1話
珍しいことに、鍛冶場にジェーンが来た。
エイジとジェーンの家の距離を考えれば、わざわざ鍛冶場に来ずとも会える時間はいくらでもある。
それがわざわざ来るというところに、一体どういう要件だろうか、と疑問が湧き上がった。
「庖丁ですか?」
「ああ、作っちゃもらえないかい?」
ジェーンの伺う表情に、エイジはさら疑問を覚えて首をかしげた。
ジェーンは狩人のマイクの妻で、女衆の中心的人物でもある。
これまでのそれなりに長くなった付き合いもあって、まず第一に庖丁や鍋といった生活雑貨については渡してきたはずだった。
そんなジェーンがなぜ庖丁を欲しがるのだろうか。
「そりゃ構いませんけど。以前お渡しした庖丁では物足りませんか?」
「普段使いにはとても助かってるよ。ただうちの旦那が調子よく獲物を狩れたときが大変でね」
「ああ。そういうことですか」
納得がいった。
エイジの作る庖丁は現代日本での高級庖丁と比べても遜色ない出来栄えだと自負している。
だが、それも十分な研ぎがされていてこそだ。
刃物は使えば切れ味が鈍る。
手持ちの庖丁では物足りなく感じる時もあるだろう。
特に家庭調理用の庖丁を渡していたから、なおさらかもしれない。
「となると、要望は肉切り庖丁ということで良いですか?」
「いや、それがアタシはそのあたりがよく分かんなくてさ。基本的な所から相談できたら助かるんだよ」
「大丈夫ですよ。作り置きを買ってもらうのもいいですが、要望を聞きながら造るのが私の仕事なので」
「そうかい、悪いねえ」
ジェーンは申し訳なさそうに頭を下げるが、エイジはこちらこそ、と下げ合う。
子供が生まれてからこちら、ジェーンには散々世話になっている。
本業でその借りが少しでも返せるなら、願ってもないことだった。
「それじゃあ、まずは良い庖丁とはどういうものか、から始めましょうか」
「よく切れたら良いんじゃないのかい?」
「それが一つ目ですね。切れ味が良いことは一番誰もが最初に挙げる条件です」
「アンタにもらった庖丁を最初に使った時には驚いたからねえ」
青銅製の庖丁を使っていた人が鋼鉄製の庖丁を使うと、大抵の人はその切れ味に驚く。
切れ味が鋭すぎて怖くなったという声を聞いたり、あるいは切るのが楽しくて、必要以上に食材を消費してしまったと愚痴半分、笑い話半分で聞くこともある。
これは金属の硬さに差によるものだ。
ブリネル硬さやビッカース硬さなどといった硬さの計測指標がある。
青銅と比べて、鋼鉄はおよそ二倍以上の数値を叩きだす。
それほどの差があった。
当然切れ味もそれに比例する。
「二つ目は、長切れすること」
「ながぎれ?」
「ええ。良い切れ味ができるだけ長く保てることですね」
「でも獲物を解体してると、最後の方にはかなり切れ味が悪くなるけど?」
ジェーンの質問にエイジは苦笑した。
肉は筋繊維の塊であり、しかも脂が切れ味を落としてしまう。
毎日の料理に使うぐらいならばともかく、大きな獲物の解体に使うとなれば、刃が切れ味を失っても仕方がない。
「それはまあ、切る量が量ですし……。一本の庖丁で解体を全部してしまうところにも、問題があるんですけどね。これはどちらかと言うと三つ目の問題です」
「まあ確かに研いだあとはすごく切れるから、切り過ぎもあるのかね」
「そういうことです」
対策としては同じ庖丁を用意しておくという方法がある。
切れ味が鈍ったら次の庖丁へと交換するのだ。
「その場で研いじゃダメなのかい?」
「切れ味は戻りますが、研いだばかりの刃物は鉄臭さが移りますからね。食料品を扱う場合には、お薦めしてません」
「ふぅん。しかし幾つも揃えるのはねえ……」
懐の相談をしてジェーンが情けない顔をした。
いつもの強気な女傑らしくない姿だ。
だが、欲しいと思っているのも真実なのだろう。
話の途中で考え直すようなことはなかった。
「三つ目は、使う人の体や、使う目的に上手くあっていること。今から並べる庖丁は、どれも肉の解体には向いている庖丁です」
エイジが棚から庖丁を取り出して、ジェーンの前に並べた。
まずは右の庖丁。
エイジの前腕ほどもの長さと、しっかりとした肉厚な庖丁は、牛や豚をまるごと解体するのに使えるもの。
筋引き庖丁と呼ばれる。
長いものだと刃渡り三〇センチもあり、これは大体手首から肘までの長さにあたる。
「これは大きいねえ!」
「ブロックごとに切り出したお肉を分割するときに使う庖丁ですね。庖丁自体の重みもあるので、力がない人でもズバっと切れますよ」
「へええ、重労働だから助かるね」
真ん中の庖丁は、片刃で長さはとても短い。
切れ刃と呼ばれる部分だけがかなり長い庖丁は、皮剥庖丁と呼ばれるものだ。
名の通り獲物の皮を剥ぎやすくなっている。
「これで皮を剥ぐのかい」
「そうです。微妙な凹凸に対応できるようになっている上、片刃ですからできるだけ無駄に脂肪がひっつかない上等な皮を取れます」
「ううん、これもあると便利そうだね」
「お肉だけじゃなくて皮革も結構な収入になるでしょうから、とても重要な道具ですね」
「欲しくなってきたよ!」
そして左に並んだ庖丁。
刃先がひと目で分かるほど鋭くなっているやや厚めの庖丁だ。
名を、骨スキ庖丁という。
刃先を上手に使って肋骨などの狭い場所から肉を削ぎ切ったり、関節部を切り落とすのに使う。
先端が尖っているせいで、一目見てかなり怖さがある庖丁だ。
「これは鉄の中でもかなり硬い仕上げにしていますので、靭帯とかの硬い部分もバズ! と切ることができます。厚みもありますから、骨も断ち切れますよ」
「はあああ。吊り下げたときに切り分けるのが本当に大変だからさあ。これは便利だろうねえ」
エイジが包丁の名前や用途を説明すると、ジェーンは深い溜息をついた。
心から感心している様子だ。
「しっかし庖丁って言っても、物によって全然形が違うんだねえ」
「職業専門の庖丁とかもありますから。今並べたのが、お肉の解体によく使うものですね」
「これ全部使った方が良いのかい?」
「なくてもお仕事はできているでしょう?」
「そりゃそうさ」
「ですから、必ず必要ってわけじゃあありません。ただ、用途に沿った道具を使うと、効率は良くなりますし、質のいい仕事ができるのはたしかですね」
エイジの説明を聞いて、ジェーンの目が欲望に煌めいた。
猟師の仕事は獲物を獲ることも大変だが、獲った獲物を処理するのも大変だろう。
楽をしたい。
いい仕事をして裕福になりたい。
そう願うのは人の本能だ。
できればこの欲望をくすぐってやりたいな、とエイジは思った。
○
鍛冶師としてエイジは道具を売る時には、その扱い方についても指導している。
良い道具は正しく使ってほしいからだ。
腕の悪い人ほど使っている道具のせいにしがちだ。
だが、同時にそれは良い使い方を知らないだけな場合も多い。
こちらは良い道具を作っているのだから、使い手の問題だと見放すこともできる。
だが、気持ちよく使ってもらってこそ職人の喜び、とも言える。
エイジは日本に残った数少ない野鍛冶の一人として、寄り添う職人でありたいと思った。
「ジェーンさんはマイクさんが狩ってきた獲物を処理するのに必要な庖丁が欲しいんですよね?」
「そうさ。あのボンクラは狩りの腕だけは良いからね」
「家の料理で使う庖丁は、以前お渡ししたもので大丈夫でしょう。お仕事で使うなら、今並べたものがお勧めになりますが、どうしますか? すでに造り終えたものを買っていただくのも良いですし、あらためてジェーンさんの寸法を測ってから、一番適した物を造るのも良いですし」
「拵えて貰ったほうが良いんだろう? さっき三つ目に条件として言ってたじゃないか」
「もちろんです。交易品として造ったものは、私が経験則で一番使いやすいだろう標準的な寸法で造っていますが、人の体は個人差が大きいですからね。ただ……」
「ただ、なんだい。言葉を濁さないでおくれよ」
「その対価がですね、どうしても高くはつきます」
「そうなのかい。まあ本来はとても高価な物だってのは聞いてるよ」
ジェーンは庖丁の値段を知らない。
これまでは近所付き合いの誼で、ほとんどただ同然で交換してきたからだ。
はたして相場を伝えたところ、ジェーンが目を見開いて驚いた。
「そ、そんなにするのかい!?」
「ええ。まあそういう反応になりますよね」
「し、鹿! ま、丸ごと二頭だって!?」
「まあそれ相当はいただかないと」
「ムリムリ! ムリだヨ!!」
そっと様子をうかがっていたピエトロがあちゃー、と顔を手で押さえている。
損得勘定のスイッチが入ったジェーンだ。
欲しいのはたしかだろうし、必要なのも間違いない。
だが拒絶は強い。
さあ、ここからどうやって交渉しようか。
真面目なエイジの表情に、にやっと稚気の滲む笑みが浮かんだ。
後半に続く。
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