第4章 闇黒の瞳 (6)
「そうそう。婚約って言えば、伊藤くん、どんないきさつでリリスちゃんと許嫁になったの? 伊藤くんの親がお金持ちとか? それとも二人の両親が幼なじみとか? まさか二人のおじいさんとおばあさんが、戦争で愛を引き裂かれたとか言うのはないよね。ねぇねぇ、教えなさいよ~」
江国美咲がこんどは僕に話題をふってくる。しかしまぁ、彼女はいったい何を想像しながら話をしているんだろう。きっと何かの古いドラマか少女マンガあたりに違いない。そもそも、今日の彼女はなんだか妙にハイテンションだ。僕の知っているクラス委員の江国美咲は、もっと真面目でクールな感じだった気がする。仲間たちの中心になって、ワイワイと場を盛り上げる今日の彼女に、僕は妙な違和感を感じていた。しかし、このタイミングは僕にとって絶好のチャンスだ。リリスがでっち上げた許嫁発言を否定するなら、たぶん今しかない。僕はこのタイミングで勝負にでることにした。
「あっ、やっぱり変だと思った? 実はあれ、リリスの冗談なんだよ。彼女は昔から、そういった冗談が大好きで、よく周りの子供や大人を驚かせては遊んでたんだ。僕は子供の頃から、よく彼女には泣かされててね。弟みたいな感じで仲良くしてたんだけど。でも残念ながら、彼女が言ってた許嫁っていう話は、ただの冗談だから、みんな本気にしちゃダメだよ。せっかくのリリスの冗談を、僕のネタバラシで台無しにするのは悪いけど、みんなももう十分驚いてたし、そろそろお芝居は終わりにしてもいいよね」
よし! これでリリスの許嫁発言は、完全に否定できたはずだ。我ながら上手くいったと思う。そもそもいきなり婚約者とか、どう考えたっておかしいだろう。彼女の発言を何の疑いもなく信じるほうが変なのだ。だから、冗談という、もっと信じやすい話をもちだせば、きっとみんなは僕の言葉のほうを信じるはずだ。
僕は絶対の勝利を確信しながら、リリスのほうへと視線を向ける。するとそこには、何も言わずに、目を真っ赤にしながら涙をうかべている彼女がいた。僕は彼女の悲しそうな顔を見て、なぜか胸を突き刺されるような心の痛みを覚えた。
「イオリくん、ひどいわ。いくら婚約者であることが照れくさいからって、冗談だなんてヒドイ! 親同士が決めたことだけど、私はイオリくんが大好きだし、イオリくんだって私のことを好きでいてくれるって信じてる。ここにいるみんなだって、私たちが許嫁であることを信じてくれてるわ。だから冗談だなんて言わないで!」
そう言うと、リリスは手で顔をおおいながら泣き出してしまう。
僕は彼女の言葉を聞いて、なぜだか自分がひどく悪いことをしたような罪悪感に囚われた。彼女の愛を受け入れない自分が、とても悪いことをしているような気になったのだ。彼女に謝り、僕は彼女の愛を受け入れるべきなのだろう・・・って、 え??? あれ? 何かおかしいぞ! よく考えてみれば、リリスは人間でもなく、本当の婚約者でもない。彼女は僕を愛してなどいないし、彼女の言葉はすべてウソだ。僕はそれを知っているのに、今なぜか急に彼女の言葉を信じてしまう自分がいた。まるで何かに操られるかのように、彼女の言葉に従ってしまおうとする自分がいたのだ。なぜだ!? 何かがおかしい。
しかし、変なのは自分だけではなかった。周りを見ると、嫌悪と怒りの表情で、クラスメイトのみんなが僕のことを見ている。
「伊藤くん!!! あなた本当にヒドイわ! いくら婚約者だからって、彼女の思いを冗談で誤魔化そうだなんて、ちょっと許せない! あなた女心ってものを分かってないにも程がある!」
「そうだぞ、伊藤! リリスさんが泣いてるだろ! すぐに謝れよ!! もしおまえが彼女の婚約者でなかったら、俺が、ここでおまえを殴っているところだ! すぐに謝れ!」
「おい! おまえ少し調子に乗ってんじゃないのか? 彼女のような素敵な人から愛されてるってだけでも幸せなんだ。もっと彼女のことを大切にしてやれよ!」
気がつけば、周りじゅうの人間が僕を責め、その目は一様に怒りに満ちている。なんだか様子がおかしい。その奇妙な現象はクラスメイトだけでなく、そのとき食堂にいた周りの人間全てに伝染していく。
「おい! そこの一年生! さっきから聞いていれば、おまえは本当に最低のヤツだな! なんですぐ彼女に謝んないんだ。はやく謝って、彼女を安心させてやれよ」
それは、僕とリリスには何の関係もないはずの、近くにいた上級生からの言葉だった。この発言をきっかけに、顔も名前もしらない周囲の生徒たちが、一斉に僕を責め始める。
〈謝れ!〉
〈謝れ!〉
〈謝れ!〉
〈謝れ!〉
すでに食堂にいる半分以上の生徒が立ち上がり、僕らを取り囲んで叫び始めていた。その目は異常な興奮に包まれていて、まるで罪人を裁く正義の群衆かなにかのように、彼らは僕を責めつづける。突然のこの状況に、僕は驚きよりもむしろ恐怖を感じた。この場にいる全員が、まるで何かの狂気に侵されているかのようだ。このままでは、何か危険なことだって起こりかねない。そんな不安と恐怖を感じるのだ。なぜこんなことになってしまったのか分からないが、ここはいったん身を引いて、この場を収めるしかないと感じた。
「ごめん。僕が悪かったよ。僕たちまだ高校生だし、婚約者っていう関係が広まれば、きっとみんなの勉強の妨げになると思ったんだ。でも僕の言葉は、リリス、君を傷つけてしまったね。ごめん。もう二度とキミを傷つけるようなことは言わない。だから僕を許してくれないか」
僕のこの言葉を聞いて、リリスは顔から手を離すと、まだ涙で濡れた瞳を輝かせながら、話し始めた。
「ううん、私こそゴメンなさい。イオリくんが言うように、婚約者だってみんなの前で話したのは、確かに自分勝手だった気がする。ここはみんなが勉強する場所であって、自分たちの幸せを自慢する場所じゃないものね。きっと、私の言葉を聞いて、イヤな気持ちになった人もいると思う。イオリくん、私のほうこそゴメンなさい。それと、ここにいるみんなにもゴメンなさい。私たちのこと、心配してくれてありがとう。でも、もう大丈夫です」
そう言うと、リリスは周りの生徒達に向かって軽く頭を下げ、僕に向かって笑顔を見せた。すると、先ほどまで食堂を支配していた異常な興奮状態が、まるでうそのように収まっていく。みなが何事もなかったかのように席に戻ると、食堂はまたいつもの穏やかさを取り戻していた。
「おい! これからは、もっと彼女のこと大切にしてやれよな!」
「まぁ、そういうことなら、仕方ないかもな。伊藤がああ言った理由も、分かる気がするよ」
「リリスちゃんって、すごく優しいのね。伊藤くん、キミって幸せ者だぞ~」
クラスメイトたちの険悪な雰囲気も一転し、またもとのような、たわいもない雑談に戻っていく。
僕はとりあえずこの場が収まったことに安心しながらも、この急激な変化の様子にただ呆然としていた。それにしても、今のこの状況は、いったい何だったんだろう。たぶんリリスが何かをしたのだろうが、もし対応を間違っていれば、かなり危険な状況であったことは確かだ。それに結局、僕は自分の口で、リリスとの婚約を認めてしまった。この先、もし僕がリリスとの婚約を否定しても、もう誰も信じてはくれないだろう。なぜこんなことになってしまったのか分からない。
そして今、僕は生まれて初めて集団の恐怖というものを感じていた。集団の中では、自分のちっぽけな主張など、簡単に踏みつぶされてしまう。集団は一つの同じ考え方になることで安定し、その安定を乱そうとする異物は攻撃され、排除される。集団の力の前では、僕個人の力などまるで無力だ。僕は自分の意見を放棄することで、集団の攻撃から逃げるしかなかった。もしあの時、あのまま自分が主張を変えていなかったら、どうなっていただろう。僕一人が、周りにいる全ての人間と対立し、孤立し、圧倒的多数によって言葉の暴力で打ち負かされていたはずだ。僕一人が悪者にされ、正義を主張する集団によって攻撃される。これは、とても危険で、とても怖いことだと僕は感じていた。