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散っていって

作者: 近衛夕希

ある春の終わり、少年は三階教室窓際から身を乗り出して、沈んでいく太陽を眺めていた。

太陽はレモンじみた色を中心に、楕円状に空を彩る。その中心が地の下に潜ろうとするときに、地平線は一際強い銅色の光線を伸ばした。

 少年は視線を教室に戻し、机に置いている鞄を背負う。

 光の中心が地に落ちて、間もなくどっと教室は暗くなった。少年は窓を閉め、教室の引き戸に鍵をかけるとそれを職員室に返し、校舎を出た。

日が暮れるときのこの切ない光景は彼にとって特別で、特別な存在を脳裏に映す。それは一日にとって最も重要な一瞬であり、最もはかない思い出であり、最も哀しいひと時だった。


                  ・・・・・・


彼、高義たかよしは久木高校の門を通り、夕刻時のせわしなく往来する人のなかに加わる。通行人は中年のサラリーマンから杖を突いた老人に、買い物袋を下げた主婦といった感じにさまざまである。そんな人の波に流されまいと歩道の横にあった狭い路地へと進んだ。彼が進むそこは付近の歩道から隔離したように物静かで、歩道の喧騒すら消されていた。そしてそれに不思議なのが、歩道から誰一人としてここへ流れ込む人が見られないこと。それはここを誰一人として、ましてハエの一匹すらこの道を認識していないように、である。

路地の側面はコンクリートが朽ちて剥がれ落ちている。道はそれと雑草でところどころが汚いものの、決して通る上で不快感を催すほどではなかった。

彼は周りを一瞥してから、なんということのないただの道であるといわんばかりにその一本道を歩いた。

ここを歩いている間に彼が感じたのは先程から風という風、音という音がないここの様子に対する静かな疑問。それは「静かだ」とか「淋しい道」といった具合のもので、決して異様とまで捉えてはいなかった。

誰ともかち合うことなく十分歩み続けると、狭い路地は開けた土地へと続いていた。その土地は目算にして一万平方メートルくらいにして、手入れのされていない枯れた芝が広がっている。ほかには桜の木が一本だけ。

そしてそのすぐ横には薄茶色を基調とした赤い線と緑の線が入るスカートに、ブラウスと紺のセーター姿の少女が佇んでいた。

高義がその少女を見てまず思ったのは、彼女の制服が同じ高校のものから同級生ではないかという疑問、もう一つはそんな子がなぜ一人でこんな淋しい場所にいるのか。

気になったので、彼はその子に声をかけてみた。

「こんにちは。えっと……、こんばんは、かな」

 彼女は舞い散る桜の花びらから、くるりと体を反転させて視線を高義に向けた。黒い艶やかな髪がふわりと翻る。高義を映す瞳は揺らいでいて、見知らぬ者に対する不安が表れていた。

 高義はそれを解し、すぐに言葉をつづける。

「あ、あの、驚かせちゃってごめん。さっきまで一人としてすれ違わなかった通路から出たら君がいて、気になったから……」 

 彼女は俯きがちに高義の言葉に耳を傾けていた。

 その時に彼が見た彼女の顔は芍薬の花のように白く美しい肌に、小ぶりではあるけれどプリッと肉感のある朱の唇、から鬱々しい、イライラ、哀しいなんてどんな感情を孕んでいるなんておこがましい。特定の純粋な感情、例えば怒りが炎を表すなら、悲しみは雨、鬱陶しいは曇りとか、部分的な単純にして明快なものを考える。

 でも人間はただ一つだけの感情を心に秘め続けるのは無理で、どんなときであろうとある一つ、例えばカレーのスパイスがコリアンダーだけ、というただ一つだけでないように感情も怒りがあるのなら憎しみも随伴してくる。

 人間は普通、どんなに純粋であるとしても何らかの想念がそれに伴って濁った色合いを出す。

 対して高義からした彼女の印象は濁りを感じさせなかった。

 艶やかな彼女が高義に臨む今の心はただ白かった。それは単純な興味……。彼の勝手な推測でそれを当然と思うことを疑問に思わなかった。

女の子は彼に口を開いた。

「……あなたは誰ですか? どうして『ここ』にいるのですか?」

 蜂蜜のように甘くとろけ、なお小鳥のさえずりのように心地よい声に、高義は胸を高鳴らせる。緊張から彼は普通に話せないようで、上擦った声を出す。

「お、俺は久木高生の枝野高義、です。普段、通らない、道を通ったら、迷ってここに」

「……。珍しいです。ここに人が入り込んでくるなんて……」

 少女は高義の自己紹介に答えず、桜の木の根元にぺたんと座り込んだ。そして彼女は上目遣いに彼を見やる。その瞳は彼を写し、高義はその瞳に全身の筋肉から強かさを失う。そして彼女の横に座り込んだ。

「もう少し、ここでのんびりして、いいかな?」

「……君にとってつまらなくないのであれば、好きに」

 高義は少女の隣に座り込む。そして両者とも口を開くことはなく、時間だけが過ぎていった。空が真っ暗になり、まだ冷えた春の風を感じる彼は立ち上がり、ぺたんと座り込んだまま石ころのように動じない少女を見つめた。

「明日もここにいるよね。また来てもいいかな」

 月を見上げる少女の顔は月光に照らされ、妙にはっきりと高義の瞳に映じた。少女は高義に視線をよこさず、月を見たまま「はい」とうなずいた。

 翌日も高義は学校が終わると、狭い路地を通った先にいる不思議な少女に会いに行った。

 やはり彼女は昨日と同じように桜の木を仰いでいた。彼は桜の木へ歩んで、彼女に、

「こんにちわ」

 と静かに告げると彼女は首をもたげて

「……こんにちは」と返した。

 今日、彼が彼女と交わした言葉はこれだけで、ただ本当に一緒にいるだけの状態だった。

 それ以降も会ったら二言三言といった感じで会話が弾まない。今日は暑いね、とか雨が降りそうだっていう程度の。

 

ある日彼女は桜の木の下に座り込んだ高義を四つん這いに覗き込んで訪ねてきた。

「君はいつもここに来るけど、私といて、つまらなくないの?」

 きらりと水晶のように光る瞳を目にして高義はドキドキした。

「つ、つまらなくなんてない。一緒にいるだけで、嬉しいというか……」

 咄嗟に出た高義の言葉に少女は顔をほんのりと赤くしている。彼もうっかり口にした言葉から恥ずかしさで顔を赤くした。二人とも動揺を隠せないようだ。初々しい。

彼は気まずい雰囲気を振り払うように会話を変えた。

「あ、あの、そういえば、まだ君の名前を聞いてないけれど、教えて、欲しい……」

 草木に花が風薫るなか、彼らはどちらからともなく言葉を発することがない。草をする風の音、小鳥のさえずり、そういったものが彼らを包む。

 彼は未だ名すら知らない女の子からのきらりと光る瞳を直視する。

彼は理解した。この子がまだ名前を教える気がないことを。

 

 桜が散りゆき葉桜の頃、高義がいつもの広場に行くといつもの少女がそこにいてそれが当然と言わんばかりに彼は思っていた。

 だけど今日の少女はいつもの少女ではなかった。百合のように白い肌に黒く艶やかな髪と外見は同じでも内面は違った。普段は茎の倒れたタンポポのように消極的であるけれど、今はまっすぐ天を仰ぎ白い綿の傘を飛ばすそれのように積極的だった。

「あの高義くん、よければ一緒にお散歩しませんか?」

「うん、いいけど」

 彼女は木の根が張ったようにここから離れないというのが、彼の印象で、散歩をしないかという言葉が新鮮だった。

 彼はいつもより明るい彼女の手に引かれて桜とベンチしかない広場を後にする。綺麗な黒髪を揺らし少女は路地をかける。高義は引かれる手の感触に愛おしさを覚えた。

 彼らは路地を抜けて近くのショッピングモールへ向かった。ショッピングモールというのは彼女の意向だ。彼女はそこで洋服を試着して彼に見せたり、一緒にレストランで食事したりとする。本屋へ寄って好みの本の話をして、CD店で彼女がヘッドホンをかけて曲を聞いて、彼はおすすめの曲を教えて。喫茶店でたわいない話をして。

 普段と比較にならないほど、たくさんたくさん話をした。高義にとってこの時ほど濃密な時間を過ごしたことはない。淡い桜の花びらが盛大に彼に降りかかるような、幻の感覚。

 まどろみさえ感じさせるほどに、彼の心は酔っている。心地よいその酔いに身を委ねていた。

そして時間はあっという間に過ぎた。

 高義にとって今日の彼女から違和感を覚えた。酔いが覚めていけばいくほどに、彼の心の中から湧いてくる気味悪さ。

 この急ぐ感じーー。

 なぜかとても怖くなった。彼女が今にも消えていなくなる。到底信じられない事。でもそれが当然なことと彼は思い疑うことができなかった。

 彼女はショッピングモールの屋上から沈んでいく夕日を眺めていた。

「ねえ、高義くん。今日はとても楽しかったよ」

 そういう彼女は哀しげな表情を浮かべている。燃える夕日を背に顔が陰って見えなくても彼には分った。

「そうか、それはよかった」

「うん。ありがとうね」

 彼女は唇を人差し指で当て、秘密というような身振りをする。

「私は名前を教えない。次に会うとき、教えるから」

 そういって彼女は彼の前から静かに消え去った。高義は消えて影も形もない前に手を伸ばしてそっと拳を作った。


そしてそれを目がしらに当てて。


今回初めて投稿させていただきました。

文はつたないわ、内容もできていないわ、といたらない部分が多いですがよろしくお願いします。

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