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2話(後編)

 庖丁の良し悪しについて説明した。

 そして、実際に使うであろう包丁の種類についても伝えた。

 ジェーンは乗り気になっているが、同時に価格の高さが問題になっている。


 道具というのは高い。

 物の溢れた現代日本でも、職人が扱う最高峰の道具となれば十万円を超えることもざらにある。

 青銅器が主流だったこの時代なら、その価値の高さは隔絶しているだろう。

 さて、これをどう解決しようか。


 今回に限って言えば、エイジは値引きをするつもりは一切なかった。

 初回にはかなり優遇しているので、常態化するのは今後の相場を下げてしまうことに繋がりかねない。


 鍛冶というのは、原価がかなりかかる職業だ。

 炭代や鉄代で困窮し、まともに仕事のできなかった鍛冶師の話は枚挙に暇がない。

 それは経済の問題というより、お人好しで損得勘定のできない鍛冶師側の問題も大きかっただろうが……。


 もともと庖丁でも優れたものは、一度手に入れれば手入れさえしっかりしていれば十年二十年と使うことができる。

 購入したときには高価に感じても、日割り計算すると案外と安上がりなのだ。

 普段遣いしない道具ならばともかく、庖丁や仕事道具のような、毎日使うものは高くとも良いものを使ったほうが良い。

 仕事の出来栄えを左右するし、労力の多寡が決まるので、健康やライフワークにも直結してくる。


 だからこそ、エイジは今回しっかりと高値をつけるつもりだった。


「うぅーん。たしかに良いのは分かるけど、でも蓄えがねぇ……」

「相当の皮革製品でも良いですよ? マイクさんとジェーンさんが作る皮革の品は高品質ですからね」

「ああ、そうだよね。肉ばっかり一気に渡してもタニアちゃんが処理に困るだろうし」


 ジェーンの視線はずっと庖丁に向いて逸れない。

 非常に強く求めて、欲しくて仕方がないのが分かった。

 道具の価値が分かっていないというよりは、これまでそんなに高い物を手に入れたことがないから、怖気づいて踏ん切りがつかないのだろう。

 優しく背中を押してあげるのも、上手な職人の仕事だ。


「そんなに悩むなら、一度使ってみますか?」

「い、良いのかい?」

「ええ。目の前の品だけ見ていても、実際に使い心地がどうか分からないと、判断も付きにくいでしょうし」


 エイジは優しい声で、ジェーンにそう言った。

 親切心でもあるが、悪魔の囁きのように甘い罠でもあった。

 専用の道具も使わずにこれまで多大な労力をかけてきた仕事が、自分に合った道具でできるようになるのだ。

 きっと堪えられるものではない。



 ○



 マイクとジェーンの家には獲物を処理するための作業場がある。

 床は石造りで、排水設備が良く整っているのは、血抜き処理の関係だろうか。

 長年の集積で少しばかり不快な獣臭が漂っていた。


 木造のその家屋は天井がむき出しになっていて、とても開放的に見える。

 梁には縄でくくられたフックがいくつも垂れ下がり、獲物の皮だったり、肉だったりが吊られていた。

 部屋の一画いっかくは大きな木製のテーブルが置かれていて、そこで肉が解体されるようだった。


 ちなみに、皮革を作るための部屋が別に設けられていて、そこにはタンニン液を抽出するために、とても青臭い、植物の臭いがプンプンと漂ってくる部屋になっていた。


 エイジはこの部屋に来たのは初めてのことだ。

 臭いがキツく、あまり人様に見せたい場所ではないだろう。

 普段は剛毅な女傑といったジェーンが、少しばかり恥ずかしそうにしていた。


 テーブルの上に、エイジが庖丁を並べた。

 片隅には青銅製のすり減ったナイフが幾種類か置かれていたことに気付く。


 燭台には切られた蝋燭が刺さっていて、エイジの目を引いた。

 意外と言っては失礼だが、ジェーンとマイクはかなり裕福だ。


 青銅器の家具がある家はそれほど多くない。

 動産目録の資料などを読めば分かるが、青銅製の家具は一つ一つに至るまでが遺産として大切に登録される。

 青銅は金や銀には及ばないまでも、光沢金属として価値が高かった。


 猟師はそれほど儲からない職業だと思っていたが、皮革を扱う職人でもあり、夫婦ともに村の中心的人物ということも大いに影響しているのだろう。

 ちなみにエイジたちの家にはこのような立派な燭台はない。

 夜になるとすぐに寝てしまう生活が続いていた。


「ずいぶんと立派な燭台ですね」

「え、そうかい?」

「これほど装飾がされたものは、村でもボーナさんぐらいしか持ってないのでは?」

「たしかに、そうかもしれないねえ」


 ジェーンが明らかに嬉しそうな反応を示した。

 現代日本とこの村に住む人たちでは、物に対する価値観はかなり変わる。

 高級車や億ションを褒められたような感覚に、あるいは近いのかもしれない。

 ジェーンが燭台を触りながら、由来について話し始めた。


「それは今から五年ぐらい前に、村の功労者として褒美をもらったんだ。当時はまだ戦後のごたつきが残ってたから、まとめるのが大変でね。ボーナ村長がさ、世話になったねって」

「とても手の込んだものですから、よほど活躍されたんですね」

「いやあ、そんな大したもんじゃないよ!」

「ゲフッ!!」


 バシバシと強烈に背中を叩かれて、エイジは痛みに体を悶えさせた。

 しかし綺麗な金属光沢だ。

 青銅は名前こそ青とついているが、その実態は錫の含有量で色味がかなり異なる。

 錫の量が少ない青銅の代表は十円玉硬貨だ。

 もう少し増えれば黄金色に、そしてさらに錫が増えれば白銀色に近くなる。


 細やかな文様まで入っていて、ここの青銅鍛冶はかなりレベルが高い。

 いったいどんな職人が作ったんだろうな、と興味が湧いた。

 鉄が世界を牽引する主要な金属になってからも、青銅の価値が落ちたわけではない。

 それらは刃物などの硬度を求められない別の分野で、確実に存在し続けていた。


「さあ、良いものを見せてもらいましたし、そろそろお試しと行きましょうか」

「しかしねえ、大切な商品を本当に使ってしまって良いのかい?」

「別にジェーンさんのために誂えたものではないですからね。他の人が試しに使うのは問題ありませんよ」

「そうかい。まあエイジがそう言うなら使わせてもらおうかね」


 遠慮を示しつつ、ジェーンはウキウキと弾んだ声を上げて、庖丁を手に取った。


 ○


 新しい庖丁が欲しいとは言ったものの、いったいどれほど変わるのだろうか。

 ジェーンはこれまで使ってきた料理庖丁から、それなりに期待はしていた。

 並んだ庖丁を見て、さてどれから始めれば良いのかと、少し悩む。


「そ、それじゃあまずはどれから行こうかね?」

「解体の順番に使ってみてはどうです」

「それじゃあ皮剥庖丁からだね」


 皮剥庖丁は片刃の短い、丸みを帯びた庖丁で、見た目にはあまり怖さを感じない。

 しげしげと(かえ)(がえ)す眺めていられるのは、自分を傷つける怖さがないためだろう。

 皮剥庖丁は、片刃になっているため、自然と皮と身の隙間に刃先が入り込んでくれる。

 ジェーンがその性能の高さを実感するのに、わずかな時間もかからなかった。


「なんだいこれはっ!」

「どうですか?」

「どうだいって……どうだもこうだもないよ!」

「使いやすいでしょう?」


 ジェーンはブンブンと頭を振った。

 皮を剥ぐ際には、余計な脂や肉がつかないように、そのギリギリのところに刃を潜らせる必要がある。

 だが、動物の繊維というのはそう簡単に切れるものではない。

 庖丁を何度も上下させて、切るというよりは引っ掻くようにして分離させなければならなかった。

 だが、今ジェーンはほとんど余計な力を入れていない。

 刃がすっと滑ったかと思うと、皮がスラッと剥がれていくのだ。


 こいつぁスゴイよ……!

 分かっていればとっくに手に入れて、もっと早く仕事を終わらせていただろう。

 それに腱鞘炎や肩こりに悩まされることも減ったはずだ。

 どうしてもっと早く頼んでおかなかったんだい、アタシは!

 後悔先に立たずとは言ったものだ。


 肉切り庖丁も、骨スキ庖丁も、使えばすっと手に馴染み、解体がきわめて楽になった。

 見事に卸された


「あんたがわざわざ専用の庖丁を勧める理由がよおく分かったよ。これはたしかに高くても手に入れる価値がある」

「獲物をたくさん獲ってきてもらったときに、これだと心から喜んであげれると思うんです」

「ああ。そうだねえ」


 マイクが猟師として大猟なとき、喜びと同時に、わずかに煩わしく思う気持ちがあった。

 一頭の鹿を捌くとなれば、疲労しきるほどの重労働だからだ。

 だが、これなら……。


「前はもっと安くしてくれたじゃないか。なんとか安くならないのかい」

「あれは本当にサービスしたんですよ。身近な村の人が鉄の使い勝手を多少でも理解して貰うために」

「じゃあこれもおんなじようにだね」

「残念ですが、それはできかねます。他の人に正当な価格で売ってるのに、ジェーンさんだけ安く売ったら他の人も安くしないといけませんから」


 鉄製の道具の価値自体が下がってしまい、今後の他の鍛冶師が困るからダメだ。

 エイジは一歩も引く構えを見せなかった。


 欲しい。

 喉から手が出るほどに欲しい。

 だが、あまりにも高い。高すぎる。

 ガシガシと頭を掻き毟りながら、ジェーンは葛藤した。

 欲しい、ああ、欲しいよ! でも、高い。

 判断に揺れるジェーンの姿を見て、エイジは憎たらしいほどに冷静に、庖丁を締まってしまう。


「あっ、なにすんだい!」

「残念ですが、これは別の村の猟師の方に売ることにします」

「なんだって!?」


 もちろんそういう選択肢もあっただろう。

 だが、話をしていて、ジェーンの頭の中からはすっかりと消えていたのだ。

 これだけのものが次にいつ手に入るだろうか。

 このチャンスを我慢していたら、仕事をしているときにずっと煩悶しているだろう。

 ああ、でも高い。


「そりゃ売り物ですし……。うちの大切な交易品の一つですから。ジェーンさんはちょっと懐具合は寂しいようですし、また暖かくなったときにでも、声をかけてください」


 だというのに、エイジは本当に包丁を仕舞って、家から出ていこうとしてしまう。

 まだ覚悟も決まっていないのに、思わずジェーンは呼び止めた。

 呼び止めてしまった。


「んんん、待った!」

「……どうしましたか? 私も忙しいんですけど」

「いや、買うよ買うよ! うちが最初に手に入れる!」

「良いんですか? マイクさんに相談されてみても良いんですよ?」

「なに言ってんだい! この家の家財を握ってるのはアタシだよ! これはアタシが買うんだ!」


 大きく啖呵を切りながらも、マイクには申し訳ない、という気持ちでいっぱいだった。

 だが、どうしても欲しい。

 後で後悔したとしても、同じ後悔するなら手に入れて後悔したい!


「分かりました。そこまで言うのでしたら、ジェーンさんに売りましょう」

「そうしてくれるかい。悪いねえ」

「それに、手持ちが厳しいようなら、月月割にしていただいても大丈夫ですよ」

「本当かい!?」

「ええ。正当な対価とはいえ、一括で払えというのも酷でしょうし」

「恩に着るよ」


 同じ量を支払うとはいえ、割れば負担はかなり減る。

 ジェーンは礼を言いながら、庖丁を手に入れた。

 絶対に手放すものかと思った。



 後日、急いで庖丁を打ち続けるエイジのもとに、マイクが駆け込んできた。

 息を切らせて走ってきたのだろう。

 汗が吹き出て、大きく肩で呼吸をしていた。


「おい、エイジ、いるか!?」

「マイクさん、どうしましたか?」

「どうしたもこうしたもねえ、お前、ジェーンに包丁を売ったらしいな」

「ええ。何か問題は?」


 エイジはピエトロと顔を見合わせた。

 売りつけたとでも報告したのだろうか。

 もしそうだとしたら、まずいことになった。


 エイジとしては隣人としてそれなりに譲歩できる部分では譲ったのだ。

 これで文句を言われたら、堪ったものではない。

 エイジは自然、表情を険しくさせ、わずかに身構えた。


「エイジ、頼みがある!」

「な、なんですか?」


 だが、そんなエイジの予想に反して、マイクはその場で頭を下げたものだから、反応に戸惑った。

 一体これはどうしたことだろうか。

 慌てて頭を上げてもらうように言うと、マイクがとても情けない顔を浮かべていた。


「ジェーンのやつが仕事を張り切って、もっともっと早く獲物を狩ってこいってものすごくせっついて来るんだ! 頼む、俺に鏃と罠を売ってくれ。あと貸しにしてくれ!」

「ええ……」

「このとおりだ!」


 文句を言われるどころか、新たな注文が来るとは。


「貸しですって。エイジ親方、これどうするんですか?」

「どうするもこうするも、受けるしかないだろう。男が頭を下げて頼んでるんだから」

「……親方も結構甘いっすね」

「うるさい」


 意外な展開にエイジは唖然としながらも、その注文を受けることにした。

 これで断れば、マイクの面子は丸つぶれだろう。

 それにジェーンの張り切りようは、少しでも借りを返したいという気持ちがあるように思えた。

 となれば、知らず識らずのうちに焚き付けたのはエイジたちになる。

 あまりにもマイクが哀れだった。


 それから数年ほども、エイジたちの食卓にはいつもキジやイノシシ、牛など、多岐にわたる肉が並ぶようになった。

 食卓を大いに彩らせた結果となった。

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