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外伝短編|返さなかった、ホワイトデー

作者: 安剛
掲載日:2026/03/14

 3月の空気は、冬より少しだけやわらかい。


 校舎の窓は閉まっているのに、どこか外の匂いが入ってくる。

 湿った土の匂いと、古いワックスの匂い。

 そこに、チョークの粉っぽさが混ざっていた。


 昼休みの教室は、やけに落ち着かなかった。


 机を寄せて話している男子たちの声が、いつもより少しだけ浮ついている。

 笑い方も、言葉の選び方も、どこか軽い。


「で、お前、何返すの」


「いや、別にまだ決めてない」


「クッキーでいいんじゃね」


「雑すぎるだろ」


 そんなやり取りが、あちこちで起きていた。


 私は自分の席に座ったまま、シャーペンを回していた。

 ノートは開いている。

 でも、文字は一つも書いていない。


 机の中には、小さな包みが入っていた。


 バレンタインにもらったチョコだった。


 高いものじゃない。

 きれいな箱に入っているわけでもない。

 透明な袋に、丸いチョコが数個入っていて、細いリボンが結ばれていただけだ。


 それでも、ちゃんと覚えている。


 放課後、廊下の窓の前で呼び止められたこと。

 渡す直前に、一度だけ視線が泳いだこと。

 それから、少しだけ早口で「これ」と言われたこと。


 彼女は、同じクラスだった。


 目立つタイプではない。

 いつも前の方の席にいて、授業中は真面目で、休み時間になると友達と小さく笑う。


 よく話すわけじゃない。

 でも、話せばちゃんと返してくれる。


 グループが同じになったこともある。

 文化祭の準備で、少し遅くまで一緒に残ったこともある。


 何かが始まっていたわけじゃない。

 でも、何もなかったとも言い切れない。


 そういう距離だった。


 あのチョコをもらった日から、教室の見え方が少しだけ変わった。


 彼女の席がどこにあるかを、前より早く見つけるようになった。

 笑った声が聞こえると、無意識に顔を上げるようになった。

 名前を呼ばれなくても、気配で分かる気がした。


 それが嬉しいことなのか、気まずいことなのかは、まだうまく分からなかった。


 ただ、返したい、とは思っていた。


 礼儀として。

 ちゃんと、受け取ったことの証明として。

 それから、その少し先の理由として。


 授業が終わったあと、私は駅前の文房具屋に寄った。


 店の奥には、季節ごとの小物が並ぶ棚がある。

 卒業祝いのカードや、薄い色の包装紙、細いリボン、安いけれど見た目だけは少し整っているペンケース。


 店内の蛍光灯は白くて、外より明るい。

 商品はどれも同じ高さに並んでいて、選ばれるのを待っているみたいに見えた。


 私は何度も棚の前を往復した。


 クッキーは違う気がした。

 ハンカチは少し重い。

 アクセサリーみたいなものは、もっと違う。


 高すぎると変だし、軽すぎると雑になる。


 その間のどこか。


 手に取って、戻して、また別のものを見る。

 指先だけが忙しくて、頭は少し遅れてついてくる。


 最終的に選んだのは、小さなシャープペンだった。


 細身で、色は濃すぎない青。

 光に当たると少しだけ銀色が混ざる。

 飾りはない。

 でも、安っぽくも見えなかった。


 勉強に使える。

 渡しても不自然じゃない。

 それに、彼女が使っている筆箱の色と、少しだけ似ていた。


 レジで会計をするとき、紙袋をつけますかと聞かれた。


「お願いします」


 そう言った自分の声が、少しだけ高かった。


 家に帰ってから、机の上で包装を見直した。


 店のシールをきれいに剥がして、別の小さな袋に入れ替える。

 家にあった薄い紙を敷いて、なるべくきれいに収まる位置を探した。


 そういう作業をしている間だけ、時間が少し遅くなった気がした。


 窓の外は、もう暗かった。

 住宅街の明かりがぽつぽつ見えて、時々、車の音が流れていく。


 机のライトの下で見る青は、昼間より少し落ち着いて見えた。


 私はそれを持ち上げて、もう一度だけ確かめる。


 重くない。

 でも、軽すぎない。


 ちょうどいい、と思った。


 翌日、学校へ持っていく。


 鞄の中に入れたはずなのに、歩くたびに存在が分かる。

 教科書の角が当たる感触。

 紙袋の擦れる音。

 そんなものまで、いつもよりはっきりしていた。


 教室に入ると、彼女はもう席についていた。


 窓側の前から2列目。

 机の端に肘をついて、何か読んでいる。

 髪が少しだけ揺れていて、その向こうに横顔が見えた。


 声をかけるには遠くない。

 でも、今じゃない気がした。


 1時間目が終わる。

 休み時間になる。

 誰かが彼女のところへ行く。

 話しかけるタイミングはあるのに、どれも少し違う。


 昼休みになる。


 パンを買いに行く人の流れ。

 机を寄せる音。

 紙パックのストローを刺す音。


 私は、包みの入った鞄を足元で軽く引き寄せた。


 返すだけだ。


 難しいことじゃない。

 昨日も、そう思っていた。


 でも、今日になると少し違う。


 返すことで、何かが動く気がしていた。


 ほんの少しだけ。

 でも、確かに。


 今まで通りの教室が、今まで通りじゃなくなるかもしれない。

 その変化が怖いのか、期待しているのか、自分でもよく分からない。


 放課後、廊下ですれ違ったとき、彼女が「昨日の宿題、出した?」と聞いた。


「出した」


「早いね」


「普通」


 それだけの会話だった。


 でも、彼女は少しだけ笑った。

 その笑い方が、バレンタインの日にチョコを渡してきたときの顔と重なる。


 私は、その一瞬で、何も言えなくなる。


 鞄の中の紙袋が、急に現実的な重さを持つ。


 返すだけでいい。


 それなのに、

 返すだけじゃ済まない気がしてしまう。


 校門を出るころには、空が少しだけ曇っていた。


 春の前の風は、まだ冷たい。

 でも、冬みたいに鋭くはない。


 私は駅までの道を歩きながら、鞄の中身を確かめる。

 ちゃんと入っている。

 折れてもいない。

 潰れてもいない。


 それで安心する。


 安心したのに、何も進んでいない。


 帰る途中、信号待ちの間に、ふと思った。


 返すことで、少しだけ未来が動く気がしていた。



 バレンタインの翌週から、デスクの端に小さな箱が増えていった。


 チョコレートだった。


 高そうなものもあれば、コンビニで買えそうなものもある。

 個包装のもの。

 会社のロゴが入った簡素な袋。

 リボンだけ丁寧に結ばれた、少しだけ私的な感じのする箱。


 どれも「もらった」と言えば、そうだった。


 でも、その一つ一つに意味があるのかと考えると、少し分からなくなる。


 朝、出社してパソコンを立ち上げる。

 メールを開く。

 未読を確認し、返信の順番を決める。


 その流れの端で、誰かが「これ、どうぞ」と置いていく。


「いつもありがとうございます」


「ほんの気持ちです」


「皆さんで食べてください」


 言い方は少しずつ違う。

 でも、どれも同じ高さで聞こえる。


 私は椅子に座ったまま顔を上げ、軽く笑って答える。


「ありがとうございます」


 声は自然に出る。

 間違いもない。

 受け取り方としては、それで十分だった。


 デスクの上に置かれた箱を見ても、胸は特に動かない。


 嬉しくないわけではない。


 気遣いとして理解できるし、礼儀として受け取るべきものだとも分かる。


 ただ、その先が続かない。


 受け取った、という事実だけが残る。


 昼休み、給湯室の横で同僚たちが話していた。


「今年、どうします?」


「まとめて返します?」


「面倒だから、みんなで同じのにしようかな」


 笑いながら交わされる会話。

 困っているわけでもなく、楽しんでいるわけでもない。

 ただ、季節の業務みたいに処理されている。


 私は紙コップにコーヒーを注ぎながら、その会話を聞いていた。


「何かいいのありますかね」


 誰かがそう言う。


「最近は一括で注文できるし、楽ですよ」


「人数分セットのやつあるし」


「それでいい気がする」


 私は頷いた。


「たしかに、その方が早いですね」


 その返事にも、違和感はなかった。


 合理的だと思った。


 昔みたいに、わざわざ店を回る必要もない。

 一人ずつ考える必要もない。


 受け取った数を数えて、

 同じくらいの価格帯で揃えて、

 余計な差が出ないようにする。


 それが、一番角が立たない。


 席に戻ってから、私は仕事の合間に通販サイトを開いた。


 「ホワイトデー まとめ買い」

 検索欄に打ち込む。


 画面には、整った写真がいくつも並ぶ。

 白い箱。

 青い包装。

 小分けのクッキー。

 万人向け、と書かれたレビュー。


 どれも無難で、どれも少しずつ違う。

 でも、見ているうちにその違いも曖昧になっていく。


 同じような笑顔のモデル写真。

 同じようなキャッチコピー。

 同じような「感謝を伝えるギフト」という文言。


 私はいくつか比較して、カートに入れた。


 数量を選ぶ。

 配送先を確認する。

 カード情報を入れれば、それで終わる。


 指はそこまで進んだ。


 でも、最後の「注文確定」の手前で止まる。


 理由は、すぐには分からなかった。


 買うべきだとは思う。


 返すのが礼儀だとも、理解している。


 受け取った以上、何か返すほうが自然だ。

 その方が関係は滑らかに続く。


 なのに、指が動かない。


 私は画面を閉じた。


 一度、息を吐く。


 呼吸は乱れていない。

 困っているわけでもない。

 判断に迷っている感じでもなかった。


 ただ、そこで終わってしまった。


 返す意味が、少し薄い。


 誰に対して、何を返しているのか。

 その輪郭が曖昧だった。


 感謝に対する感謝。

 礼儀に対する礼儀。

 関係を円滑にするための、形式としての返答。


 それは分かる。


 分かるのに、

 自分がその中に入っている感じがしない。


 夕方、別の部署の女性が資料を持ってきた。


「先日の件、ありがとうございました」


「助かりました」


 私は立ち上がり、資料を受け取る。


「いえ、こちらこそ。ありがとうございます」


 やり取りは正しかった。


 声の温度も、視線の置き方も、

 社会人としては十分だった。


 相手も笑った。

 軽く会釈をして、去っていく。


 それで、何も問題はない。


 でも、

 その「ありがとうございます」の後に、

 何も残っていなかった。


 言葉は確かにあった。


 受け渡しも成立していた。


 なのに、手応えがない。


 机に戻る。

 端に積まれたチョコを見る。


 もらったことは覚えている。

 誰から受け取ったかも、大体分かる。


 けれど、一つ一つに対応する未来が、見えない。


 昔なら、

 返したら少し何かが動く気がしていた。


 会話が増えるかもしれない。

 次の季節につながるかもしれない。


 そういう微かな前提が、確かにあった。


 今は、それがない。


 返したところで、関係は大きく変わらない。

 返さなくても、明日が壊れるわけでもない。


 仕事は続く。

 会議は進む。

 業務連絡は飛び交う。


 問題は起きない。


 返さない選択のほうが、

 合理的に思えた。


 そう考えたとき、

 少しだけ胸の奥が静かになる。


 安心というほどではない。

 正解に近づいた感じに似ている。


 私はもう一度、通販サイトを開かなかった。


 デスクの端の箱は、そのままだった。


 夕方の光が窓から差し込んで、

 箱の角だけが淡く白く見える。


 中身は何も変わらない。


 受け取った事実も、そこにある。


 でも、

 返す未来だけが、どこにも接続されていなかった。



 駅ナカの特設売り場は、思っていたより白かった。


 ホワイトデーの売り場なのだから当然なのかもしれない。

 白い箱。

 青いリボン。

 銀色の文字。

 どこを見ても、同じ系統の色で整えられている。


 照明も明るい。

 でも、春の売り場にしては温度が低い気がした。


 私は改札を抜けかけて、少しだけ足を止めた。


 立ち止まるほどの理由はなかった。

 ただ、視界の端に入っただけだった。


 平台の上に、整然と箱が並んでいる。

 小さな焼き菓子のセット。

 個包装のチョコ。

 ハンカチとセットになった、少しだけ価格の高いもの。


 どれもきれいで、

 どれも失敗しないように見える。


 BGMが流れている。


 季節ものらしい軽い音楽。

 明るいはずなのに、少し遠い。

 売り場の前を通る人たちも、立ち止まりはするが、長く迷わない。


 スマホを片手に価格を見る。

 誰かに写真を送る。

 比較して、通り過ぎる。


 その流れの中に、自分が入っていないことだけが少しだけ目立った。


 私は売り場の端にあった、小さなシャープペンのセットを見た。


 文房具と焼き菓子を組み合わせた、学生向けらしいギフト。

 透明なケースの中に、細身のペンが2本並んでいる。


 青。


 その色で、思い出した。


 高校2年の3月。

 駅前の文房具屋。

 白い蛍光灯。

 棚の前を何度も往復したこと。


 高すぎず、軽すぎず、

 相手にとって重くならないものを探していた。


 あのときも、青を選んだ。


 濃すぎない青。

 少しだけ銀色が混ざる、光の当たり方で見え方の変わる色。


 彼女の筆箱の色と、少しだけ似ていた。


 そこまで思い出してから、私は売り場の前で動けなくなった。


 返せなかった。


 その事実が、今になってやっと形になる。


 返さなかった、のではなかった。


 当時の自分は、返そうとしていた。


 鞄に入れて、

 タイミングを測って、

 声をかける直前までいって、

 結局、渡せなかった。


 教室では近すぎた。

 廊下では急すぎた。

 帰り道では遅すぎた。


 そうやって、ちょうどいい瞬間だけが何度も過ぎていった。


 ホワイトデーの当日、

 私は包みを机の中に入れたまま帰った。


 次の日も持っていった。

 その次の日も。


 でも、春休みに入る直前、もう無理だと分かった。


 きっかけがなくなったのではない。

 きっかけを作る側に、自分が立てなかった。


 結局、その青いシャープペンは家の机の引き出しに入ったまま、しばらく出せなかった。


 彼女との関係は、そのままだった。


 壊れたわけじゃない。

 気まずくもならなかった。


 教室で言葉を交わし、

 進路の話をして、

 卒業式の日には「じゃあね」と笑って終わった。


 何も失っていないように見えた。


 でも、何も始まらなかった。


 あの頃の私は、それを残念だと思っていた。


 はっきり言えるほどではないが、

 確かに、少しだけ悔しかった。


 返すことで動くはずだった未来が、

 動かないまま終わったことを、

 体のどこかで受け取っていた。


 今、売り場の前に立っている自分には、その重さがなかった。


 返せなかったことと、

 返さなかったこと。


 その違いは、頭では分かる。


 前者には未練があり、

 後者には判断がある。


 そう整理することはできる。


 でも、その違いに心がついてこない。


 今の自分にとっては、

 どちらも同じ側に見えた。


 返さなかったもの。

 動かなかった関係。

 そのまま過ぎた季節。


 それらを並べても、

 胸の中には何も起きない。


 惜しい、がない。

 もったいない、もない。


 正解だったのかもしれないし、

 そうでなかったのかもしれない。


 そのどちらでも、

 あまり変わらない気がした。


 売り場の上のモニターで、短いニュース映像が流れ始めた。


 音は小さい。

 BGMに混ざる程度。


《今週も、円滑な関係構築を支える季節需要が——》


 言葉だけが耳に残る。


 円滑な関係構築。


 私は、その言い方に少しだけ引っかかった。


 返すことは、

 関係を円滑にするためのものなのか。


 感謝を返すこと。

 礼儀を返すこと。

 あるいは、関係が少しだけ動く余白を作ること。


 昔の私は、その全部をごちゃ混ぜにしていた。


 今は、全部が同じ箱に入って見える。


 礼儀。

 感謝。

 関係。


 どれも区別はつく。

 意味も理解できる。


 でも、そのどれにも、強く手を伸ばす理由がない。


 私は売り場から目を離した。


 何も買わないまま、歩き出す。


 ガラスに映った自分の顔が、少しだけ白く見えた。


 返せなかったことと、

 返さなかったことは違う。


 でも、その違いも、もうどうでもいい気がした。


 関係って、どこで終わるんだろう。



 家に着くころには、外の空気が少しだけ重くなっていた。


 雨が降るほどではない。

 でも、湿り気だけが先に来ているような夜だった。


 玄関の扉を閉める。

 鍵をかける。

 靴を揃える。


 いつもと同じ順番で、動作だけが進んでいく。


 ネクタイを緩めて、上着を脱ぐ。

 ハンガーにかける。

 袖の皺を軽く伸ばす。


 それで終わる。


 リビングに入ると、部屋は思っていたより静かだった。


 冷蔵庫の低い音。

 換気扇のかすかな回転音。

 どこか遠くを走る車の気配。


 生活の音はちゃんとある。

 でも、それ以上のものはない。


 テレビをつける。


 画面の光が、部屋を均一に照らした。

 明るすぎず、暗すぎず、ちょうどいい明るさ。


《本日も、円滑な意思疎通が評価され――》


 ニュースキャスターの声が流れる。


 抑揚は少ない。

 聞き取りやすく整っていて、感情が混ざる余地がない。


 私はソファに座った。


 クッションが少しだけ沈む。

 体を受け止める感触はあるのに、そこに落ち着く感じが薄い。


 視線の先に、机がある。


 その端に、バレンタインの日にもらったチョコがまだ置かれていた。


 包装はそのまま。

 リボンも崩れていない。

 開けるきっかけを失ったまま、1カ月近くそこにある。


 受け取った日のことは覚えている。

 誰からもらったかも分かる。

 どんな顔で渡されたかも、思い出せる。


 でも、それ以上が続かない。


 私は立ち上がって、その箱を手に取った。


 軽い。


 中身の重さはあるはずなのに、

 手に持つと、妙に軽く感じる。


 裏の表示を眺める。


 賞味期限。

 原材料。

 保存方法。


 必要な情報は、全部そこに書いてある。


 それなのに、

 これが“誰かの気持ち”として読めるかというと、少し違った。


 もちろん、気持ちが無いわけじゃない。


 日頃の礼儀として。

 関係の延長として。

 受け取った以上、何かを返すのが自然だという空気の中で。


 その意味は、理解できる。


 理解はできる。


 でも、それだけだった。


 返そうと思えば返せる。


 明日、駅ナカで何か買えばいい。

 高すぎず、軽すぎず、角の立たないものを選んで渡せばいい。


 それで問題は起きない。


 関係は続く。

 仕事も進む。

 少し気まずい思いをすることもない。


 私は、その流れを頭の中でなぞった。


 どこにも破綻はない。

 誰も困らない。

 正しいやり方に見える。


 テレビの画面が切り替わる。


 街頭インタビュー。

 誰かの笑顔。

 短いコメント。


《形式的なやり取りを好む傾向が――》


 音声は、すぐに別の話題へ移る。


 私は、その言葉だけを少し遅れて受け取った。


 形式的なやり取り。


 それは、悪いことではない。

 むしろ、楽だった。


 誤解が少ない。

 余計な期待も生まれない。

 必要な範囲で終われる。


 そういう関係のほうが、

 今の自分には扱いやすい。


 昔は、返すことで少しだけ未来が動く気がしていた。


 何かが始まるかもしれない、

 というほど大げさじゃなくても、

 返すこと自体に、わずかな重さがあった。


 今、その感覚はほとんど残っていない。


 未来が動く、というより、

 何も動かさないほうが自然に思える。


 私はチョコの箱を、また机の上に戻した。


 捨てるわけでもなく、

 開けるわけでもなく、

 返すわけでもない。


 ただ、そこに置いておく。


 保留、と呼ぶほど強い意思もない。

 放っておく、のほうが近い。


 スマホが震える。


 短い通知音。


 画面には、業務連絡のメッセージが1件だけ表示されていた。


 確認して、既読をつける。

 返事は後でいい。


 今日のままでも、明日は来る。


 チョコがそのままでも、

 仕事は続く。

 関係も、たぶん続く。


 壊れない。


 何も壊れない。


 それを確かめるみたいに、

 私はもう一度、机の上を見た。


 返さなかった。


 その事実は、そこにある。


 でも、それで何かが失われた感じはしない。


 何も壊れていないからだ。


 何も始まっていないだけで。


 その違いは、昔ならもう少し重かった気がする。


 今は、軽い。


 軽いまま、

 生活の端に置かれて、

 そのまま次の日へ持ち越される。


 私はソファに深く座り直した。


 ニュースの音が、同じ高さで流れ続けている。


 部屋の光も、白くて均一だった。


 返さなかったことで、何も壊れなかった。

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