前編
「早くしろ、じじぃ! 殺されてもいいのか!」
「ま……待ってください。そんな突然言われても……」
ベテランの殺し屋が、シワだらけの顔に拳銃を付き付けて睨みつけた。慣れているとはいえ、その迫力は一般人が見たら腰でも抜かしてしまいそうな怖さが漲っている。
初老の管理人は、震えながら少しずつ後ろへ下がって行った。
「簡単なことじゃないか、そのスイッチを切るだけでいいんだ。自分の命より、子供たちの快楽の方が大事だというのか……。グズグズしてると、その頭に穴が空くことになるんだぞ。――さあ、早くしろ!」
「でも、今日は五月五日の子供の日だし、このジェットコースターだけを楽しみに来ている子供だってたくさんいるんですから。それに見て下さい。あんなに行列が……」
窓の外には休日を楽しむ子供たちが、順番を待つのももどかしいように騒ぎ立てていた。
ここは子供の日じゃなくても、日曜祭日ともなれば大人たちだって十分楽しめるようなアトラクションが数多く取り揃えてある、大規模な遊園地の制御室の中の出来事だった。
「子供の快楽なんて関係ない。俺の命の方が大事なんだ」
「どうしてジェットコースターとあなたの命が関係あるんですか。乗ったら爆発でもするというんですか。――もしかしたら、ジェットコースターに乗るのが怖いんじゃ……」
「ばかやろう! つべこべ言わずに早く止めろ!」
殺し屋は詰め寄って、管理人のこめかみに拳銃を突き立てた。本当に引き金を引いてしまいそうな迫真に満ちた顔が、管理人の思考回路を麻痺させた。
「わ、分かりました! でも、ちょっと待って下さい。止めるためには手続きが必要なんです。今からそれを……」
管理人といえども勝手に機材を触ってはいけないし、運営を管理するだけで、正常な動静を左右することなんか出来るはずがなかった。
そこで遊園地の園長に承諾を得ようと、電話機に手を伸ばそうとすると、
「ちょっと待て! スイッチはそこにあるはずだ、それを切るだけでいいんだ。――さあ、じじぃ。スイッチが先か、頭に穴が空くのが先か……」
殺し屋は拳銃の引き金に、ゆっくりと指を差し込んだ。
「き、切ります! 止めればいいんでしょう。私がクビになったら、責任取って下さいよ……」
管理人が汗を拭きながらスイッチに手を伸ばすのを見て、殺し屋は安堵の溜息を漏らしていた。
彼の名は、殺し屋恭史郎。誰も知らない裏組織である殺人集団の一員だ。
今まで数多くの殺人事件が未解決のまま放置されているが、ほとんどの場合、迷宮入りになるような事件はこの殺人集団、〈キューピットグループ〉の仕業なのだ。
――そもそも彼が殺し屋になったのは、高校を卒業して間もない、ある企業の新人社員として社会の波にもまれ始めた頃の事だった。仕事といっても二十歳前の若者にとっては、青春を謳歌するためのガソリンが満タンになっている状態で、営業成績よりも色恋の成績の方が重要なときだ。
そんなときに表れた絶世の美女。恭史郎が本気で惚れたのは、たぶんこの女、晴美が初めてだろう。まるで強力な磁石がお互いを引き合うように、二人の愛は急激に高まろうとしていた。
――が、世の中そんなに甘くない。
「私、あなたが好き、愛してるわ。でも……私、あなたの女にはなれないの」
オフィス街のあるビルのロビーで、晴美の声が恭史郎にとって悲しく響いている。二人は今までここでしか会うことが出来なかったのだ。
「どうして? 君には恋人がいるのかい」
「そうじゃないの。私、どうしてもやらなければいけない仕事があるんだ。それをやらなかったら……」
晴美は今にも泣きそうな表情で、恭史郎にすがりつこうとしていた。しかし、晴美がいう仕事を全うしない限り、どうしても飛び込めない事情があるらしい。
「仕事って……。僕に出来ることだったら、何でも言ってくれ。――掃除、洗濯? それとも、アイロンがけなら任せてくれ。家庭科の成績は、いつも(5)だったんだよ、僕! 料理なんか大の得意で……」
他に自慢することがない程、家庭科以外の成績は哀れなものだった。よくぞ高校を卒業することが出来たものだ。
「実は私、ある秘密の組織に入ってて、そこの許しがなかったら、結婚だって……」
「秘密の組織?」
「たとえデートするだけでも、その仕事を終わらせないと出来ないの。――もし、あなたがそれをやってくれたら、私はあなたの……」
晴美は潤ませた目を、恭史郎から逸らさずにいられなかった。
「君のためなら何だってやるよ。お願いだからその仕事、僕にやらせてくれないか」
哀願する恭史郎の声を聞きながら、しばらく口を閉ざしたままうつむいていた晴美は、何かを吹っ切るように顔を上げた。そして、
「――あなた、人を殺したことある?」
そういった晴美の顔は、至って冷静だった。
「殺し?……」
恭史郎は晴美の意外な言葉に動揺していた。さっぱりわけが分からない。
「あなた、私のこと愛してる?」
「も、もちろん! 君がいない世の中なんて、僕には考えられないんだ」
「だったら……。私について来て」
晴美はそう言って、そのビルの地下室の下、そう、まだ誰も知らない秘密の場所へと導いて行ったのである。
地下の地下、といえば、暗くてジメジメとした息の詰まりそうな雰囲気を想像するが、ドアが開いたその場所は、まるで一流ホテルのロビーをそのまま持って来たような明るい空間が広がっていた。
ビルを見ただけでは想像出来ないほどのそのフロアには、老若男女を問わず、様々な人達が楽しそうに談笑している。
ただ地上の世界と違うことは、そこにいる人達が、ナイフやピストル、ロープに機関銃、手榴弾やダイナマイトなどを手に持った、異様な雰囲気の世界が広がっていたのである。
恭史郎の前を歩く晴美の姿は、いつもと違う華やかさ、というより威厳といってもいい程の空気が放出されていた。
しかし、怖いということはない。凶器を持っている人波の中を歩いていても、その人たちの顔は一般人と変わらない優しそうな表情を浮かべ、至福の限りを尽くした極楽の世界の様相を湛えていたからである。
「は、晴美ちゃん……。ここは、一体……」
「しっ! 今は喋ったらダメ!」
晴美はピシャリと遮った。「あなた、私を愛してるのよね」
「も、もちろん」
「あの人たちに聞かれたら、何もかもおしまいなの。――今から面接があるわ。いいこと、ただ『はい』とだけ言ってればいいからね」
「う、うん……。でも、面接って……」
恭史郎は何がなんだか分からないまま、回りの視線を一身に浴びた晴美の後ろを、ただ黙々とついて行くしかなかった。
悠然と闊歩する晴美に、冷やかしとも妬みとも取れる声が、あちこちから飛び交っている。
「晴美ちゃん! どうしたんだよ、男なんか連れて」
「裏切りっこなしだぜ。ちゃんと約束事があるんだからな」
と、そこまではよかったが、
「そんなひ弱な男に、QGの偉業を達成できるのかな。フフフッ」
怖いお兄さんであれば分かりやすいものだが、どこかの交響楽団でバイオリンでも弾いていそうな堅物な青年がそう言ったから、余計にわけが分からなくなって来た。
QGとは、<キューピットグループ>の略称だ。殺し屋の組織にふさわしくない名称だとは思うが、この団体が世間の目に触れたとき、少しなりとも悟られてはいけないという思いから、会員の投票によって可愛げのあるこの名称に決められたのである。
自分に降り注ぐ視線を感じながら、恭史郎はおぼつかない足を進めていた。
パーティ会場のような広間を通り過ぎて、細長い廊下の突き当たりのドアの前にたどり着いた恭史郎に、いつもと変わらない晴美の笑顔が飛び込んで来た。
「さあ、着いたわよ。心の準備は出来た?」
「う、うん……?」
心の準備って、何を準備すればいいんだろう。とりあえず晴美の前だ、そう返事をするしかない。
「いいわね、ただ『はい』とだけ言うのよ、分かった? ――私のためなら、何だってやってくれるのよね!」
晴美の声は、恭史郎に有無を言わせぬ迫力がある。
「も、もちろん、君のためなら……」
「さあ、行くわよ!」
――しかしてドアは開けられた。
その部屋は、普通の会社の応接室と何ら変わらぬ至って平凡な個室になっている。来客用のソファーとテーブルが一対。事務用と思われる安っぽい机に、訳の分からぬ本が並べられた棚が雑然と置いてあるだけだ。
ただ普通と違うことは、机に向かって怪しげな本に夢中になっている頭のハゲた親父のいやらしい目付きだけであろう。部屋に入った晴美を見たその目は、カマボコを逆さにしたようないやらしい形になっていた。
「会長! 新人です、面接をお願いします!」
「ほほう、またまた来たのかね。いつも最初の意気込みは立派なものだが、この仕事をこなせる人は今までいないしね。大丈夫かな……」
会長と呼ばれたその男は、足元から頭まで舐め回すようにして恭史郎に視線を集中させた。ちょっと見ただけではそこら辺にいるスケベオヤジと何ら変わらない。
恭史郎は場違いな雰囲気に飲まれまいと、両足を踏ん張ってハゲオヤジを見返していた。
「お願いします。早く面接を……」
そういった晴美は、パイプ椅子を持ってきて恭史郎に視線を送った。頑張って、とでも言っているのだろうが、恭史郎は全く分かっていない。
「じゃ、そこに座って……」
言われるままに腰を下ろした恭史郎は、どこを見ていいのか分からずキョロキョロと視線を動かしていた。
「ええと、名前は……?」
「恭史郎さんです。もちろん本名じゃありませんが」
横から晴美が言った。
「恭史郎ねえ。いつからこの名前を?」
「今です。今、私がつけました。ピッタリでしょ、彼に」
晴美は眼を輝かせて、恭史郎を見てニッコリとほほ笑んだ。
「分かった分かった。晴美君はもういいから、彼と話をさせてくれないか」
会長はそう言って、恭史郎に問いかけた。「君はこの会がどういうものか知ってて来たんだろうね」
「はあ……」
知ってるはずがない。晴美の手前、そう言うしかないのだ。
「だったら訊くが、君は今まで何かを殺したことがあるか。もちろん人間とは言わない、小動物や虫の類いでもいい。殺しについての君の意見が聞きたい」
「はあ……」
そう言われても、「殺し」という言葉を聞いただけでも卒倒してしまいそうな気の弱い性格なのだ。今まで何かを殺したことがあるのだろうか。
恭史郎は、あまり能率のよくない思考コンピューターを始動させてみたが、
「小さい動物だったら殺せるかもしれません。ハエや蚊はもちろん、ゴキブリなら二センチ以下だったら殺したことがありますが、それ以上になると、ちょっと……」
「二センチ以上だったら殺せないのかね。それはどうしてかな?」
「だって、怖いじゃないですか。真っ黒い体で羽をブンブン鳴らして飛んでくることもあるんですから。それを潰したら、グチャ! っていう音が感覚として僕の体に伝わりますよね。あれがどうにも気色悪い……」
恭史郎がそう言った矢先、足元を五センチはあろうかというゴキブリが横切って行った。
「ひぇっ!」
おもわず飛び上がった恭史郎を、晴美が慌てて押さえ付けた。
「我慢するのよ、恭ちゃん!」
「恭ちゃん?」
そんなふうに呼ばれたのは初めてだ。もちろんこの名前だって、いま晴美が命名したばかりなのだ。
恭史郎は何がなんだか分からないまま、パイプ椅子に再び座っていた。
「まあいい、まあいいだろう。――君にもある程度分かっているとは思うが、ここは殺人者たちの集団だ。人を殺すために、日夜訓練しているんだよ」
「は、はい……」
「もちろん、手当たり次第に殺すんじゃない。殺人を依頼した人の話と、殺される人の現状を確かめたうえで、どうしても殺さなければいけないと私が判断したときに、初めて会員たちに殺人を依頼するんだよ」
会長はそう言いながら、さっきまで見ていた怪しげな本の端を折りたたんでから、引き出しの中にしまった。
「会長、それ……」
晴美は見た。端を折りたたんだページには、モザイクのかかっていないアレがドアップに映し出されていたのである。俗に言うエロ本だ。
「いや、これは……新しい殺人の方法を考えていたんだよ。その……参考資料にと思ってね……」
タジタジとなって、会長は再び恭史郎に向き直った。
「とにかく、殺人者として君の性格は合格点を上げてもいい」
「へっ……。だって、僕」
「ここにいる人たちはね、みんな気の弱い性格の人ばかりだったんだよ。小さな虫しか殺せない。ちょっと怪我するとすぐ泣いてしまう。――だからこそ、人間を殺すということが感覚的に分からないんだ。もちろんグチャっと潰すわけじゃないからね」
「でも警察は……」
「そこを上手くかわすのが、プロの殺し屋だ。大丈夫、君には素質がある。――晴美君を好きなんだろう。君のものにしたいんじゃないのか」
そう言われて、恭史郎と晴美の視線が重なった。晴美は目を潤ませて喜んでいるようだった。
「会長! 恭史郎さんを会員にしてくれるんですよね! 合格なんですよね!」
晴美はそう叫びながら恭史郎の胸に飛び込んで来た。
「ただし、ここに来たからには脱会はできないよ、口外は無用だ」
「は、はあ……」
恭史郎は何とも答えようがない。まだ自分の置かれた立場を理解していないのだ。
「もしここを出た後に、この会のことを誰かに話すようなことがあれば、その時点で君の生命は終わりだ。いつでも君の命を奪うことは出来るんだからね」
「大丈夫です。恭史郎さんはそんな人じゃありません!」
晴美は恭史郎を庇いながら、会長に詰め寄った。
「分かった、分かったよ。――それでは、キューピットグループの規則と目標を説明しよう」
晴美に圧倒された会長は淡々と話し始めた。
正当な(?)殺人の依頼があったときのみ、会員としての仕事をすること。理不尽な殺人はしないこと。自分の感情で手を出さないこと。緻密な計画の元に行動すること。もし警察に疑われ、指名手配されたときは自害して果てること。団体のグループではあるが、一歩外に出たらあくまでも個人である事を忘れてはならないこと。成功報酬は、プロ野球の一流選手の年俸に等しい額であること。
そして……。
「君は晴美君と交際をしたい、デートをしたい、あわよくば結婚もしたいと思っているようだな」
「も、もちろんです。そのために僕は……」
「晴美君は、この組織に管理されているんだ。彼女を自由にするためには、君たちに与えたノルマを達成しない限り不可能なんだよ」
「ノルマとは、一体……」
やっと晴美の話になって、恭史郎は目が覚めたように訊いた。
「百人斬り! ――これは当初、晴美君に与えたノルマだったんだが、やはり彼女は女の子だ。男だってなかなか無理だろう。そこで、ノルマを達成した勇気ある者に、晴美君を託そうということなんだよ」
「ひゃ、百人……!」
恭史郎は呆然と呟いた。ゴキブリも殺せない自分が、百人も殺せるわけがない。
「恭ちゃん、頑張って! 殺し方は私が教えてあげるから!」
晴美の輝いた目が、恭史郎を一流の殺人道へと誘おうとしていたのである。