19-1
何も見えない。
何も聞こえない。
何も感じない。
シンは漆黒に染まる闇の海の中を漂っていた。
この海に身を任せているだけで、シンを苛んでいたはずの苦痛と絶望が取り除かれていく。
既に考える事さえ出来なくなってきているので、どんな苦痛を感じ、何が絶望だったのかも覚えていない。
この暗く深い海に沈んでしまえば、全てから解放されるだろう。
愛する者達という希望が潰えていく絶望も、自らの手で姉という希望をその手に掛け、絶望の中で笑っていた事も、全て遠い場所に過ぎ去り、希望も絶望も感じる事の無い無に帰していく。
全てが無になり、何も感じるはずが無い。
そんな中でシンの中にある1つの事が思い出される。
それはシンさえも忘れていた過去の記憶。彼が初めて望んだ、ある記憶だった。
それは父親と永遠に会えなくなった聞かされた葬儀の日の事だった。
遠い異国の地で父親は死にその遺体すら戻って来なかった。
だから目の前にある棺桶の中には父親の遺品しか入っていない。
その為、父親ともう会えないという実感をその時のシンは全く感じなかった。
時が経つに連れ、永遠に会えないという意味を理解しても、シンは父親の死を実感出来なかった。
ただ感じるのは女手1つで姉と自分を育ててくれたという母親への感謝だけ。
年の離れた姉は時に母親を助け、時にシンの面倒を見て、まるでもう1人の母親のような存在になっていった。
勉強もスポーツも得意で優しく暖かい存在。
姉はシンにとっては完璧で憧れの存在となっていった。
それが自慢でもあったが、同時に不甲斐ない自分と比較してしまい、シンは劣等感を抱くようになっていった。
だがある日、シンは見てしまった。
全てにおいて完璧だと信じていた姉が、父親の遺影の前で涙を流している姿を。
何が原因でどういう理由で涙を流していたのかは分からないし、見てはいけないものを見てしまったという罪悪感から、シンはこの日の事を見なかった事にしたのだ。
そしてそれは今に至るまで、記憶の底に封印され、思い出す事さえしなかった。
消えて欲しかった記憶。
思い出したくない記憶。
だが記憶したものは自分が思い出さないだけで蓄積されている。
それは脳に蓄積されるのか、魂に蓄積されるのか、それともそれ以外の何処かなのか。
そんなものは分からない。
けれどその記憶は確かにシンのものだ。
偽りの絶望の記憶でも、他者の絶望の記憶でも無い。
世界を恨む程の絶望とは言い難い、ほんの些細な輝きを失わせるだけの絶望とも言えないちっぽけな記憶。
そんな記憶の更に奥にあるものに気がついた時、シンは自分がすべき事が何かを思い出し、それに向けて手を伸ばした。
*
「きゃっ」
「こ、ここは?」
そこは真っ赤な世界だった。
ドクンドクンと脈打ち、その音に呼応するように周囲に赤いものが流れていく。
「悪夢のコアにちゃんと飛べたようですね」
その内部を知るシーナだけが冷静に周囲の状況を理解する。
「これがあの赤い球体の中ってこと?な~んか、息も出来るしちゃんと喋れるけど、水の中にプカプカ浮いているみたい」
魔動技師としての性なのかフィルがキョロキョロと見回して観察する。
「周りは赤いですけれど皆さんの事も見れるくらいの透明度はあるようで……ってきゃあ!な、なんで皆さん服を着てないんで…って私も?」
4人全員がこの場に居る事を確認したアイリが裸だという事に気付いて、恥じらいながらささやかな胸を手で隠す。
「服は一緒に転移されなかった……あっ?魔動輝石は?」
クレスはまさかと思って、自らの手を開く。そこに赤い宝石の嵌った指輪が握られている事にほっとする。
アイリが手で隠している胸元にも緑色の宝石の嵌った豪華な首飾りは掛かっているし、シーナの耳元には青い輝きを放つイヤリングがある。
「多分ですけど、あの転移魔動陣には魔動力を持つものしか通り抜け出来ないのでは無いでしょうか?」
ただの推測にしか過ぎないが、発動させたシーナだからこそ何となくではあるが、そう思う。
「それに関しての考察は後にしましょう。今はシンを探して助ける事が先です」
クレスの言葉に全員が頷く。
だが探すまでもなくシンの姿を見つける事は出来た。
いや最初に見つけたのは、シンが身に着けていたはずの白い魔動輝石だけ。
彼女達の目の前にそれは浮かんでいた。
そしてそれに気付くと、まるでこの赤い空間に同化していたかのようにシンの身体が見えるようになってくる。
意識したからこそ見えるようになったシンの姿は、その大半が半透明で胸から下は完全に消えていた。
「わわっ!早くしないとシンが消えちゃうよっ!!」
フィルが慌ててシンに近寄り、その頭を抱き寄せる。
まるで水に浮いてるかのように重さは感じない。
だが半透明であってもその顔に触れる事は出来た。
それを確かめたフィルは、1つ深呼吸してから、シンの唇に自分の唇を近付ける。
「シン…シンが悪夢なんかに負けそうだから、シルフィロードが変になっちゃってるんだよ?ボクが、ボク達が造ったシルフィロードが絶望の存在になるなんて絶対に嫌だよ。だから戻って来てよ!シルフィロードを希望の存在にする為に!!」
文句を言っているようにも聞こえるフィルの精一杯の愛を唇を通して、シンに伝える。
ドックンと世界が鳴動し、呼応するように白い魔動輝石が輝きを放ち始める。
だがシンの身体は半透明のまま、目を覚ます気配は無い。
「それならばさっきと一緒です。私の分の魔動力もシンさんに捧げます!」
アイリが首に提げていたエメラルドティアーを外し、シンの首に掛ける。
「シンさんは私の事を王女では無く、ただ1人の女性として接してくれました。そして私が挫けて絶望しそうになった時、いつも手を差し伸べてくれました。シンさんは私の憧れであり希望です。だから今度は私が手を差し伸べる番です!」
アイリは力強くシンの頭を抱きしめ、唇を重ねる。
ドクンドクンと再び世界が鳴動し、エメラルドティアーが淡い緑色の光を放つ。
シンの身体が先程よりもはっきりと見えるようになり、消えていた部分も上半身まで戻っていた。
だがまだ透けて見える。
「今度は私が!」
シーナは自身が付けていたサファイアオーシャンの片方のイヤリングを外し、シンへと取り付ける。
「シンくんはこの世界でただ1人だと思っていた私に希望をくれた。ううん、違う。元の世界に居た時からシンくんはずっと眩しかった。私には無い力を、強い心を持ってるって感じてた。あの頃からずっとシンくんは私に希望の光を与えてくれていた。私自身がどれくらい輝けるかは分からない。けどシンくんに負けないくらい、私もあなたを照らしてあげたい!!」
自身の内に流れる全ての魔動力を注ぎ込むようにゆっくりと長く口付けを交わす。
シンの耳元で青き輝きが発せられ、消えていたシンの全身が浮かび上がる。
消えている部分も半透明な部分も無い。
シンの身体は完全に元に戻っていた。
だがそれでも尚、シンは目覚めない。
悪夢に捕らわれた心はまだ戻ってきていないのだ。
だからクレスはシンの指にルビーハートの指輪を嵌めて、祈るように顔を近付けていく。
「シンが倒れているのを初めて見つけた時から、ずっとシンの事が好きだった。けど素直になれない自分が居て、ずっと見ている事しか出来なかった。けどここに居る人達のおかげで私は素直に自分の心を曝け出す事が出来た。そして……」
クレスは自らの手を自身のお腹に当てて、そこに宿った希望に微笑みを向ける。
「シンからは大きな希望を貰いました。その未来を絶望になんてさせたくありません!希望ある未来に、明るい未来にしたい!!その為にはシンが居なきゃ駄目なんです!!だから戻ってきて下さい!!!」
慈しむように唇同士を触れ合わせる。
クレスの力とまだ形すら殆ど為していない希望の芽から流れ込む力が、ルビーハートを赤く輝かせる。
それぞれ異なる4色の輝きが混ざり合い、溶け合い、眩い光の奔流となってシンを覆い、周囲の赤き空間を、その心の内にある闇色の海を照らす。
その輝きは神々しい程の黄金の輝きであった。
*
過去に記憶から消し去っていた、優秀で完璧な姉が見せた弱い姿。
あの頃のシンにとっては強い姉が希望の象徴であり、ヒーローであり、絶対に越えられない壁だった。
だがあの泣いている姿を見た時に、彼女もただの人間であり、強がって見せていただけなのだと気が付いた。
姉は希望でもヒーローでも壁でも無い。
ただの1人のか弱い女性だったのだ。
それは母親も同じなのだろう。
それはあの頃のシンにとっては最も絶望的なものだったに違いない。
だからこそ見なかった事にして、その記憶を心の奥底に封印した。
その時に同時に抱いたはずの“家族を守りたい”“もっと強くなりたい”という想いと共に。
絶望に身を任せ、過去の自身の絶望の記憶まで辿り着かなかったら、思い出せなかった想い。
絶望に満ちた世界の中で輝く、ほんの少しの希望の光。
その輝きの向こう側から誰かが自分の名を呼んでいる気がする。
「………ン………」
どこか無邪気で元気のある呼び声。
「…シ……さ…ん…………」
どこか優しくて心地良い呼び声。
「……ン……くん……………」
どこか懐かしく力強い呼び声。
「…シ………ン………」
どこか暖かく希望に満ちた呼び声。
「慎太郎。誰よりも強い優しさを持ちなさい。きっとあなたの優しさは誰かの希望になれる。あなたは私の弟だもん。絶対に大丈夫だって!」
そして、かつて姉に言われた言葉がはっきりと耳に届き、思い出される。
(そうだ……俺は母さんを守る為、姉さんを守る為…そして俺の愛する人達を守る為に強くなろうと思ったんだ。力の強さだけじゃない。心を…優しさを誰よりも強く……)
深く暗い海の中でシンの身体が輝きを放ち始める。
白――穢れを知らない純粋な無垢な心
緑――全てを包み込む、安寧と平穏を与える心
青――時に静かで時に荒々しい、優しくも強い心
赤――情熱的で温かい、輝きに満ちた熱い心
それら4つの心の輝きが交錯し渦巻き、黄金色の輝きとなってシンの心に身体に染み渡っていく。
「フィル…アイリ…シーナ…クレス………姉さん……………」
シンを覆う金色の輝きがその輝度を増し、目の前にある小さな輝きを取り込み、更に膨れ上がる。
「そうだ。俺は姉さんから優しさについて教わった。そして彼女達から優しさの意味を教わった」
人を愛する事こそ最大の優しさ。
「そして強い優しさは希望を与え、希望となる」
希望とは縋るものでは無く、自ら生み出し、自らが見出す。
「それは絶望も同じ。希望は絶望と表裏一体。絶望という闇があるからこそ希望の光は眩い輝きを放つ。光があるから闇が生まれる」
絶望も自身が望むから生み出され飲み込まれる。
希望も絶望も全ては自分の心の問題。どんな希望も絶望もその心1つなのだ。
「そういうことか。悪夢は絶望を与えるだけの存在じゃなかったんだ。絶望を乗り越える為の希望の存在だったんだ!!」
カッとシンは目を見開く。
その瞬間、シンの放つ黄金の輝きと周囲の闇が絡み合い、溶け合っていく。
「さぁ、戻ろう!俺の…俺達の愛するあの世界へ!!」
光と闇が螺旋を描き、シンの居る世界を覆った。
それはシンが希望も絶望も全て受け入れた証だった。
次回、11/29(日)0:00に更新します。




