9-2
「なぁ、シン。いい加減、あれをどうにか出来ないか?」
風呂から上がり白い魔動輝石を手の中で転がしながら紙束と睨めっこしているシンに、やや疲れた表情のユウが訴えかける。
2人の視線の先にはタンクトップにショートパンツ姿のフィルがソファに胡坐をかいて座っていた。
フィルを女性だと認識するようになってしまった為か、今までと何も変わらない姿にも関わらず、その無防備に近い恰好に少しドギマギしてしまう。タンクトップでも胸の膨らみが気にならないのが唯一の救いだろうか。
そのフィルはといえばデザート用としてクレスが作っておいてくれた色とりどりのフルーツの入ったヨーグルト和えの器を抱えて自棄食いのようにバクバクと食べている。
夕食も3人前くらい食べたのに、一体、この細い体のどこにそれだけ入るのだろうか。
そう思いながら向けていたシンの視線に気が付いたのか、フィルは視線から逃れるように顔を背け、後ろを向いてしまう。
ユウの口から溜息が零れる。
「間に入る僕の身にもなってくれ。元々の原因はシンなんだから早いうちになんとかしてくれよ」
どうもこの疲れた表情は仕事疲れだけではなく、シンとフィルの険悪なムードで神経を擦り切らせたせいもあるように見える。
ユウはそれだけ言ってシンの肩を叩いた後、重い足取りで風呂へと向かう。切欠として2人きりにするつもりのようだ。
居間に残された2人の間に沈黙が流れる。
(さて、どうしたものか……)
正直に言えばシンが原因といっても、自分が悪いわけでもなく、そもそも取り付く島も無いので彼としてはほとぼりが冷めるまで自分から行動に移すつもりは無かった。なので、いきなりなんとかしろと言われても何も考えていなかっただけに困ってしまう。
だが同時に、ここ最近フル稼働させていた並列思考ですぐさま様々な方法を模索していく。
しかし元々が喧嘩をしたり怒って聞く耳を持たない相手への対処という経験がシンには少ない為に、やれる事は1つだけ、それも単純なものだった。
「おい、フィル!」
呼び掛けるが背を向けたままで返事は無い。
「無視しないでこっち向けよ!」
近付きながら更に声を掛ける。
「こっち来んなぁ~!!」
もう少しで手が届きそうな距離まで近付いた所でようやくフィルは反応する。だが未だ背中は向けたまま。
「だったらこっち向けよ」
「ヤダ」
「ならせめて話を…」
「ヤダ」
フィルの頑なな態度にシンは半ばキレかけていた。
女性相手だから穏便に話で解決しようと思ったが、ここまで聞く耳を持たないとなると話は別だった。
そもそもこうしている間もヨーグルト和えをパクパクと食べているのが気に入らなかった。
「いい加減にしろよ!!」
遂にシンの堪忍袋の緒が切れる。
年下だとか女性だとかはもう関係ない。
シンはシルフィロードの如き速さでフィルの眼前に回り込み、ヨーグルト和えの器を強引に奪おうとする。
それをいち早く察知したフィルは慌てて器を頭の上に掲げて、シンの手から逃れる。が、その行動は予期していた為、瞬時に手の向かう方向を変え、器を掴む。
だがフィルは思っていた以上に強い力で器を掴んでいる為に簡単に奪い取る事が出来ない。
「こら、いい加減に離せって!」
「ヤダッ!シンが手を離せ!!」
こんな状態でもフィルは目の前に居るシンの顔を見た瞬間に慌てて顔を背ける。
その瞬間をシンは見逃さない。
一瞬とはいえ気が逸れたタイミングでシンは器を掴んで手に力を込める。
「や、やめ…うわっ……」
ヨーグルト和えの器は遂にフィルの手から離れた。と同時に身体が泳ぎ、拮抗していたバランスが崩れる。
「やばっ」
頭ではそう思っていても身体はついていかない。2人は縺れる様にソファから落下する。
「うがっ。いってぇ~」
シンの右手は器をしっかりと保持していた為、手から器が滑る事も、ヨーグルト和えが零れる事も無かった。だがその代わりにまともな受け身を取る事は出来ず、後頭部を強かに床に打ちつけてしまう。
そして追打ちのように腹と胸に軟らかいが強い衝撃が襲う。
「うがっ……んむっ」
更に続いて柔らかなものが顔、いや唇に押し付けられるような感触。
その感触にシンは一度だけ覚えがある。
身体のあちこちの痛みに顔をしかめながらも、その感触の正体を確かめる為に目を開けるとそこには驚きに目を見開いたフィルの頭があった。
突然のハプニングにフィルは硬直したかのように動けない。
そして上に乗られる形となっているシンも動くに動けない。いや小柄なフィルの体重程度では重しにもなっていないだろう。だがシンの身体を熱いものが駆け巡り、身体は石化したかのように動かなかった。
暫くの間、抱き付いたような状態のまま2人の唇は重なり続ける。
「えっ、う、あっ、うわっ……」
ようやく意識が追いついて来たのか、フィルは顔を真っ赤に染めて慌てて唇を離すと、その赤い顔を見せないようにシンの胸に顔を埋めてしまう。
「え~っと、フィル…?」
シンの方もようやく石化から解放され、渇いた喉から無理矢理声を出す。
フィルはシンの胸に顔を埋めたまま、独り言のような小さな声で呟く。
「……うぅぅ…もう、訳が分からないよ…………なんで…こんな……」
その声は僅かに震えていた。
シンは何と声を掛ければいいか分からず、黙ってフィルの言葉を待つ。
「なんで…なんでこんなになっちゃうんだろ……」
フィルがゆっくりと顔だけを上げて潤んだ瞳でシンを見つめる。それは初めて見せる少女の顔だった。
「よく分かんないけど、シンの顔を見ちゃうと胸が痛くなって急に顔が熱くなっちゃうんだ!」
その言葉通り、今のフィルは耳まで真っ赤に染まっている。それはさっきの事故によるキスのせいだけでは無いようだ。
「なんでこんな風になっちゃうんだろ!ボク、変な病気に掛かっちゃったの?」
自分にもよく分からない想いが胸の中に渦巻く初めての経験にフィルはずっと戸惑っていた。
「ボク、どうなっちゃうの?!シンならなんとかしてくれるの!?」
それは医者では治せない病。
それは自分でしか治せない病。
クレスとアイリがシンに向ける感情と同じもの。
けれどフィルにとっては人生の中で一度も経験した事の無い感情である為、それが何なのかは理解出来ない。
「ねぇ、教えてよ!ボクはどうすればいいの?!ボクはどうしたら元のボクに戻れるの?!」
理解出来ない感情に翻弄され、フィルは熱っぽい瞳を向ける。
「そ、それは……」
懇願する少女にシンは答える事が出来ない。
彼自身、そのような感情を持った事が無いので確実とは言えないが、知識としては知っている。
いくら鈍感なシンでもこれだけの直球ならば流石に分かるというものだ。
この感情は“恋心”であろう。
恋はするものでは無く落ちるものだと何かで見たか聞いた覚えがある。
ふとした切欠で恋心を抱くようになるという。
それを伝えるべきかどうか悩んでいる内に吐息が掛かる程の距離にフィルの顔が迫る。
「ねぇ、シン……教えて…よ……」
先程の柔らかい感触がまだ頭に残っている。
その上、最近はクレスとのキスを思い返したり、アイリとのキスを妄想していたりしただけに、目の前にある唇ばかりに気を取られて、考えが纏まってくれない。
馬乗りのように身体の上に乗られ、ささやかな膨らみを胸に押しつけられ、潤んだ瞳で艶めかしい唇が間近にある。フィルから香るお菓子のような甘い香りが更にシンの思考を鈍らせる。
体中を熱い奔流が流れ、熱を帯びていく。
「シン……ボクは…ボクは………」
フィルの顔がゆっくりと近付いていき、そしてコテンとその肩口にしなだれる。
「えっ?フィル??」
シンの耳元にフィルの規則正しい寝息だけがこだまする。
「寝ちまったのか?こんな急に??」
ちょっと色々あり過ぎて脳にアドレナリンが出過ぎている為か、シンに眠気は全くない。それどころか力が溢れている。
「えっ?これって?」
その感覚、その力にシンは覚えがある。
動揺と混乱で脳内はそのほとんどがパニックに陥っているにも関わらず、並列思考の賜物なのか、ほんの少しだけだが冷静に判断が出来る。
無くさないようにと首飾り状に台枠を作ってそこに嵌めておいたダイヤモンドの如き魔動輝石が白い光を放ち、それが身体の内側に力となって入り込んでいるのが分かる。
血と共に身体の中を光の力が駆け廻り、全身に満ちていく。
以前のように力の使い方までは流れ込んでこなかったが、それが魔動力である事は疑いようも無く感覚的に理解する。
「おいおい。マジでこれがトリガーなのかよ……」
王国祭の時と、今回とで共通する点はたったの2つ。
種類は違えど、魔動輝石を持っている事。そして唇同士を重ねた事。
期せずして魔動輝石から魔動力を取り出し、自分の力に出来る事が判明してしまった。
キスとの因果関係や、その原理は今はよく分からないが、例の紙束を読み解けばきっと分かるだろう。
全文は読み解けなかったが、確か“吸引”とか“吸収”とかそんな言葉が書かれてあった気がするので、その辺りに書かれてある可能性は高い。
だがこの方法は手放しで喜べるものでは無かった。
前回も今回も唇同士が触れたのは、相手の了承を得て行ったものではない。
クレスの時は恐怖から意識を取り戻すための救命措置のようなもの。
今回のフィルの場合は単なる事故である。
妄想していたようにシンへの好意を振り撒いているアイリなら、同意の上でさせてくれそうだが、王女という立場上、おいそれとするわけにはいかないだろう。
そして一番の問題はシン自身が、好きではない相手に気軽にキスを出来るような人間では無いという事だ。
この“好きではない”は別に嫌っているという意味では無い。
好きか嫌いかで言えば、好きだと断言は出来る。
アイリは、年下の兄弟が居なかったシンにとって妹みたいな存在で好きだし、フィルなどはつい先日まで男だと思っていた事もあり、友人として好きと言っていいだろう。クレスに対しては確かに憧れている部分があり、もしかするとそれは恋心なのかもしれない。
だが異性として好き、あるいは愛しているかと問われた場合、すぐには頷けない。
自分の気持ちがあやふやなのに相手の気持ちを利用してキスするような真似は出来なかった。
シンとしては譲れない所なのだろうが、周囲から見れば単にヘタレにしか見えないので、難儀な事である。
「まぁ、他の手段があるかもしれないし、これは最終手段かな」
魔動輝石とキスの2つがトリガーとなっているならば、もしかしたらユウのような同性でも可能かもしれない。しかし、シンにそっちの趣味は無いし、想像するだけで吐気がするので、実践する気は毛頭も無かった。
「それはともかくとして、とりあえずはこの状況をなんとかしないといけないな」
未だフィルはシンを抱き枕のようにしてシンの身体の上で寝ている。
ずっとこのままという訳にはいかない。というかユウにこの現場を見られたら、この先ずっとこの事でからかわれ続けるのは明白だ。
一先ずはユウが風呂から上がる前に現状を何とかしようと試みる。
フィルを起こさないようゆっくりと身体を起こそうとした所で、未だ右手にヨーグルト和えの器を持っている事に今更ながら気付く。
(持ってる事すら忘れかけてたのによく落とさなかったと自分でも感心するな~)
並列思考で冷静さを取り戻していたと思っていたが、どうやらまだまだ完全ではないようだ。
だがおかげでようやく全ての思考に冷静さが戻って来る。
ゆっくりと器を床に置き、小柄なフィルをお姫様だっこの要領で抱き上げて立ち上がる。
感情を吐き出したおかげか、フィルの寝顔は幸せそうである。
(くっそ~。こんな奴に俺はドキっとさせられたのか……)
性格は少年のようだが、見た目は整っている為、こうしていれば快活そうな美少女にも見えなくも無い。
先程の熱に浮かされたような弱々しくも艶めかしい表情がつい思い浮かんでしまい、ブンブンと頭を振って振り払う。
「うわぁ~、なんかさっきまで以上に顔を合わせづらくなっちまったかも……」
シンは深く溜息を吐きながら、理性を保ちつつフィルをベットまで運ぶのであった。
最初はもっと軽い感じだったはずなのに何故こうなった?!
なんかフィルとアイリは勝手に動いてくれてありがたい反面、分量が倍近くに嵩んでしまいます。おかげで最初から出てるクレスの影が薄いこと薄いことww
さて次回は5/6(水)0:00に更新予定




