柳の目
享楽の時間が終わり肩に着物を羽織ると、女はそれを手伝うでも無く、すがるように袖口を掴む。
「おっ母の具合はどうでしょうか?」
「おう、蘭学の先生が言うには、薬さえ飲みゃあなんとかなるって話だ。だがまぁ、海の向こうのお高い薬だからなぁ」
「お金なら、ここであたしがなんとかします! だからどうか……!」
「分かってらぁな。金は俺がちゃあんと届けてやるから、お前さんはおっ母さんのために、ここでしっかり働くんだぜ」
薬代の銭袋をじゃらりと鳴らし、鼻唄混じりに遊郭を出る。
女衒の仕事をするようになって随分になるが、あれほど扱い易い女は居ない。
「おっ母のためにあんなに身を粉にして働いて、そのおっ母が、とっくにおっ死んじまってるたぁ思うめぇ」
そして俺は銭の袋を百薬の長に変えて、あの女の様を肴に笑う。
すると、しゅるり、と袖口になにかが絡む。見ると、掘りの側に立つ柳の木から、細い枝垂れが袖に伸びていた。
力任せに引き千切ると、今度はもう片方の袖に枝垂れ。
「なんでぇ」
千切れど千切れど、柳は手に手に絡み付く。
「な、なんだってんだ!」
酒瓶をごとりと取り落とし、懐から短刀を取り出す。
ざくりざくりと枝葉を切り落とし、すると今度は落ちた枝葉が足下からすがり付く。
「信じてなんて、いなかった」
その声は、柳の向こうから聞こえた。
「おっ母さんは駄目だってわかってた。あたしは馬鹿だってわかってた」
「てめぇっ!」
柳の向こうから睨め上げる女の瞳。それはついさっきのあの女の目だ。
「信じてなんて、いなかったよ」
柳の陰の暗い瞳。それがぽぅ、と二つ、向こうに灯る。
違う。
「あたいは信じてたよ、信じてたんだよぉ……」
三つ、四つ。
「憎い憎い憎い憎い……っ!」
五つ、六つ。
「お前のせいだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
七つ、八つ。
柳の陰から爛々と、俺を見つめる無数の暗い瞳。
「てめぇ、てめえらぁっ!?」
それはどこかで見た瞳だ。俺が苦界に落とした女達の、暗い暗い瞳だ。
柳の枝葉が手足に絡む。女達の瞳がそれを見ている。身体を這い回る柳は冷たい女の指のように、肌の内側に突き刺さるよう。
「ああああああああっ!」
短刀を振り回し、それがなんにもならず、女達の目から逃れるように後ずさると、
ぐらりと身体が揺れてどぼんと掘りに落ちる。足掻く手足は枝垂れに絡められ、水面は枝葉に蓋をされ、口と鼻に柳が押し寄せてくる。
「あががががががががっ!?」
もうなにもわからない。もうなにも出来ない。ただ女達の暗い瞳だけが、俺を見ていた。
「あぁあぁ、こいつぁひでぇや」
なんでぇ、どちらさんもお揃いで。
「外傷も無いようだし、こいつは事故だな」
おいおい、八丁堀の旦那、どこに目を付けてんだ?
「酒瓶に草履の足跡がありやした。遊郭帰りに引っかけて、酔って転んでお堀にどぼん、ですかね」
「まあ、こいつの職業柄怨みの線も無いとは言えんが……それにしたって、このやり口は手間だろう」
「身体中の穴って穴に葉っぱがびっしり、ですからね」
「夜中とは言え、人目に付かずこんな真似は出来ん」
あぁ、この木偶の坊共が。俺がどんな目に遭ったか、見ていた奴なら居やがるだろうが。
ほら、柳の向こうに目が、目が、目が。
「女衒」とは人買いみたいな奴の事。「八丁堀の旦那」はいわゆる同心、与力の事で、八丁堀に同心達が住む屋敷があったから俗に八丁堀と呼ばれたそうな。