第4章 闇黒の瞳 (2)
「おいおい! 今日はずいぶんと生意気だな! 伊藤、俺にそんなことして、後でどうなるか分かってんだろうな!」
山田の声は、さっきまでのヘラヘラした口調から、突如として荒々しい脅しの口調へと変わる。こうなるとは思っていたが、やはり怖くて僕の足はすくんでしまう。いつもの僕なら、こんなときは「冗談、冗談」とか言いながら薄笑いを浮かべ、すぐに謝ってしまうだろう。恐怖から逃げ、都合の良い言葉でごまかしてしまう。そして僕は、そんな情けない自分をどんどん嫌いになるのだ。でもなぜか僕は、そのときムーンライトやステラの顔を思い出していた。もしここでまた逃げたら、なんだか、もう彼らと対等に笑ったり怒ったりできないような気がしたのだ。
「ぜんぜん分かんないけど、分かりたくもないや。ところで教室に入りたいんだけど、その足をどけてくれるかな」
僕なりの精一杯の勇気を出して、ささやかに山田の言葉に反抗する。言葉の内容はけっこう堂々としたものだが、実際の声はちょっと裏返っていて、あまり格好の良いものではなかったと思う。しかし山田は、僕のこのヘナチョコの反抗に、かなり腹を立てたようだ。僕の胸ぐらをつかむと、もう片方の手で僕を殴ろうとコブシをにぎる。だが、もちろんそれはただのポーズだ。教室の中で同級生を殴れば、山田は間違いなく停学だ。山田はそんなバカではない。ちょっと脅せば、僕が泣いて謝ると思っているのだろう。それに教室で堂々と僕が反抗などすれば、山田はこのクラスで、ボスとしての面子を失うことになる。ここは僕を恫喝してでも、僕を黙らせる必要があるのだろう。でも僕は、山田のコブシなど実は大したことないのだと気づきはじめていた。殴られれば、それはもちろん凄く痛いだろう。でもそれは一時のことだ。自分自身をだます心の痛みは、もっと痛い。一日中、自分自身の弱さを責め続け、自分のプライドが少しずつ切り裂かれて血を流すようなあの心の痛みに比べれば、コブシで殴られる一時の痛みなど、本当は大した痛みではないのだ。だから僕は逃げるのをやめて、ここで更に反抗を続けることにした。
「あ~~ なになに~~ 何するの~~ やめてくれるかな~~ まさか山田君、ここで僕を殴ったりしないよね~~ 心優しい友達思いの山田君が、まさかそんなことするはずないよね~~」
言葉の内容はかなり情けないが、僕の言葉はまるで大根役者の台詞のように棒読みだ。その口調が山田をバカにしていることは、誰の耳にも明白だった。いまや教室中の誰もが、固唾を呑んで僕らを見つめている。僕の言葉は、その口調こそ山田をバカにしたものだが、言葉の中身は山田への降伏とも取れるものだった。山田はこれ以上ここで争うのは賢明でないと判断したのだろう。僕の言葉をすかさず利用して、この場を収める判断をしたようだ。
「そうそう、そうやって素直になればいいんだよ、伊藤ちゃん。これからも仲良くやっていこうな~~」
そう言うと、また前の入り口へと戻って新しい犠牲者を探しにいく。しかし山田は去り際に小さな声で、
「このままで済むと思うなよ・・・」
という一言を残していくことを忘れはしなかった。
僕は心の動揺を抑えながら自分の席に着いた。左手が動かせないので、椅子を引くのさえ一苦労だったが、なるべく不自然なそぶりを見せないよう努力したつもりだ。教室のみんなは遠巻きに僕を見ている。教室で堂々と山田に逆らったのだ。このままで済むはずがない。いま僕に話しかけると、それは山田への反抗とみなされる危険がある。だから誰も僕に話しかけようとはしない。みんな面倒なことに巻き込まれるのがイヤなのだ。昨日までの僕なら、やはりみんなと同じようにしただろう。だから彼らを責めるつもりはない。
しばらくするとチャイムが鳴った。やがて担任の教師が教室へと入ってきて敬礼したあと、いつものように朝のホームルームが始まる。
「あ~ 学期の途中だが、今日からこのクラスに転校生が来ることになった。転校生は二人だ。みんな仲良くやってくれ。さぁ、二人とも教室に入って」
教師の合図と共に、二人の女の子が教室に入ってくる。その途端、男子生徒の黄色い声で教室中が騒がしくなる。無理もない。なぜならその二人は、この学校には場違いなほどの美少女だったからだ。二人は双子のようで顔つきが似ている。一人は、はなやかな妖しい笑顔で教室中を魅了し、もう一人は少しおどおどしていて控えめな印象を受ける女の子だった。僕は二人のうちの一人から目を離すことができなかった。僕はあの妖しいまでに美しい少女を見たことがある。僕は彼女を知っているのだ。
「紹介しよう。佐藤莉理栖さんと、佐藤愛理栖さんだ。見て分かるように、二人は双子だそうだ。学期の途中だが、お父さんの仕事の都合で転校の運びとなった。クラスの人数枠の関係もあって、急のことだが、このFクラスに編入されることになった。みんないろいろと教えてやってくれ」
すると、いきなり男子生徒の一人がいきなり立ち上がった。山田だ。ニヤけた様子で嬉しさが隠せない。
「佐藤さん。お二人に質問があります。いまお付き合いしている彼氏とかいますか?」
教室中が更に騒がしくなるのをいさめながら、担任の教師が渋い顔をして山田を座らせる。すると、リリスがゆっくりと教室の中央に歩いてきて、まるで天使のような声でもって話し始める。
「姉の佐藤リリスです。前の学校では、私はリリス、妹はアリスって、みんなから呼ばれていました。この学校でもそう呼んでもらえるとウレシイです。みなさん、仲良くしてください。それと彼氏についての質問ですが、私にはもう親同士が決めてくれた許婚がいます。実はこのクラスにいる伊藤君が、その婚約者だったりします。でも、妹のアリスは彼氏募集中らしいので、もし立候補する人がいれば頑張ってみてくださいね」
皆はあまりの驚きで声がでず、教室が一瞬静かになる。しかしその直後いっせいに騒ぎ出した生徒たちの声で、もはや教師の声など聞こえもしない。僕はいま何が起こっているのか全く理解できず、ただ呆然とそこに座り続けていた。