公共生活基盤
タニアが風邪を引いた。
朝ベッドから起きてこないのを不思議に思ったのだが、まさか風邪だとは思わなかった。
寝室でタニアが横になっている。
顔を赤くしてふうふうと荒い息を吐き、ぐったりとうなだれるタニアの姿は痛々しい。
エイジはタニアの汗で張り付いた前髪を掻き分けると、皺のない広く美しい額が目に入った。
ケホケホという渇いた咳が痛々しい。
井戸から汲んだばかりの冷たい水に濡らしたタオルを乗せると、苦しそうな表情が少し和らいだ。
閉じられていた目蓋が開き、ぼんやりと目が合う。
「ごめんなさい、エイジさん……」
「謝らないで。毎日子守で大変だったでしょうから、疲れが溜まったんでしょう」
この時代、風邪は恐ろしい病だ。
栄養状態があまり良くないから重態化しやすい。
医療のレベルが低く、熱を冷ます薬もなかなか手に入らない。
たかが風邪で死ぬ人が多かった。
タニアは栄養状態も改善して、年齢も若くある程度の安心感がある。
問題は息子のリベルトをどうするべきかだ。
今は鎧戸を開いて、換気を行っているが、できるだけタニアと接触させないほうが良いだろう。
となると、子守をどうするかだ。
以前タニアの母乳が出ないときには、ヤギのミルクを飲ませた。
感染症対策を考えると、できるだけ母乳やミルクを与えるのが良さそうだが。
エイジは少し悩んだが、その悩みをぽいっと捨て去った。
「まあ、一人で考えても仕方がないか」
「……ジェーンさんに言ってもらえれば、なんとかしてくれるはずです」
「分かりました。村の女衆の力を借りてみます」
普段はタニアが子育てのほとんどをしている。
シエナ村で暮らしていて分かったのは、この村で夫婦が育児に参加するのは現実的ではないということだ。
そもそも男が積極的に育児に参加するという余地が少ない。
エイジは朝起きればすぐに畑の世話をして、いくつかの収穫を得る。
その間にタニアが朝食を作る。
食事後は職人として汗水を流して働き、日が暮れるころに帰って、夕食。
風呂に入って夜が更ければ体を重ねあわせるか、さもなくばすぐに寝る日々。
役割分担をしないと、稼ぎが確保できない時代だった。
こればかりは技術が進歩するか、それこそローマ時代のように奴隷や小間使いを雇うぐらいしか方法がない。
女性同士は集まったり、持ち合いで家事や育児を分担する会合を持っている。
あるいは、ピエトロやカタリーナたちの内弟子に家のことを任せるという方法もあった。
「だけどまあ、まずは奥さんの指示に従っておくべきかな」
エイジは一人、リベルトを背中に抱えて呟いた。
女性には女性のやり方があり、社会がある。
エイジが勝手に行動した結果、迷惑がかからないとも限らない。
子守を任せている以上、その意思を尊重することは当然だった。
ジェーンは今日は井戸の近くにいた。
村の女性たちと洗濯をしているようだった。
井戸のポンプも、洗濯用の石鹸も、エイジが開発したものだ。
それがこうやって生活の一部として定着しているのを見るのは、人の役に立てているのだな、と分かって少し気持ちが浮き立つ。
水道水の蛇口を捻れば出るような時代と違い、水汲みも生活を送る上で欠かせない仕事だ。
女性たちは額に汗を噴かせながら、井戸周りの水を溜める場所に腰を屈め、力を込めて服をバシャバシャと擦っていた。
エイジが近づくと、一番に気付いて立ち上がったのはジェーンだった。
まとめ役をしていることもあってか、このあたりの動きの速さ、気配りはさすがの一言だ。
先日の慌てぶりが嘘の様な姿に、困っているのも忘れ、しばしエイジは笑みを浮かべた。
「エイジがここに来るなんて珍しいこともあったね。何かトラブルかい?」
「ええ。実はタニアが体調を崩しまして……」
「なるほどね。そりゃ大変だ」
熱があることを伝えると、ジェーンの対応は迅速だった。
施薬院に使い走りを頼んで、薬師を呼んでもらい、リベルトの世話も申し出てくれた。
幸いなことに、シエナ村は農耕器具の発達で、近年類を見ないほどに豊作に恵まれたこともあって、恐ろしいほどのベビーブームが発生している。
つまり子育てする母親が多く、体調を崩した母親の代わりに面倒を見るというシステムが出来上がっていた。
飢えで子を死なす恐れがないというのは大きいらしい。
「あんたはアタシたちに任せて、どんどん仕事を頑張ってくれればいいんだよ」
「ご迷惑をおかけします」
「なあに、持ちつ持たれつさ。アタシたちが困った時に返してちょうだいな」
「分かりました。そのときはぜひ」
ジェーンの対応の頼もしいこと。
道理でタニアさんが相談しろと言ったわけだ。
内弟子たちに手伝いを頼むことはできても、同じだけの助力を得られるとは限らない。
不慣れなことを頼んで、仕事に支障をきたしてしまうことも問題だった。
あとは薬師が到着し、
「ところで洗濯が手洗いとは、大変そうですね」
「まったくだよ。水は冷たいし、乱暴に扱うとすぐに破れちまうしね。それでもまあ、前みたいに水汲みが大変じゃないだけマシだけどさ。あんた何か良い方法知らないのかい?」
「ないわけじゃないですが……」
「あるんならケチケチせずにじゃんじゃんだしな!」
「そうですね。ちょっと検討してみます」
エイジが第一に考えたのは、洗濯板だ。
洗濯板の構造はものすごくシンプルながら、開発されたのは大正時代まで待たなくてはならない。
なぜこんなことが誰にも思いつけないのか、というような発明品は珍しくない。
現代人ならば誰もが使っているボタンも、長らく時を要したものの一つだ。
ボタンについては、エイジがすでにタニアに綺麗な服を着せたいという願望から、ブラの開発と似たような経緯ですでに普及を始めていた。
洗濯板も決して労力的には難しい話ではなく、これはただただタニア任せにしていたがために気がつかなかった。
「ずいぶん考えてるけど、難しい問題なのかい?」
「そうでもあるし、そんなことはないとも言えるし……」
「なんだいハッキリしないね」
「作り手の問題なんですよ」
問題は誰がそれを作るかということだ。
シエナ村が誇る大工のフェルナンドは、度々のエイジのお願いに、キャパが限界を突破して久しい。
ブラック企業もまだまだ白いな、と言わんばかりの真っ黒すぎる塗料も負けない過剰労働に陥っている。
新しく依頼しようものなら本気で怒り、金槌が飛んできかねないだろう。
かといって別の村に製法を伝えるのは、村の儲けを手放すことになる。
著作権など欠片もない時代だ。
模倣が安易なアイデア商品だけに、最初に普及させるのはシエナ村が担い、盤石の生産体制を持てるようにした方が良かった。
そんなことを考えると、村の不満点、改良点が次々と思い浮かんでくる。
シエナ村では当たり前のことも、未来の技術を知るエイジだからこそ、採るべき道が分かる。
だが、それを実現するには、あまりにも手が足りない。
農耕器具を充実させ、水力を活用できるようにした。
部分部分では確実に効率が上がり、人の手にささいな自由が時間を生みだしている。
だが、結局は一足跳びに発展できるのではなく、一つずつ、一つずつ段階を踏んで進んでいくしかないのだ。
「作れる人間がいないねえ……。単純な道具なのにそんなに難しいのかい?」
「安定した切り込みを入れるとなると、単純だからこそ髙い技術が必要になります」
「別に適当に線を掘っちゃダメなのかい?」
「そういうわけじゃありませんが、やっぱり使い心地には影響すると思いますよ。それに最適な作り方もまだ分かりませんが」
「それは今の手洗いよりも問題があるのかい?」
「問題……ないですね。少なくとも多少はマシになるでしょう」
ジェーンの何気ない言葉に、エイジはうろたえた。
たしかに、今の生活を便利にすることが目的ならば、中途半端であろうと、まず作ってしまった方が良いかもしれない。
「じゃあ、ひとまず手先が器用な男手を頼んだらいいんだよ。言いにくいなら村の会合で話題に出したげるからさ」
「その発想はありませんでした。ぜひお願いします。……頭が固いなあ。ジェーンさん、頭いいですね」
「そうだろうそうだろう。アタシに任せな。アッハッハ!」
気を良くしたジェーンが大声で笑う。
洗濯場に集った女性陣がクスクスゲラゲラと笑うが、気にした様子もない。
よく考えてみれば、家を建てるときなどの大型建築を行う時には、フェルナンドたち専属大工だけでなく、村の男手が何人も協力するのが当たり前なのだ。
大工道具に手慣れていて、手先が器用な男は少なくない。
「近いうちに議題に挙げるよ」
「その時までには試作品を作っておきますよ」
「うん。ほら、薬師の婆さんが来たみたいだから、早く帰ってやりな」
「リベルトをよろしくお願いします」
まずは完成品でなくても良いから手を動かしてみる。
その重要性に気付かされる朝だった。