私の狼くん
時刻は二十一時、「CLOSE」の札がかかったチェーン店のカフェ「ナカムラコーヒー」のドアの前で、アルバイト終わりの私はスマホを片手にきょろきょろと辺りを見渡す。
隣の学習塾から、授業が終わった学生たちがわらわらと出てきたが、待ち人の姿はなかった。
スマホに視線を落としてしばらくすると、タタタッと足音が近付いてきたので、てっきり待ち合わせ相手だと思った私は、満面の笑みを浮かべて顔を上げた。
しかし、
「うぃーっす! 涼子ちゃん、お疲れーい!」
「あ、長澤さん……お疲れさまです」
そこにいたのは、私が一週間前からアルバイトしているナカムラコーヒーの副店長、長澤さんだった。
顔はそれなりにかっこいい方なのだが、三十五歳にしては言動や服装がチャラチャラしていて、女の子に粘着質でボディータッチが多いらしい。働き始めた初日に、他のアルバイト仲間たちから忠告されるほどの要注意人物だ。
責任者である店長が三十歳と若く、長澤さんの方がこの店舗の職歴が長いからか偉そうで、どちらが店長なのかわからない。
今日は私がターゲットのようだ。本人はイケてると思っていそうなニヤケ顔で距離を詰められる。反射的に体を引いてしまった。
「もしかして、俺のこと待ってた?」
「いえ、違います」
「今日もお客さんたくさんで疲れたよね。パーっと飲みに行こうよ! 二十歳の大学生にお金なんて出させないからさー」
(混雑してるときでも、バックヤードで忙しくしてる店長の横で、急ぎでもない在庫の棚卸しながら一人おしゃべりに花を咲かせていたくせに、よく言うわ)
内心辟易した私は、持っていたスマホをササッと操作してワンピースのポケットにしまい、ツンとすました顔をした。こういうとき、普段はあまり好きではない、「黙っているとキツそうに見える」と言われる自分の顔に、感謝したくなる。
「いえ、ここで人と待ち合わせしてますから」
「ああ、営業中に来てたオオカミくんだっけ? 隣の学習塾に通ってる、涼子ちゃんの幼なじみの。彼さ、体はデカイし目付きは悪いし愛想もないよね。やっぱ俺みたいな大人の男じゃないとさー」
「あっ、やめてくださいっ」
「涼子ちゃんって、クールビューティーって感じで近付きがたい雰囲気あるけど、さっきの俺への笑顔とかかわいいねぇ。うわあ、髪もサラサラしてて手触り気持ちいー! ねーいいじゃん、飲みに行こ……」
バンッ!!
「りょーちゃん、お待たせ」
すぐ近くでベタベタと私の髪をさわっていた長澤さんと私の間に、ほどよく筋肉のついた左腕が勢いよく現れた。その腕の先にある、ガラスのドアにヒビが入っていないか心配なくらいの壁ドンだった。
驚いた衝撃で尻餅をつく長澤さんをよそに、私の髪や服を大きな手で優しくパタパタとはたいているのは、壁ドンの左腕の持ち主で、がたいのいい制服姿の男子高校生。
彼は大神 朗くん。隣の家に住む三歳年下の幼なじみだ。
私は声を弾ませる。
「朗くん!」
「先生と話していたら、遅くなっちゃった。じゃあ帰ろ」
「うん! 長澤さんお先に失礼しますね」
「ちょ、ちょっと待って……ひぃっ!!」
いまだに起き上がれずにいるセクハラ副店長は放置する。ついでに、ろーくんが殺気だった瞳で睨み付けた。
情けない悲鳴を背に、私はろーくんに右手を強く引っ張られ、半ば駆け足でその場を後にした。
家までの帰り道、ろーくんは黙り込んだままだった。
手は優しく握られ、歩調はゆっくりになったが、彼がまとう空気はすこぶる重い。
「ろーくん、怒ってる?」
「……怒ってる」
「ごめんね。私がもっと危機感を持っていれば……」
「りょーちゃんは悪くない。りょーちゃんを守れなかった俺自身と、りょーちゃんにベタベタ触れやがったあのおっさんに、怒りがおさまらないだけ」
ろーくんはそう呟いて、立ち止まった。そして振り返ると、私の両手をそっと握りしめ、瞳を伏せた。
「あの、自分から決めておいた、俺が大学生になるまではって約束、破ってしまうんだけど……」
「え?」
「りょーちゃんのこと、抱き締めたい。あのおっさんが触れたり、息がかかったところ、全部俺の手で上書きしたい」
口下手な彼のすがるような視線は、先程セクハラ副店長を睨み付けていた野生の狼のような強い瞳とは打って変わって、まるで子犬のようにいじらしい。思わず胸が高鳴り、こくりと頷いた。
人目につかない薄暗い路地裏に移動すると、ろーくんは私を自分の腕の中にギュッと閉じ込めた。あまりにも強すぎる力に、思わず声が漏れる。
「んっ……ろーくん、苦しい」
「ご、ごめん。久しぶりで、加減ができなかった……はあ、りょーちゃんの匂い、すごく落ち着く」
「ふふっ、アルバイトの後だから恥ずかしいな」
「あのおっさん、りょーちゃんにあんなに近付いて、きれいな髪を触りやがって……あいつの記憶と感触、全て消し去ってやりたい」
するりと私の髪をなでる彼の、怒気を含んだ低い声音を耳にして、自分からろーくんの広い背中に腕を回す。
「ろーくんのおかげで、幸せに上書きされたよ。ありがとう」
「それなら、良かったけど……早く、大学生になりたい。そうしたら、堂々とりょーちゃんを俺の恋人だって紹介できて、表立って守れるのに」
「私は、今すぐにでもいいんだけど」
「でも大人なりょーちゃんに、俺みたいなガキは、不釣り合いだろ」
ろーくんは私との三歳の年齢差をとても気にしている。幼い頃から何をするにも一緒にいたが、私だけ一足先に中学生になったとき、小学生のろーくんの狼狽は、それは凄まじかった。次に自分がやっと中学に入学したと思ったら、今度は私は高校生になる。全然追い付けないことに絶望したらしい。
だから、中学生になった彼は宣言した。
学年が重なる大学生になったら、改めて私に交際を申し込むと。それまでは、早く大人になれるよう自分を磨くと。
ろーくんは意志が強い人で、高校二年生となった今も、律儀に忠実にそれを守っていた。
ふてくされたようなろーくんに、私はにっこりと微笑む。
「そんなことない。ろーくんみたいに落ち着いていて、かっこよくて、心のあったかい人なんて、どこにもいないもん。私にはもったいないくらい、素敵な人だわ」
「……何で、りょーちゃんはそんなに優しいの? もう……こんな、面倒くさい俺で、ごめん。でも、りょーちゃんがいないと、俺は生きていけない、から」
ろーくんの長めの前髪の隙間から、形のよい眉がキュッと寄せられる。私の顔を両手で挟み、唇のすぐ横に、そっと優しいキスを落とした。そしておでことおでこをコツンと近付け、優しく呟く。
「俺、早く大人になって、りょーちゃんを迎えにいくから。誰のものにならないで、待ってて」
「うん、もちろんよ」
だって、私もろーくんのこと、大好きだから。
そう伝えると、ろーくんは赤くなった自身の頬を隠すように、私の首もとに顔を押しつけた。
しばらく互いの体温を堪能したのち、家路に付いた。ろーくんはなごりおしそうに手を離して、隣に家へ帰っていった。
私は自分の部屋へ戻ると、すぐさまスマホでとある人物に電話をかける。
「もしもし、秀幸おじさん? うん、涼子です。うん、アルバイト、何とか頑張ってるよ。ちょっとお願いしたいことがあるんだけど……」
数日後、またアルバイトが入っていたのだが、心配だからと言ってろーくんが付いてきた。
ろーくんは私のうなじが気になるらしいが、私はろーくんの固く握り締めた右手が心配だ。
とりあえず連れ立ってカフェへ向かう。
店の裏側にある従業員専用出入口で、ろーくんと別れようとすると、店の中から調理を担当する女性のパートさんがごみ袋を両手に、慌ただしく現れる。
「お疲れさまです」
「あ、中村さん! わあ、彼氏イケメンねぇ。そうそう聞いた? 長澤さん、やっと辞めさせられたみたいよ! 誰かがこの店でのセクハラの証拠を上層部に渡したんだって。すぐさま本社に呼び出されて即刻クビ、店長は従業員の教育不足とアルバイトの苦情をしっかり把握していない責任を取って、別店舗で平社員になるみたい。店長はちょっとかわいそうだけど、長澤さんはせいせいしたわ! というわけで、本社の別の社員さんが来るまで忙しいから、働いてまもないのに悪いけど、覚悟して!」
早口で事情を説明してくれたおしゃべり好きのパートさんは、ゴミ捨て場に向かおうとした足を止めて、はたと私を見つめた。
「ねえ、中村さんって、まさか『ナカムラコーヒー』の中村秀幸社長の娘さん、とかじゃないわよね? 長澤さんが女の子たちにセクハラしてるのを社長に伝えてくれた、とか?」
「いえ、娘ではないですよ。でも事情はわかりました。ゴミ袋、私捨ててきます。戻ったらすぐに制服に着替えてホールに入りますね」
「助かるわ、注文が溜まっているの。ありがとう、お願いね! あっ、その新しい髪型似合ってるわよ」
「ありがとうございます」
ゴミ袋を受け取ると、パートさんはバタバタと店内へ戻っていった。その後ろ姿に、心の中で呟く。
娘じゃなくて、姪なんだけどね。長澤さんに声をかけられたとき、スマホの録音機能をオンにしておいてよかった。秀幸おじさんもすぐに動いてくれたし、これでみんな安心して働ける。それに、ろーくんも。
私は何事もなかったかのように、ろーくんを見上げて微笑んだ。ろーくんは鋭い目付きで何事か考えている。
「ろーくん、ゴミ捨ててくるから、またね……」
「全部、りょーちゃんがやったの?」
「何のこと?」
「俺があのおっさんを、一発殴らないと気が済まないのわかってて、それを回避させるために、秀幸おじさんにお願いしたんだろ?」
「ろーくんの手が痛むと、私も辛いもの」
「感情のセーブができてこそ、大人の余裕が生まれるのか……これじゃあ、いつまでたってもりょーちゃんに見合う大人になれない……」
悔しがるろーくんは、私の手からゴミ袋を横取りし、軽々と担いでゴミ捨て場に置いてくれた。
私はそのたくましい背中を惚れ惚れと見つめる。
十二年前、隣に引っ越してきた五歳のろーくんは、華奢で小柄な美少年だった。
親同士が仲良くなり、すぐに二人で公園へ遊びに行ったときのこと。他の子供たちから中性的な容姿をからかわれ、まるで子犬のように瞳を潤ませて、ろーくんは涙を我慢していた。
八歳の私は、そんないじらしい彼を初めて見た瞬間、激しい独占欲が芽生える。
この子の全てが欲しい。自分のものにしたい。誰にも渡したくない。
恋や愛という概念は後から知った。
それからは、いつでもろーくんの味方でいた。もちろん悪いことやいけないことはしっかり注意したけど、口下手で人付き合いが苦手な彼が困っていたら、すぐに手を貸した。ろーくんが私になつくのは、そもそも私がろーくんを助けてきたからだ。
成長したろーくんは、子犬のような美少年から、若い狼のように凛々しい青年へ変貌していく。
私の前でも、子供の頃のような甘えたがりのかわいい子犬みたいだったり、危険から守る番犬かと思えば、飢えたオスの狼のように私を狂おしく求めたり、いろんな顔を見せてくれる。
私はうなじをなでる風を感じながら、ろーくんに声をかける。
「ねえ、どうして私が髪の毛をロングからショートにしたか、わかる?」
「わかんない。どっちも似合ってて、きれいだけど」
「これから伸びていく私の髪に触れられるのは、ろーくんだけってこと」
ろーくん、顔が真っ赤。意味がわかったようだ。他の男が触った髪なんて、残しておく価値もない。
私に触れるのはあなただけ。
あなたに触れるのは私だけ。
大きくなるにつれて、強くて美しい狼に近付いていくろーくん。
知ってる? 狼は、番と一生添い遂げるのよ。
私の狼くん。
重い愛なら、負けないんだから。
大神朗くんイメージ(イラスト:加純様より)
ここ最近、年下ヒーローと年上ヒロインの組み合わせにハマってます。
ヒーローが大人なヒロインに追い付こうと必死な様子に、胸キュンするようです。
そして余裕ぶっているけど、実はヒーローを溺愛していて独り占めしたいヒロインも好きで。
共感してくださる方がいたら、嬉しいなぁ。