図書館の内緒話
一限をサボったことをレドハイドにきつく叱られた放課後。公爵令嬢という立場から無罪放免となったオハイアリイになんとなく羨ましさを覚えつつ、ラナは図書館へと走る。図書館の中には既に生徒の姿があって、ラナは慌てて四階に駆け上がる。息を切らして人気のない歴史書のコーナーに姿を現したラナを見て、カウンターの向こうのコーニーリアスが立ち上がった。
「ラナさん、そんなに急がなくてもよかったというのに」
「こっ、こんにちは、ヴァロッカ先輩……すみません、遅くなりました」
ぜえはあと肩で息をするラナに心配そうな表情を見せる。その顔にも瞳にも怒りが滲んでいないことがわかり、ラナは肩の力を抜く。
「すみません、担任と話していたら遅れてしまいました」
「構いませんよ。今日は誰も来ていませんから」
コーニーリアスは椅子を引いてラナを促す。ラナは失礼しますとそこに座った。
「歴史書の区画は人が来るときと来ないときがありまして」
「来るときって?」
「主に歴史の課題が出ているときでしょうか。皆、課題のために本を借りに来るのですよ」
ああ、とラナは半笑いで答えた。コーニーリアスの手には歴史書であろう分厚い本が収まっている。
「人が来ない限りは本を読んでいて構いません」
これとか面白いですよと手渡されたのは美の女神リリメリアを主題としたロティヤ国史の本だった。一頁捲るとロティヤに伝わるリリメリアの遺言が記されている。
美とは何か問い続けることは
それ即ち美となるもの
自分を否定されているような気分にラナはその本を閉じる。それを見ていたコーニーリアスが顔を覗き込んできた。
「女神リリメリアは嫌いですか?」
「……嫌いというわけでは、ないです。ただ少し、目に入れたくないだけで」
「それを世間では嫌いというのでは?」
コーニーリアスの空気をくすぐる笑いがラナの燻る心をわずかに鎮めた。背もたれに身を預けると木組みが軋む音がする。
「わかりますよ。私も女神リリメリアの伝説はあまり好きではない」
コーニーリアスの思いがけない返答にラナは弾かれたようにそちらを見た。
「意外ですか?」
「ええと……その。そう仰る方は珍しいのでつい」
コーニーリアスは喉の奥で笑った。くつくつという音が聞こえる。
「そうですね。私も自分が可笑しいことは自覚しています」
「おっ、可笑しいなんてことは!」
私だって女神リリメリアを好きにはなれませんから。そんな本音がするりと喉から出た。それにさえ驚いていると、コーニーリアスはまた笑う。
「あはは、私たちはよく似ていますね」
その毒気を抜かれる微笑みにラナも思わず笑ってしまう。そして大きく声を出してしまったことにハッとした。歴史書の区画には人がいなかった。
「女神リリメリアは美を最上としていますが、私はそうは思わない。美だけが最上ではないと。……この顔で言われても、説得力がありませんが」
「ヴァロッカ、先輩」
自分を否定されなかっただけでなく、心までさらけ出してくれた。その喜びに頬が熱くなる。思えば男性と接近したのはこれが始めてで、改めて距離の近さを自覚した。
(近いなぁ……)
でも不思議と嫌悪感はない。寧ろ嬉しさのような感情が湧いてくる。コーニーリアスはラナから離れ、歴史書を積まれた本の上に置いた。
「昔からこの顔には苦労しました。人から好かれ、最上級の立場を与えられることは多かったけれども自由がない」
「自由?」
美醜による差別はロティヤでは日常茶飯事。それが嫌で嫌でたまらないからラナは耳を塞いでいた。コーニーリアスのような美しい人も、この国が嫌になるのだろうか。美しければ正しいロティヤが。
「騎士になりたいと思うんです」
「騎士様に?」
ラナは目を瞬かせた。脳裏に騎士の姿をしたコーニーリアスが思い浮かぶ。ロティヤの国章を背負った鎧の後ろ姿。剣を抜き、敵に勇ましく斬りかかる姿は容易に想像できた。
「とても……素敵です」
柄にもなくうっとりしてしまった。コーニーリアスは眼鏡の向こうでわかりやすく瞳に喜色を浮かべる。
「そう言ってくれますか」
「はい。素敵です」
今度ははっきりそう言えた。コーニーリアスはラナの手を取り、その指先を軽く撫でる。
「やはり、貴方は素敵な女性だ」
頬がカッと熱くなった。初めての褒め言葉にラナは狼狽える。頭上から降ってくる視線がこそばゆい。
「……か、からかわないでください」
かろうじて振り絞ったそれに威厳も嫌がる素振りもなかっただろう。コーニーリアスは朗らかな愉悦を顔に浮かべた。
「騎士になりたいという私の考えを父や母は否定しています。私を手放したくないんでしょう」
コーニーリアスの顔が曇る。ラナはなんと声をかけてよいかわからなかった。
「……私は、貴族のことはあまりよく知りませんけど。ヴァロッカ先輩の後悔しない道であればよいと思います」
当たり障りのない言葉を真綿にくるんで投げかける。コーヒーリアスは眉を少し下げてから、元の穏やかな表情に戻した。
「……ところで、ヴァロッカ先輩。トーマス・クライドフォビンという名をご存じですか」
コーニーリアスの柔和な雰囲気につられて、口をついてでてしまった。疑いたくないという心と相反した行動に、ラナはやるせなさを覚えた。
「トーマス・クライドフォビン。知っていますよ」
「えっ?」
反射的に上げた顔にランタンの明かりがかかる。深海の瞳が大きく視界に飛び込んできた。
「二ヶ月前のことですが、彼の落とし物を拾ったことがあります。そのお礼がしたいと部屋に招かれました」
なんてことない、少し非日常なだけの出来事。ラナは胸を撫でおろす。クリフトの緊張感あるいつもよりわずかに低い声が耳の中で反響した。
「彼が消える直前、コーニーリアス・ヴァロッカはトーマス・クライドフォビンを訪ねていた」
緩やかに解けた声が心の奥に沈んでいく。コーニーリアスの潜められた声が言葉を紡いでいった。
「なにか、彼に気になることでも?」
「あっ、いえ。その……この間、行方不明になったと聞いたので。少し気になったというか」
「そうでしたか。確かに一連の事件は学校に動揺を与えていますからね」
「ヴァロッカ先輩も、知っているんですか」
あれほど大々的な騒ぎになりましたから。そんな返答が返ってくる。コーニーリアスの瞳を覗けば憂いの色を帯びていた。その顔全体に翳りが生まれる。
「騒ぎって?」
「二人目の行方不明者が出たと知らされた時、学校で不審な事件が相次いだんです。確かカンナといった生徒だったような気が」
カンナ・テイルズの似顔絵が思い起こされる。はっきりとした目鼻立ちの気の強そうな女性だった。
「カンナ・テイルズ様のことですね」
「おや、名前を? お知り合いですか」
「……とても昔のことになりますが、テイルズ様とお会いしたことがあります」
これは勿論真っ赤な嘘だ。クリフトから調査のことは秘密にしておくようにと言い含められたのを忘れるラナではない。
「春休暇の最中、平民街の喫茶が火事になったのをご存じですか?」
「春休暇……というと、三週間ほど前?」
独り言とともに手を口にやり考え込む。ここ最近は平民街へ全く訪れていない。大学校への入学が決まってからはなおさらだ。
「……あ、赤い樹の実」
「樹の実?」
「店名なんです。確か、火事になったと」
母親が心配ねぇと零していたのを思い出した。赤い樹の実の喫茶店はラナも幼い頃通っていたことがある。
「ラナさんは平民街にお詳しいのですか?」
「ええ、まあ。幼い頃から平民街にはよく出ていましたから」
「そうなのですね……」
コーニーリアスの探るような視線がラナをじっと見つめた。なにか用かと見つめ返すと、コーニーリアスは顔を綻ばせた。
「では、今度の休日。平民街を案内していただけませんかね?」




