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「色気のない書類女など願い下げだ!」と婚約破棄されたので、全公務と私的流用請求書を突きつけて去ることにしました〜隣国の美貌皇帝に「我が皇后に」と攫われ、元婚約者は三日で国を傾けたようです〜

作者: ORIGIN-7
掲載日:2026/09/15

 

 王立学園の卒業記念夜会。

 天井に吊るされた巨大な魔導シャンデリアが、色とりどりの豪奢なドレスを纏った貴族たちを眩いばかりに照らし出している。

 オーケストラによる優雅なワルツが流れる大広間の中央で、その男――アルカディア王国の第一王子であり、次期王太子と目されているフェリックスは、勝ち誇った笑みを浮かべていた。


 彼の腕の中には、桜色の髪を揺らし、怯えた子鹿のように瞳を潤ませた少女――マリアンヌ・ルーカス男爵令嬢がいる。

 そしてフェリックスの視線の先には、一人静かに佇む私――エレノア・クロムウェルがいた。


「皆の者、聞くがよい!」


 フェリックスの通る声が大広間に響き渡り、音楽がピタリと止まる。

 数百人の視線が一斉に私たちへと集まった。


「エレノア・クロムウェル伯爵令嬢! 貴様との婚約を、これをもって破棄する!」


 会場に、小さなどよめきが走る。

 だが、フェリックスは得意げに胸を張り、隣のマリアンヌの腰を抱き寄せながら、さらに言葉を重ねた。


「貴様は常に陰気で愛想がなく、顔を合わせれば書類の話ばかり! 女らしい色気も可愛げも欠片もない! 挙げ句の果てには、俺の唯一の理解者であるマリアンヌを激しく嫉妬し、陰湿な嫌がらせを繰り返した! そんな悪毒に満ちた書類女など、未来の王太子妃に相応しくない! 俺は真実の愛に目覚めたのだ!」

「ひどいですわ、エレノア様……。私、殿下とただ純粋にお話ししたかっただけなのに、あんなに冷たい目で睨まれるなんて……」


 マリアンヌがわざとらしくフェリックスの胸に顔を埋める。

 周囲の貴族たちから、私を嘲笑するような視線と囁き声が突き刺さった。


「まあ、やはり捨てられたのね」

「いつも地味なドレスばかり着て、政務ごっこに興じていた女よ」

「フェリックス殿下もお気の毒に、あんな冷たい女が婚約者だったなんて」


 ――政務ごっこ、ですか。

 思わず口元が緩みそうになるのを、私は淑女の微笑みの下に隠した。

 まずは、事実関係の訂正から済ませておこう。


「恐れ入ります、フェリックス殿下。二点ほど確認させていただいても?」

「な、なんだ! 今さら言い訳など見苦しいぞ!」

「いいえ。まず一点目、そちらのマリアンヌ様への『陰湿な嫌がらせ』についてですが……。大変申し上げにくいのですが、わたくし、そちらの方と言葉を交わしたことすら一度もございませんわ」

「なっ……!?」

「毎日届く数百枚の決裁書類と財務帳簿の確認に追われておりまして、他家の令嬢のお名前とお顔を覚える余白など、わたくしの脳には一ミリたりとも残っておりませんでしたの。お話ししたこともない方を睨むことなど、物理的に不可能です」


 マリアンヌの顔がピシリと引き攣る。広間の貴族たちからも「え? 面識すらないの?」と当惑した声が漏れた。


「そして二点目――婚約破棄についてでございますが」

 私はふう、と小さく息を吐き出すと、完璧なカーテシーをとった。

 そして、ここ三年の中で最も晴れやかで、心の底からの満面の笑みを浮かべて見せた。


「殿下、誠にありがとうございます。言質、確かに頂戴いたしました。婚約破棄、このエレノア・クロムウェル、謹んで、かつ狂喜をもってお受けいたしますわ!」

「……は?」


 予想していた『縋り付いて泣き叫ぶ悪女』の姿とは正反対の私の態度に、フェリックスが目を白黒させる。

 私は腰に下げていた特注の『空間収納鞄』の留め具を外した。


「さあ、殿下。婚約が破棄され、私が殿下の補佐官としての役務を免除された以上、これらはすべてお返ししなければなりません」


 ――ドスン!!

 重々しい鈍い音が、静まり返った大広間に響き渡った。

 私が空間収納鞄から取り出し、床の上に積み上げたのは、大人の背丈ほどもある分厚い革張りのファイルの山だった。


「な、なんだこれは……!?」

「『王太子殿下決済案件・未処理書類全十二巻』にございます」


 私は平然と、指を折って告げた。


「明日の朝十時が締め切りである『東部国境守備隊の冬季糧食および防寒具配分承認書』。明後日までに決済せねば首都の物流が麻痺する『中央幹線道路改修工事の予算執行許可書』。そして今週末までに隣国と調整せねば関税協定が決裂する『通商関税の見直し草案』。これらはすべて、殿下が『面倒だからエレノアが適当にやっておけ』と私に丸投げされていた公務です」

「なっ……!」

「本日をもって私はただの伯爵令嬢に戻りますので、王家の公務に口を出す権限は一切ございません。明日からはどうぞ、その素晴らしい『真実の愛』のお相手とご一緒に、殿下ご自身の手で決済なさってくださいませ」


 青ざめるフェリックスをよそに、私はさらに鞄から一枚の羊皮紙を取り出した。

 これこそが、本日のメインディッシュである。


「そして殿下、もう一つ。こちらをどうぞ」

「こ、これは……?」

「『過去三年間における、フェリックス殿下の私的流用金およびツケ払いの精算書』でございます」


 フェリックスの手が小刻みに震え、羊皮紙を受け取る。

 そこに記された数字を見た瞬間、彼の顔から完全に血の気が引いた。


「さ、三千万……ゴルド……!? な、なんの冗談だこれはぁっ!?」

「冗談などではございません。マリアンヌ様にお贈りになられた『星屑の首飾り』八百万ゴルド。先月特注された『最高級絹の夜会服一式』四百万ゴルド。その他、高級料亭や遊興費のツケ……すべて殿下のお名前で王太子宮の経費、および我がクロムウェル家の口座宛てに請求が回されていたものです。すべて殿下の直筆署名入りの領収書が保管されております」


 大広間の貴族たちから、今度はまったく別のどよめきが上がった。

 国家予算の私的流用、それも愛人への貢ぎ物。しかもそれを婚約者の生家に肩代わりさせていたのだ。


「う、嘘よ! そんなの嘘ですわ! 殿下は私に『愛の証のプレゼントだ』っておっしゃったのに!」

 マリアンヌが金切り声をあげる。


「ええ、殿下の愛の証を、私の生家の金で支払う謂れは一切ございませんもの。今月末までに全額、王太子個人の資産よりクロムウェル家へご返金願います。利息は規定通り年五パーセント頂戴いたしますわ」

「ば、馬鹿な! 俺にそんな金があるわけがないだろうが!」

「あら、お持ちでないのですか? でしたら殿下の私有地を売却されるか、あるいはマリアンヌ様にお渡しになった宝石類をすべて質入れされることをお勧めいたします」


「ふざけるな……ふざけるなッ!」

 フェリックスの顔が羞恥と怒りで真っ赤に沸騰した。

 彼はギリギリと歯を軋らせ、私を睨みつける。その瞳に宿っていたのは、単なる我儘ではなく、長年澱のように溜まった暗い劣等感だった。


「お前が……お前がいつもそうやって、冷たい目で俺を見下ろすからだッ! 父上も、重臣どもも、誰も彼もが『エレノア嬢を見習え』『エレノア嬢がいなければお前は何一つできん』と! 父上など『あの子がお前を支えてくれなければ、とっくに廃嫡している』とまで言っていたぞ! 俺が提出した書類を、お前はいつも赤いペンで無言で直して突き返してきた! 俺はお前の操り人形じゃない! 俺を敬い、俺を立ててくれるマリアンヌこそが、俺にふさわしい伴侶なんだ!」


 ――ああ、なるほど。

 私は内心で冷ややかに納得した。

 彼が政務を放り出し、派手な遊興とマリアンヌに逃げた理由。それは、厳格な国王陛下と比較され、婚約者である私に実務で敵わないことへの惨めなプライドの逃避だったのだ。

 けれど、だからといって国家予算を盗んで遊んでいい理由にはならない。


「身の丈に合わないプライドのために国庫を横領する方を、どう敬えとおっしゃるのですか?」

「な……ッ! 衛兵! 衛兵を呼べ! この無礼な書類女を地下牢に叩き込め!」


 逆上したフェリックスが、唾を飛ばしながら喚き散らした、その時だった。


「――静かにせよ、愚か者が」


 低く、地を這うような冷徹な声音が、広間全体を氷点下に叩き落とした。


 ◇


 その声が響いた瞬間、会場にいたすべての者が呼吸を忘れた。

 大広間の上座から、コツ、コツ、と硬い軍靴の音が近づいてくる。


 漆黒の礼装に身を包み、夜空を切り取ったような黒髪を靡かせた長身の男。

 怜悧に研ぎ澄まされた美貌、紫水晶アメジストのように冷たく輝く双眸。

 立っているだけで周囲の空気を支配してしまうほどの圧倒的な威圧感――。


 アルカディア王国が国賓として招いていた隣国、グランヴェル帝国の若き皇帝。

 オズワルド・フォン・アルスハイムその人であった。


「オ、オズワルド陛下……!?」


 フェリックスが引き攣った顔で後退る。

 オズワルド皇帝は、フェリックスを一瞥した。それはまるで道端に転がる小石を見るかのような、冷ややかな眼差しだった。


「己の無能と劣等感を他人に転嫁し、あまつさえ国庫の金を愛人に貢ぐために使い込んでいたとはな。アルカディア王国の次期王太子がこれほど浅ましい男だったとは、見苦しいにも程がある」

「ひっ……! そ、それは……!」


 容赦のない言葉に、フェリックスは唇を震わせるだけで一言も言い返せない。

 そしてオズワルドは、フェリックスから視線を外すと、私の目の前まで歩み寄ってきた。


 至近距離で見上げる彼の瞳は、先ほどまでの氷の冷たさが嘘のように、かすかな熱を帯びていた。

 次の瞬間、大陸最強の軍事大国を統べる若き皇帝が、私の前にすっと片膝をついた。

 大広間のあちこちで、息を呑む音が重なる。


「オズワルド陛下……?」

「エレノア・クロムウェル嬢」


 オズワルドは私の右手を両手でそっと包み込むように取ると、その指先――ペンだこが残る人差し指に、祈るような微かな口づけを落とした。


「半年前、貴国が我が国と結んだ通商条約の草案。その欄外にあった、小さな手書きの注記を今でも覚えている」

「え……?」

「『冬季、国境山岳部の関税を特例免除とする。ただし、運搬を担う平民商人の凍傷手当および宿場町の暖房費を、王室基金より補填すること』――そう書かれていたな」


 私は目を見張った。

 それは、両国の利益を巡って難航していた交渉の末、私がどうしても削りたくなくて、独断で注釈として書き添えた小さな一行だった。


「国家の利益を奪い合う冷徹な外交の場で、雪山を越える名もなき商人たちの凍える指先にまで心を配っていた者がいた。……あの調印式の夜、遠く壇上で見かけた君の指先はインクで黒く汚れ、目の下には消えない隈があった。だが条約が無事に結ばれた瞬間、胸を撫で下ろして微かに笑った君の横顔を、私は半年間、片時たりとも忘れたことはない」

「陛下……あんな遠くから、私のことを……?」

「ずっと見ていた。そして、君がどれほど理不尽な環境で搾取されているかを知り、腸が煮えくり返る思いだったのだ」


 オズワルドの紫の瞳が、私を射抜く。


「我がグランヴェル帝国は、これほど得難い英知と慈愛を持つ女性を蔑ろにする愚国ではない。……エレノア嬢、私と共に来てほしい。我が国の皇后として、そして、私の生涯ただ一人の妻として」


「「「「ええええええええっ!?」」」」


 広間が割れんばかりの叫び声に包まれた。

 第一王子の婚約破棄から、帝国皇帝の電撃求婚へ。

 あまりの急展開に、私の思考回路も焼き切れそうになる。


「け、皇后……!? 私が、ですか!? し、しかし私は、地味で色気もない書類女で……」

「馬鹿を言え。民のために身を削り、誇り高く自活する貴女の魂が、美しくないはずがない」


 オズワルドは立ち上がると、自らの肩にかかっていた豪奢な皇帝外套を外し、私の肩へとふわりとかけてくれた。

 上質な毛皮の温もりと、清涼な白檀の香りが私を包み込む。


 ――ああ、この人は。

 胸の奥で、カチリと何かが音を立てて解けた。

 誰も気にとめなかった、手柄にも名誉にもならない欄外の注記。

 アルカディア王国の誰もが「便利な執政の道具」としてしか私を見ていなかったのに、この人は遠い大国の玉座から、私の仕事の奥にある「心」を見つけてくれていたのだ。

 ただ泥舟から逃げたいからではない。

 生まれて初めて、自分という人間そのものを真っ直ぐに見つめてくれたこの人の手を――私は、取りたいと思った。


「さあ行こう、エレノア。泥舟に残る義理など、貴女には爪の先ほどもない」

「……はい。喜んでお供いたします、オズワルド様」


 私はオズワルドの手を取り、歩き出した。

 床に崩れ落ちたまま呆然とするフェリックスとマリアンヌを振り返ることもなく、私たちは堂々と大広間を後にしたのだった。


 ◇


 アルカディア王国を後にして、グランヴェル帝国の皇宮に併設された豪奢な離宮へ案内されてから三日。

 私は、天蓋付きのふかふかのベッドの上で、膝を抱えて途方に暮れていた。


「……落ち着かない」


 部屋には執務机も、財務帳簿も、インク瓶もない。

 あるのは薔薇の香油が香る湯殿と、帝室専属パティシエによる焼き菓子、そして肌触りの良い最高級シルクの室内着だけだった。


 侍女たちからは「陛下より『まずは一週間の完全休養を』と厳命されております」と笑顔で念を押され、何一つ仕事をさせてもらえない。

 羽を伸ばせばいいはずなのに、三年間不眠不休で走り続けてきた私の体は、何も生み出さない空白の時間に耐えられなかった。

 手持ち無沙汰でシーツの端を何度も揃えたり、クッションの皺を伸ばしたりしてしまう。


 ――働いていない私には、何の価値もないのではないか。

 ――役に立たないと分かれば、オズワルド様もいつか私を捨てるのではないか。


 そんな暗い考えが胸をもたげていた夜、控えめなノックと共に扉が開いた。


「入るぞ」


 部屋着姿のオズワルド様だった。その手には、銀のティーポットと湯気を立てる二つのカップがある。


「陛下……自らお茶を?」

「カモミールと蜂蜜の茶だ。……君の顔を見に来た」


 オズワルド様はテーブルにカップを置くと、ベッドの端に腰掛け、私の顔をじっと見つめた。

 そして、ふっと眉を寄せる。


「……休めていないな。まだ怯えた顔をしている」

「あ……申し訳、ありません……」

「謝る必要はない。だが、なぜだ? 部屋が気に入らなかったか? それとも菓子が口に合わなかったか?」

「いいえ! そんなことはありません! ここは夢のように素晴らしい場所です。ただ……」


 私は俯き、シーツをぎゅっと握りしめた。


「私……働いていないと、不安なのです。数字も書類も見ず、ただ息をして、贅沢な食事をいただいているだけの自分に、耐えられなくて……。私から仕事を奪ったら、何の価値も残りません。可愛げも色気もないのですから……いつか陛下にも愛想を尽かされるのではないかと……」


 言ってしまってから、なんてみっともない告白だろうと唇を噛んだ。

 だが、オズワルド様は呆れることも怒ることもなく、ただ深く、痛ましそうに息を吐き出した。


「……君は、己の価値を『他人に差し出した労力』でしか測れないのか」

「え……?」

「それほどまでに、あの国で心を削られ、追い詰められていたのだな」


 オズワルド様の手が伸びてきて、私の冷えた頬を大きな手のひらで包み込んだ。

 温かい。泣きたくなるほど優しい熱が伝わってくる。


「エレノア。私は君の知性を尊敬しているが、労働力が欲しくて妻に迎えたのではない。君という人間そのものを、私の傍に置きたいのだ」

「私の……人間そのものを……?」

「そうだ。君が朝起きて、美味そうに茶を飲み、くだらないことで笑う。それだけで私の救いになる。……仕事をしたいなら、君が心から『やりたい』と思える時が来るまで、一行たりとも書類に触れる必要はない」


 私の瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。

 オズワルド様は親指でその涙をぬぐうと、そのまま私を優しく胸の中へと引き寄せた。


「泣いていい。これからは、誰かのために無理に役に立とうとしなくていい。君を守り、満たすのが私の役目だ」


 逞しい胸板に顔を埋め、私は子供のように泣きじゃくった。

 張り詰めていた心の結び目がほどけ、三年間溜め込んできた孤独と恐怖が、涙と一緒にすべて溶け出していくようだった。


 ◇


 エレノアがグランヴェル帝国へと去ってから、わずか三日後のアルカディア王国。

 王太子執務室は、足の踏み場もない阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。


「読めん! なんだこれは! なぜ数字ばかりが並んでいるんだぁぁっ!?」


 フェリックスが頭を掻きむしり、机の上の書類の山に怒鳴り散らしていた。


「で、殿下! 東部国境の守備隊から『冬用物資が届かず、兵士の三割が凍傷にかかった』と早馬が来ております!」

「知るか! なぜ俺がいちいち兵士の飯や服の心配をせねばならんのだ!」

「幹線道路の改修業者からも『予算が下りないため工事を即時中断する』と通告がありました! 王都への物流が止まり、パンの価格が三倍に跳ね上がって暴動寸前です!」

「宰相にやらせろ! 財務卿に丸投げしろ!」

「お二人とも『これは王太子殿下が管轄すると宣言された案件です。前王太子妃候補のエレノア様がすべて完璧に仕切っておられたので、我々には引き継ぎ書がなければ手も足も出ません』と突っぱねられました!」


「あのアマァッ……!!」

 フェリックスは机を激しく叩いた。

 エレノアが残していった『全十二巻の引き継ぎ書』。

 開いてみれば、そこには完璧な手順と解説が、あの几帳面で整然としたエレノアの文字でびっしりと記されていた。要所要所には、理解を助けるための赤いペンの補足注記まで添えられている。

 ――また、お前の字だ。

 ――また、あの忌々しい赤ペンで、俺を教え導くつもりか!

 屈辱に手を震わせながらページを睨みつけるが、基礎的な学問すら怠ってきたフェリックスには、そこに書かれている専門用語が一行たりとも頭に入ってこなかったのだ。


 そこへ、執務室の扉がドアン! と乱暴に開かれた。


「殿下ぁ〜〜〜っ!!」


 飛び込んできたのは、涙で化粧をドロドロに崩したマリアンヌだった。


「どうにかしてください殿下ぁ! 王都の宝石商とドレス屋さんが、うちの屋敷を取り囲んで『三千万ゴルドを今すぐ払え!』って暴れているんです! 払えないなら男爵領を差し押さえるって……! 早くお金を出してください!」

「金などあるわけがないだろうが! 俺の個人口座はとっくに底をついているんだ! この疫病神が、お前がねだるからこんなことになったんだろうが!」

「なんですって!? 『真実の愛のためなら国だってくれてやる』って言ったのは殿下じゃないですか! この甲斐性なし!」


 かつて「真実の愛」を誓い合ったはずの二人は、見るも無残な罵り合いを始めた。

 マリアンヌがフェリックスの頬を引っ掻き、フェリックスがマリアンヌを突き飛ばす。


 その瞬間――。


「――そこまでだ、不届き者どもが」


 雷鳴のような怒声が、執務室に響き渡った。

 扉の前に立っていたのは、病気療養から急ぎ戻ったアルカディア王国国王その人であった。

 国王の背後には、抜刀した近衛騎士団が控えている。


「ち、父上……!?」

「国の危機を聞きつけ、這うて戻ってきたわ! ……フェリックス、貴様、自分が何をしでかしたか分かっているのか!?」


 国王の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。


「国庫金の横領! 三千万ゴルドもの私的流用! 公務の完全な放棄! そればかりか、我が国を陰から支えてくれていたエレノア嬢を不当に貶め、あまつさえ帝国皇帝の御前で大恥を晒しただと!?」

「ち、違います父上! あれはエレノアが俺を罠に嵌めたのです! あいつが急にいなくなったせいで……!」

「黙れッ!!」


 国王の剛腕が、フェリックスの頬を容赦なく張り飛ばした。

 バチン! という激しい音と共に、フェリックスが床に転がり、口から血を吐き出す。


「エレノア嬢が三年間、貴様の代わりにどれほどの激務をこなしていたか、儂が知らんと思うてか! 貴様を廃嫡しなかったのは、エレノア嬢が『殿下をお支えします』と頭を下げてくれたからこそだ! その恩を仇で返し、手放すとは……この大馬鹿者が!!」


 国王は冷酷に宣告を下した。


「フェリックス! 貴様を本日をもって王太子の座から解任、王籍を永久に剥奪する! 横領した三千万ゴルドを返済するまで、北方の極寒鉱山にて生涯強制労働を命じる!」

「そ、そんな……! 父上、お許しを! 鉱山など行ったら死んでしまいます!」

「民の血税を盗んだ罪人に情けなどかけるか! 連れて行け!」


 衛兵たちに両脇を抱えられ、フェリックスが絶叫しながら引きずられていく。


「ひ、ひぃぃっ! わ、私は……私はただの男爵令嬢ですわ! 関係ありません!」

 逃げ出そうとするマリアンヌを、騎士たちが容赦なく取り押さえた。


「マリアンヌ・ルーカス! 貴様も国家反逆および詐欺の共犯だ! ルーカス男爵家は取り潰し、全財産を没収! 貴様は西方の孤島にある修道院へ送り、生涯贖罪の労働に従事せよ!」

「嫌ぁぁぁっ! 嘘よ、こんなはずじゃなかったのにぃぃっ!」


 愚かな男女の絶叫が城内に木霊し、やがて遠ざかっていった。

 一人残された国王は、深く頭を抱えて呻いた。


「……すぐにグランヴェル帝国へ親書を書け。『我が国の過ちを謝罪する。頼むからエレノア様を返してほしい、さもなくば我が国は崩壊する』とな……!」


 ◇


 春の陽光が心地よく降り注ぐ、グランヴェル帝国の皇宮庭園。

 白大理石のテラスで、私とオズワルド様は穏やかな朝のティータイムを過ごしていた。


「エレノア、この焼き菓子はどうだ? 君が好きだと言っていたオレンジピールを入れて焼かせたのだが」

「まあ、とても美味しいです! 爽やかな香りで、いくらでも食べられてしまいますわ」


 私が笑いかけると、オズワルド様は嬉しそうに目を細めた。

 すっかり顔色も良くなり、手入れされた亜麻色の髪は光を浴びて艶やかに波打っている。

 身に纏っているのは、美しいサファイアブルーのドレス。もう「地味な書類女」と呼ぶ者は、この国のどこにもいない。


「……陛下、失礼いたします」


 そこへ、帝国の宰相が一通の手紙を銀盆に載せて運んできた。


「アルカディア王国国王より、直筆の親書が届きました」

「ほう?」


 オズワルド様が手紙を受け取り、封蝋を外して視線を走らせる。

 私も気になって尋ねた。


「あの……何か、祖国で問題でも起きたのでしょうか?」

「ああ。フェリックスは王籍を剥奪されて極寒の鉱山へ送られ、マリアンヌという女は孤島の修道院へ送られたそうだ」

「まあ……やはり、そうなりましたか」


 至極当然の結末に、私は小さく息をついた。

 三千万ゴルドの使途不明金に、未決済の山。隠蔽できるはずがないのだ。


「そして手紙の後半には、こう書かれているな。『どうかエレノア様を我が国へ返還していただきたい。今や王国は行政が麻痺し、彼女なしでは三日と持たない。何卒、寛大なるご慈悲を』……だとさ」


 オズワルド様は冷笑を浮かべると、手紙をペラリと指先で挟んだ。

 そして次の瞬間、ボッと小さな魔導の火炎が灯り、王の親書はあっという間に黒い灰となって宙に散った。


「あっ……陛下?」

「配達先が間違っている。我が帝国の未来の皇后を、沈みかけの泥舟に返すわけがなかろう」

「ふふっ、そうですわね」


 私はクスリと微笑んだ。

 かつての祖国には、もう何の未練もない。

 引き継ぎ書には、誰でも読めば分かるように完璧なマニュアルを遺してきたのだ。それを読もうともせず、理解する努力も怠ったのは彼ら自身の怠慢である。


「それにしてもエレノア。休養が明けてから君が提出してくれた『帝国内部物流網の再編案』……あれは実に見事だった。我が国の財務卿たちが『この方を一刻も早く皇后にお迎えせねば!』と血相を変えて婚礼の準備を急がせているぞ」

「も、もう……! オズワルド様が十分に休ませてくださったので、お礼に少しだけ頭を使っただけです!」


 私が頬を赤らめて抗議すると、オズワルド様は声を上げて笑った。

 そして立ち上がると、私の背後に回り、優しくその腕を私の肩へ回してきた。


「その知性も、照れた顔も、本当に愛おしい。……エレノア、もうすぐ婚礼の儀だ。生涯、君を私の隣で離さないと誓おう」

「はい……私も、この命尽きるまで、貴方様をお支えいたします」


 オズワルド様が私の顎に指を添え、ゆっくりと上を向かせる。

 近づいてくる紫水晶の瞳。

 唇に、とろけるように甘く、熱い口づけが落とされた。


 書類ばかり見ていた地味な令嬢は、もういない。

 誰よりも深く私を理解し、愛してくれる皇帝の腕の中で――私は、最高の幸福を噛み締めていた。


(了)

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!

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