後編
それからの恭史郎の生活は一変した。初めて持った拳銃、ナイフや日本刀、ましてや機関銃やダイナマイトなど、もちろん他人には見られてはいけないし、殺人の練習なんかできるはずもない。
それでも新人ということもあって、初歩的な殺人の依頼が恭史郎に回されていた。――もちろん殺人に初歩もベテランもないのだが……。
しかし、一人殺し、二人殺し――それが十人目になったとき、恭史郎は恐怖どころか快感さえおぼえて来たのだ。
恭史郎は勉強した。あらゆる本や哲学書、心理学や推理小説の類いも読みあさって、殺人の何たるかを学んだ。――それもすべて、晴美のためなのである。
――幾日が過ぎて、QGの事務所で久しぶりに晴美に会うことが出来た恭史郎に、思わぬ言葉が耳に飛び込んで来た。
「頑張ってるようだね、恭史郎君! ノルマ達成までもう少しじゃないか!」
会長の感激した言葉だった。百人斬りまであと十人。百人どころか一人も殺せない会員たちばかりなのだ。
「恭ちゃん! もう少しよ、頑張って!」
恭史郎は笑っていた。もう何も怖いことはない。晴美との幸せな日々が始まる寸前なのだ。
「ところで、ノルマ達成の暁には、派手な祝賀会をやろうと思ってるんだ。もちろん君もQGは卒業だ。普通の人間に戻れるし、これ以上、人を殺さなくてもいいんだよ。そしてめでたく晴美君と結婚する。そのための祝賀会だ」
「そんな……慣れて来れば簡単なものですよ。祝賀会なんて……。僕は晴美ちゃんとデートさえ出来ればそれでいいんです」
ここまで成績が上がってくると、恭史郎としても自分の成績にのぼせ上がって来るころだ。今まで百人斬りを達成したメンバーはいないし、まさかここまで殺せるとは恭史郎自身も思っていなかったのである。
「ところで、君のノルマも来週中には達成できると思うんだ」
「はあ……」
「そこで、念願の初デートの予定は、晴美君に決めてもらおうと思っている」
会長はそう言って晴美に視線を送ると、晴美はスケジュール表と思われる怪しげなノートに笑顔でペンを走らせていた。フンフンと鼻歌などを歌いながら文末にハートマークを書いた晴美は、恭史郎が横に立っているのに気がついて、
「恭ちゃん! 見てみて、初デートの場所を決めたの!」
と言ってはしゃいでいる。――そのあどけなさは、数十人の命を奪った恐ろしい殺し屋の顔ではなかった。一体どんな顔をして殺しているのか想像もできないほど、可愛らしい女の子である。人は見かけによらず、と言うが……。
恭史郎がノートを覗いてみると、
「……遊園地?」
「そうなの。QGにはお世話になってるから、会の慰安旅行も兼ねてみんなで行こうと思ってるの。どう、名案でしょう!」
てっきり二人だけのデートが楽しめると思っていた恭史郎は、その提案に少しだけガッカリした。しかし、それ以上に恭史郎を悩ませる大事なことがあるのだ。
「晴美君の提案はすばらしい! 私も会員のために何かしようと考えていたところなんだよ」
会長は素直に喜んでいる。
「私ね、恭史郎さんとジェットコースターに乗りたいの。スピードも高さも日本一っていうのが出来たんだって、あの遊園地に」
ほら来た! 恭史郎が恐れていた事はこれなのだ!。
「恭ちゃん! 一緒に乗ってくれるわよね」
「も、もちろん……ふふっ……」
恭史郎の顔が歪んでいる。――殺人にはなれてきた恭史郎だが、直らないのが高所恐怖症、そして落下するときのゾクッとする感覚。あの、お尻の穴から内臓が飛び出しそうな感覚がどうしても耐えられないのである。
今まで苦い経験ばかりだ。小学校の遠足で行った遊園地のジェットコースターに乗ったとき、終着点から降りられないのは恭史郎だけだった。それもそのはず、恐怖のあまり漏らしてしまったのはおしっこだけではなかったのだ。それ以来、決してジェットコースターに乗るようなことはなかったのである。
「今やQGのメンバーも若い人たちが多くなっているからね、みんなも喜ぶだろう。ジェットコースターも貸し切りで、みんなで乗る、ってのはどうだ」
会長はまるで童心に帰ったようだ。
「賛成! 私と恭史郎さんは一番前に乗ってもいいかなあ」
「もちろんだとも。君たちが主役だ」
「それとも……やっぱり最後部がいいかなあ。体が浮き上がるようになるでしょ、あれが快感なのよ。楽しみだわあ!」
恭史郎はその会話に参加できない。男としてのメンツ、そして成績優秀な殺し屋として、怖いからやめてくれ、などとは晴美の手前、死んでも言えないのだ。
「とにかく、五月五日の子供の日に予定してある。それまでにはノルマも達成しているだろう」
「ちょっと待ってください。あと一週間しかないでしょ」
恭史郎は慌てた。
「大丈夫だ。三日後に、十人まとめての殺人依頼が来ているんだよ。ある小さな会社の慰安旅行があるから、そこを殺ってくれ。なに、そいつらが死んだって、社会の秩序が乱れるわけじゃない。安心して行動してくれ。それでちょうど百人目だ!」
会長は高笑いしていた。恭史郎は殺人成功率百パーセントなのだ。
恭史郎が震えているのには誰も気づかず、会員たちは遊園地のアトラクションの話で盛り上がっていた。
何と皮肉なものだろう。今回の殺人はわざと失敗したふりをして、遊園地行きを引き延ばそうとしていたのだが、たまたま十人の会社員が乗ったマイクロバスが、運転手のミスで崖から転落してしまったのだ。もちろん全員即死。
新聞の社会面では、運転手が突然心臓マヒを起こしたための事故死として取り扱われいたが、QGのメンバーは、誰しもが恭史郎の見事な集団殺人の栄誉ある報道としてみていたのである。
もちろん恭史郎は、QGの事務所には報告しなかった。その日が過ぎるまで、しばらく自分のマンションに閉じこもろうとしていたのである。
が……。
「おはよう! まだ寝てるの? みんな待ってるわよ、早く行こうよ!」
遠くから聞こえる鶏の鳴き声と共に、晴美の元気な声が、ドアの新聞の差し込み口から響いていた。
ここは返事をしない方がいい。居留守を決め込むんだ。その内あきらめて帰るだろう。
――と思いきや、
「ちょっと、早く起きて!」
いつの間にか晴美が恭史郎の体を揺さぶっていた。
だてや酔狂で殺し屋をやっているわけじゃない。鍵のかかった部屋に入ることなんか朝飯前なのだ。
「今日から一般人なのよ。もう殺さなくていいんだから。安心して起きなさい」
「ご、ごめん。夕べ徹マンで……」
と言い訳しても、万事休す。恭史郎はしぶしぶ起き上がった。もう、行くしかないのである、恐怖のジェットコースターがある遊園地に……。
「――じじい! 本当に動かないんだろうな」
「大丈夫です。場内放送で機械が故障したと言わせますから」
「本当だろうな」
「信用してください。ですから、私の命だけは……」
「もし、妙な動きがあったら、いつでもお前の命は狙えるんだからな」
殺し屋が拳銃をしまい込むのを見て、管理人はその場に座り込んだ。
――ここまで来てしまった以上、晴美の手前怖いとはいえなかった恭史郎は、こうするより他になかったのだ。殺し屋の性として……。
〈電気系統の故障により、すべてのジェットコースターの運行は中止いたします〉
行列の中に戻ろうとした恭史郎は、場内のアナウンスを聞いてニヤリと笑った。
「ちょっと恭ちゃん、何してたのよ。ジェットコースター、動かないんだって」
かれこれ一時間以上も並んでいた晴美が、不服そうな顔で愚痴った。
「何だ、残念だなあ。楽しみにしてたのに」
と言った恭史郎の顔は笑っている。
「誰かのいたずらじゃないのかしら。ジェットコースターに乗るのが怖い、小心者の男とかさ」
恭史郎はギクリとしたが、まだ誰も知らないはずだ。
「う、うん」
「情けないわよね、男のくせに。そんな男って大嫌い!」
声を失った恭史郎だが、相変わらずジェットコースターが動き出す気配はなく安心していた。
と、向こうから会長が走ってくるのが見えた。何やらニコニコ笑っている。
「晴美ちゃん、残念だったなあ」
と、会長が言えば、
「仕方ないですよ。メリーゴーランドにでも乗りましょうか」
と、恭史郎は嬉しそうに言った。
遊園地の案内マップを見ていた晴美が、納得したように頷いて、
「いいものがあるわ、私が案内してあげる」
そう言ってQGグループを導いていった所に、高くそびえ立つアトラクションが存在していた。
恭史郎の顔がしだいに蒼くなってきた。こんなはずじゃなかった。そこはジェットコースターではないため、運行を中止することなく元気に稼動していた。
「さあ、行きましょう! スリルがあって楽しいわよ、きっと!」
恭史郎は忘れていた。ジェットコースターばかりに気をとられ、もっと恐ろしいフリーフォールがここにある事を見逃していたのである。
「ちょ、ちょっと……」
言葉もはっきり出ないまま、恭史郎の体はずるずると引きずられるようにフリーフォールの乗せられていた。
「こ、これもジェットコースターの仲間なんじゃないのか!」
「あら、そうよ。スリルがあるって事に関してはね。――さあ、私たちの番よ!」
晴美と会長に促され、恭史郎はフリーフォールのシートのあっという間に縛り付けられた。
発車のベルの音がして、ゆっくりと上昇し始めた。――これも一緒に止めればよかったじゃないか! 気の利かねえじじぃめ!
恭史郎はそんなことしか考えられず、気がつけばはるか遠くの島が見えそうな最高地点で静止した。
今にもケツの穴から内臓が……!
「じじぃ! 地上に着いたら殺してやる!」
そう叫んだ恭史郎は、落下していく宙空の中で、晴美にだけは見せたくなかったあられもない姿をさらけ出していた……。
おわり