれだけ言いに来たんだ。
あっ、それとついでに言えば、キミに黙って殴られる気は一切ないから。もし殴られれば大声あげて騒ぐし、もしそうなれば、いくらここが体育館裏でも、すぐに誰かがやってくる。そうなれば、お互い、あんまりいい事にはならないと思うけど、どうだろうね。もしこれ以上、話すことがないなら、僕はもう帰るよ」
やっと言えた。これまで山田が怖くて何も言えなかった自分が、今、やっと自分の思いをはっきりと言えたのだ。もちろんこの後、何事もなくここからのんきに帰れるだなんて思ってはいない。怒った山田が、この後どうするかは明らかだ。
「おい、杉下、成山、ちょっと向こうに行って、教師が来ないか見張っててくれ。他の生徒がきたら、足止めしろ。俺はこいつに、きつ~いオシオキをしなきゃならなくなった」
まぁ、そうなるだろう。単純バカの山田の行動は、わかりやすいほどに予想どおりだ。予想どおりなのだが、困ったことに、僕にその対抗手段がある訳ではなかった。ケンカになれば勝ち目はない。そもそもヘナチョコだし、ましてや今、僕の左腕はほとんど動かない。最初から勝負にならないことは、分かっている。でも重要なのは、僕が抵抗するということなのだ。黙って殴られるだけなら、ここに来た意味はない。たとえ5発殴られても、1発殴り返せればそれでいい。重要なのは1発でもいいから、殴り返そうとする僕の意思だ。わざわざ山田を呼び出し、自分からここに来たのは、山田に僕の意思を見せにきたのだ。
杉下と成山が体育館の両脇で見張りにつくと、山田は人を見下した態度でゆっくりと近づいてくる。
「さっき言ったよな。オシオキはパンチ8発だって。でもここまでオレをコケにしたんだ。おまえの顔をボコボコにしてやらないとオレの気がおさまらないぜ。おまえの無様な顔を見て、きっとリリスちゃんもおまえに愛想を尽かすに決まっているな。ふふっ、彼女の新しい恋人はオレだ。いいか、オレがイイと言うまで、動くんじゃないぞ」
そう言うと山田は僕の胸ぐらをつかみ、余裕の笑みを浮かべて僕を殴ろうと腕を大きく振り上げた。
いじめられる人間は、いつだって無抵抗だ。殴られると分かっていても、決して抵抗しようとはしない。殴られれば痛いと分かっていても、動くなと言われればバカみたいに動けないのだ。いじめる側の人間は、それを本能的に知っている。コイツは殴っても抵抗しないヤツだ、そう知っているからこそ殴るのだ。これまでの僕なら、動くなと言われれば、ヤツがイイと言うまで黙って殴られていただろう。でも今日は、殴られたら必ず1発殴り返すと決めている。
いや!! どうせなら、殴られる前にこっちから先に1発殴ったほうがいいのか!! これは新鮮な発見だった。負け犬根性が染みついている僕は、殴られるということを前提にものを考えるクセがある。そこで僕は、おとなしく殴られるのをやめ、最初からおもいっきり抵抗することにした。
僕はいきなり大声を上げると、驚いている山田の胸の中心に向かって、渾身の力でパンチを放つ。ケンカ慣れしてない僕のことだ、顔を殴ろうとすればきっと外すだろう。だから絶対に外さない体の真ん中に向かって殴りかかった。
「おおおおおおおおお~~~~」
僕の声は体育館の裏手だけでなく、学校校舎の本館にまで大きく響き渡っていく。そしてまさか僕が抵抗してくるとは思っていない山田は、胸のみぞおちに渾身のパンチをもろに喰らい、一瞬呼吸ができなくなって苦しんでいる。僕は左腕が動かない。山田が立ち上がってきたら、もうあとは殴られるだけだ。だから倒れている山田にそのまま覆い被さって、ヤツが立ち上がれないようにして乗りかかり、上からひたすら殴りかかった。不自然な姿勢からのパンチで、しかも左腕が動かない状態では、もちろん山田に大きなダメージは与えられない。しかし寝たままの状態で山田も僕を自由に殴り返すことができない。それでも山田は、僕を下から見上げる体勢で殴り返してくる。僕の顔は何発も殴られ、自分では見えないが、きっと顔が腫れ上がっていることだろう。それでも僕は大声を上げながら山田を殴り続けた。
予想外の出来事に驚いたのは杉下と成山だ。山田が僕を一方的にオシオキするという予定が、予想外のケンカになっている。しかも僕が大声を上げ続けていて、ここに人が集まってくるのも時間の問題だ。杉下と成山はすぐに駆け寄ってきて、僕を山田から引きはがした。山田はすぐに立ち上がると、獣のような形相で僕に殴りかかってきた。僕は山田から腰の入ったパンチを腹に受け、そのまま倒れこんでしまう。ううう、苦しい・・・ さすがにここまでが限界だ。でも1発殴り返すという当初の目的は十分に達成した。たぶん山田が受けたダメージは、僕が受けたダメージの5分の1もないだろう。でもそれで十分だ。山田は怒りにまかせて、地面に転がる僕を足で蹴り続けている。蹴られた体はもちろん痛い。でも僕は、自分の心が、今まったく痛くないことに、どこか妙なすがすがしさを感じていた。これで僕は、これ以上自分のことを嫌いにならずに済む。情けなくて恥ずかしい悔しさで自分を責め、見えないナイフで自分の心を切り刻むような、あの心の痛みを感じないですむ。僕は山田に好き勝手に蹴られながらも、そんなことを考えていた。
校舎出口のほうから、「キャー」という女子生徒の叫び声が聞こえたのは、その時だった。
「誰か~ 誰かいませんか~ 先生~ 早く来てください 誰かが殴られてます 早く 早く来てください~」
その声をきっかけに、校舎のほうから他にも二人の生徒が近づいてくる。さすがにマズイと思ったのだろう。山田は蹴るのを止め、そのまま逃げるようにして、その場を立ち去っていった。