出発
私が車の助手席に座ると、ドアが閉められ、運転席に彼が乗り込んできた。
彼は雨で湿った外套を脱ぐと、畳んで後部座席に置いた。
「あの、質問してもいいですか?」
シートベルトをし終わり彼に尋ねると、
「はい、何でしょうか?」
彼もまたシートベルトをしながら答えた。
「…あなたの、お名前は?」
その質問に、彼は戸惑ったように微笑んだ。
「すみません、“こちら”では皆さんに名前があるのでしたね……」
「え?」
「私に名前はありません。…階級なら、中尉ですが……」
私は驚いて目をぱちくりさせた。
名前がないこともそうだが、しかも…
「ぐ、軍人さんなんですか?」
焦りのために声がひきつる。
「はい、そうです」
彼は事もなげにそう答えると、鍵を回してエンジンをつけた。
車の中が明るくなり、その姿が浮かび上がる。
濃い緑に、銀のラインの入った軍服。
階級章は、銀と青の縞の上に、縦向きで金色の菱形がふたつ。
首を覆う襟や袖口には、銀と青の装飾が…
私は観念した。
同時に少しほっとした。
さっき、もしも抵抗していたら、荒っぽく…例えば気絶させられてこの車に放り込まれていたかもしれなかった……と思ったからである。
だが。
ヤバい所に連れて行かれる可能性だけは、どんどん膨らんでゆく。
そしてもう、逃げ出すことは不可能であることも自覚した。
軍人ならば武器のひとつふたつ持ってるのが当たり前…よね。
変な汗が止まらない私と対照的に、涼やかな横顔の彼は車を発進させた。
私はぎこちなく顔を正面に戻すと、またしても度肝を抜かれた。
私たち以外に、車が一台もいない!
ましてや、人影が全く見当たらない!
「そろそろ、越えます」
その唐突な彼の言葉に、鵯をですか?と問う元気もなく。
不安に押しつぶされそうになり、私は両腕で自分の肩をきつく抱いた。
「大丈夫です。数秒で終わりますから」
気づかうように彼がそう言ったのと同時に、
車のまわりが突然白い光に包まれた。
眩しくて、私は思わず目をつぶった。




