明日部屋を出れば
「紗耶香はちゃんと覚えてる癖に、わざと同じことを繰り返しているだろ?」
圭に言われて、私は、はあ?と眉間に皺を寄せた。
何度も注意されているのに、壊れかけたお風呂の窓を開けたままにしてしまった私に、圭は苛立ちを飲み込んだ顔で言った。
「なんでそんな嫌がらせみたいなことするの、私が」
「そうやって俺を試してる。どこまでやれば怒るのか」
圭は言いながら、バスタオルを洗濯かごに放り込むと、ソファに座った。
「ねぇ、ここまで付き合ってきて、まだ私がそんな嫌なことする女って本気で思ってるの?」
私は圭がお風呂から戻った時に冷蔵庫から出した缶ビールを、圭の前のテーブルに置いた。
「違うのか?だったら、はっきり否定しろ」
圭はぶっきらぼうに言って、ありがとうも言わずに缶ビールを取って、プシュとフタを開けた。
「違います。で、今私は圭に少し苛ついてるんだけど」
「遠回しに言わずに、何なのかさっさっと言え」
苛つきを隠さずに圭は言い、ビールを喉に流し込んだ。
「何かしてもらった時は、ありがとうの一言がいると思うんですけど」
私はビールを指差しながら、言った。
圭は眉間に皺を寄せたが、ビールをテーブルに置くと、頭を右手で掻いてから、ありがとう、と素っ気なく言った。そして続けて、母親か俺の、とボソリと呟いた。
私はカチンと来て、怒りを顔に出した。
「私が何かしてあげることを、当たり前みたいに思わないでよ!」
「たかがビールを出したくらいで、恩着せがましく言うな!」
「たかがって、一緒に住み始めた頃からお風呂あがりにソファに座って、私にビールって頼みだしたのはそっちでしょ!?私は、毎度言われるから、仕方なく妥協して、圭にビールを出してあげてるんです」
「嫌なら嫌って言えば済むだろ。ろくに自分の意志も言えずに人のせいにするな」
「だったら亭主関白なその態度改めてもらえませんか?こちとらか弱い女ですから、どうしても言われたことには従ってしまうんですけど」
「亭主関白ってなんだ?自分の意志を伝えることが、そうなるのか」
「態度。私に対して偉そうな」
「俺は誰にでもこうだ」
「出会った時は違いました」
「初対面の人間に礼儀正しくするのは普通のことだ」
「一般的には関係が続く間は、相手に対してずっと礼儀正しくします」
「聞いたことないな、そんな一般論」
「亭主関白な方は、非常識な人が多いですから」
「偏見だろ、それは」
「さて、どうでしょうね」
皮肉るように私は言い、圭から視線を外して壁にかけてあるカレンダーを見た。
「出会った頃は違ったとか、当たり前の話だ。最初は良い顔するもんだろ」
「そうね。それに騙された。私が地下鉄の椅子に忘れたスマホ、わざわざ次の駅から引き返して持ってきてくれたもんね」
「あれはすぐに気づけなかった自分に苛ついただけだ。優しさでしたわけじゃない」
「人の幸せの想い出まで壊すのやめてくれない?」
カレンダーの6月13日は、ハートで囲っている。
その日に、私と圭は出会った。イヤホンの音が途切れて、スマホを鞄の中を探したけれど見つからず、車内に忘れたと気づいた時にはもう遅かった。
改札の駅員に話して、状況を待っている時に圭がひとつ先の駅から引き返してきて、私の肩を叩いて、スマホを差し出した。
すいません、前に座ってたんですけど、気づくのが遅れて。
圭はそう言って、無愛想に立ち去ろうとした。
私は慌てて引き止めて、お礼にカフェでコーヒーでもと言うと、圭は意外そうな顔をして、じゃあお言葉に甘えて、と2人地下鉄を出てすぐのカフェに向かった。
そうだ、と私は思い返した。あの時圭は、私への親切心ではなく、自分の鈍さを責めていた。それを優しさと私は履き違えたのだ。
「あの時さ、私がカフェに誘った時、意外そうな顔したよね?」
「ああ。無愛想なわりには、礼儀をわきまえてるなと思ったな」
「無愛想?」
「無愛想な顔してるだろ、いつも。今も」
「ちょっとそれ、酷くない?」
「見たままを言ってる。紗耶香を見て愛嬌があると思う男はいないだろう」
「何の可愛いげもない?私には?」
「ないな」
「じゃあなんで、あの後連絡先聞いてきたの?」
「話して、しっかりした女だからと思ったからだ。あの時俺の周りには、馬鹿な女しかいなかった」
「従順な古き良き妻になってくれるとでも思ったんだ」
私はまた皮肉に言った。
「紗耶香の方こそ、なんで俺に連絡先を教えた?」
「なんとなく。優しいと思ったから」
「見込み違いだったな」
「そうだね」
「どうする?」
「何が?」
私は6月13日のハートマークをぼんやり見ていた。私の恋のはじまり。いつかいつかと求めていた出会い。
「別れるか?」
圭の一言に、私は心では頷いていた。圭は理想とはまったく違った。付き合うと粗野な態度で、亭主関白で、私には従順な女であることを求めていた。
私は従順になどできるタイプの女じゃない。でも好きだったから、圭に合わせるようにしていた。いつの間にかそうやって、自分を押し殺していっていた。
好きだったから。いや、あの出会いを私は失いたくなかっただけだ。あの瞬間に、この人だと、ときめいた自分が愛しかったのだ。
その自分で、ずっといたかった。
運命を信じていたかった。
「私が好きだったのは、あの日のカフェの圭だった」
「それは俺じゃないな。よそゆきの顔の俺だ」
「わかってるよ。私は運命とか、そういうのを信じたかっただけだから」
私は涙をこらえて、鼻を啜った。
「女の夢ってやつか。まぁ、現実はこんなもんだ。そういうことは、わかってる女だと思ってたよ、紗耶香は」
「言わないでよ、そんなこと。それなら、圭だって私に理想を見てたんじゃない」
「そうだな。俺はでも、そうとわかってもショックは受けない。それが現実だと思うだけだ。だったら、やめればいい。理想を見ることを」
「そんな簡単にわりきれない」
「それは紗耶香の問題だから、俺にはどうにもできない。それで?別れるのか?」
私はカレンダーのハートマークを指でなぞった。
別れる。と消えそうな声で答えた。
圭はそうか、と言って、実家に戻るなり新しい部屋を見つけるまでは、ここに居ていいと言ってくれた。
そんな優しさ、最後にくれるなよ、と私は思いながら、蹲って泣いた。
翌週には、私は荷物をまとめて実家に送り、圭の下から離れようとしていた。
圭とは別れ話以降会話らしい会話はしなかった。
前にも一度こうして、私が出て行こうとした時がある。
圭の亭主関白の態度に耐えられなくて、身近な荷物だけまとめて、部屋を飛び出した。
でも何故か夜行バスのバス停に、圭がやってきて、私の手を引き、帰るぞ、と一言言って私を連れ戻した。
私を失いたくないのだと、私は思って、それが愛しくて嬉しくなったのを覚えている。
本当は私を愛しているのだと思った。
そういうことがあったから、何とか圭を好きでいられた。
でも、その後も態度は相変わらずで、やはり私の心は疲弊していた。
自分を大切に扱ってくれない相手とは、いつまでも一緒にはいれない。
「俺は紗耶香を傷付けたつもりも、何かしたつもりもない。だから、謝ることはない」
実家に帰る前日の夜、圭はそう言いながら、風呂あがりに自分で冷蔵庫からビールを取り出した。
それを一緒にいる時にやってよ。些細なことだけど、大事なんだよ。私は心で思って口にしなかった。
圭は私がそれをしたくない女性とわかって、そうでないなら一緒にはいれないのだ。
私を想って変わることはできない人だった。
何でも、ビールだけではなくて、自分の思った通りにしてくれる女性を圭は求めていた。
私はその理想に見合わず、私の理想も圭ではなかった。
ただ、それだけのことだった。
「明日はこなくていいからね」
私はそう言って、ベッドに向かった。
「あの時とは違うから、それはない」
圭は言い、プシュッとビールを開けた。
「どう違うの?」
「失いたくなかったから、あの時は」
「私を?」
「俺にだって、愛はあった」
無愛想に圭は言って、ソファに向かった。
私はまたやり直せるのではないかと、一瞬夢を見て、すぐに我に返った。
そうやって、誤魔化して自分を失うのは、もう嫌だ。
私はベッドに潜り込み、瞳を閉じた。
ああ、これでもう終わる。何か重い荷物をおろしたような安堵感に包まれた。
明日この部屋を出れば、私は自分に帰れる。